4-6 自作してみようかなと思った
鍵を開けて、音がしないように恐る恐る自分の部屋のドアノブを捻った。
ひょっとしてもう一人の僕が寝ているんじゃないかと、ちょっと怖かったからだ。
だけれどもそっと覗き込んだ部屋には誰も居なくて、ベッドの上にもクシャクシャになった毛布があるだけだった。誰の気配も無く、ただ、がらんとした無人の静けさだけがあった。
どうやら昨日の僕はもう時間を遡った後だったらしい。何だか納得いかないけれど。
こんな不可思議な現象をまるっと全部受け容れている自分がさらに不可思議だった。
そしてひょっとするとキリエさんは僕が僕と鉢合わせしないよう慮って、あの屋台でラーメン談義を繰り広げてくれたのではなかろうか。そんな具合にも思うのだ。
一息入れるとそのまま風呂に入った。
朝風呂というのも妙な感じだが思いの外に歩き回って地味に汗をかき、そのままで居る気分じゃなかったからだ。先程ラーメンを食べたばかりなので朝食はミルクを一杯飲んだだけで済ませた。
窓の外はもう明るかった。
本日は思わぬ成り行きから思わぬ休日となった。
溜まっていた洗濯物を洗い部屋の掃除をし、コーヒーを煎れて一服した。こんな朝早くからボンヤリと呆けるなんて久しぶりのことで、よくよく考えてみたら就職してから初めてのことではないかと気が付いた。
窓の外を駐車場に停めてあったクルマが出勤の為に通り抜けてゆく。そういえば今日は平日だったのだと改めて感じてまた妙な気分になった。
しばらくの間、見るともなしに窓の外の風景を眺めていた。
テレビの声も音楽もない部屋の中はやけに静かだった。そしてふとオーボエを触ってみたくなった。先ほど屋台で吹いたチャルメラに図らずも触発されてしまったのだ。
思い立ったが吉日、直ぐさまクローゼットのドアを開いた。
奥に押し込んでいたにも拘わらずケースは埃まみれだった。どれ位これを手にしていなかったのだろう。少なくともここ一年来は記憶になかった。学生だった頃には吹かない日などなかったというのに。
ケースの中の桿体は埃一つ付いてなかった。
キーは銀色に光っていて納めた時そのままの姿でそこにあった。組み立てて管楽器然とした形を取り戻すと、しっくりと手に馴染んだ。当り前のことなのに何故か嬉しくなった。
でも一緒に入れていたリードが割れていたのは残念だった。気に入っていたリードだったのに。
まぁ仕方がない。リードの寿命なんて保って三ヶ月だし。
封を切っていないリードセットが一緒に入っていたので、出して確かめてみた。
一セット五個の中、当たりが一つでまぁ使える物が三つ。一つは外れだった。勝率としては悪くないが、どうしてこうもリードは莫迦高いのか。
自作した方が断然に安上がりで、自分好みのリードに仕上げることも出来るらしい。でも生憎僕はソコまでの技術がなかった。
いや、作ろうとする気概が無いと言い換えた方が正しいのかも。
二分ほど水に浸け置いた当たりのリードをセットして、試し吹きしてみた。
音が出る。ああ、と気持ちが華やいだ。久しぶりだ、と思った。
もうどれくらい演奏して居なかったのだろう。
隣の住人はもう出社した後だよな。
念の為にベランダに出て、隣の部屋との仕切り板越しに覗き込んでみた。
窓にはカーテンが引かれていた。間違いない、隣人は留守である。少なくとも帰ってくるまで怒鳴り込まれる心配はない。昼間の間なら演奏出来そうだ。ほっとすると何を吹こうかなと思った。
少し迷った後に「チャルメラ」を吹いてみた。
キリエさんの談によれば、楽器の名前らしいからそう呼ぶのは間違っているのだろうけれど、世間一般的にはこのフレーズをそう呼んでいるのだから問題ないと思う。
チャルメラはやはりチャルメラなのだ。
でもオーボエの音色で奏でると何とも言えない違和感があって、思わず笑ってしまった。やはりコレは本物で吹くのが正解なのである。
高校のあの先輩だったら、「楽器で遊ぶな」とか言って喚くんだろうな。
今思えば、自分が正しいと思う事にコテコテに凝り固まったヒトだった。もう名前どころか顔すら思い出せなくて、トゲトゲの剣幕が頭の片隅にこびりついているだけだ。
でも記憶とワンセットだったドロリとした感情は見る影もなかった。すっかりさっぱりオーボエの音色に薄められて、どうでもイイくらいに小さくなっていた。
やっぱりオーボエが好きなんだと思った。もっと正確に言うのなら「音を奏でる」こと、それ自体が僕をかき立てて居るのかも知れない。
おふざけでもワンフレーズ吹くと気分が乗ってきて、ケースと一緒に仕舞い込んでいたスコアを引っ張り出し、オーケストラのソロパートやピアノやバイオリンとの協奏曲をソロで吹いてみたりもした。
息の余るオーボエはブレスが長くて、高校の時にもよくミスをした。その都度に注意されていたけれど、三年生になる頃にはある程度克服できていた。
なのにどういうコトだろう、今ではもうてんでダメダメだ。
指も全然ついていかないし、以前は得意だった曲目も目を覆わんばかりの惨状である。やはり日々休まず研鑽を積まないとすぐに劣化するのだと思い知った。
それでも二、三曲ほどこなすと少し勘が戻って来て幾分聞ける演奏になっていった。大学生の頃に、社会人で趣味で演奏する奏者と何人か知り合いになれたけれど、皆昔のようには出来ないと自嘲した。
ただの謙遜だろうと思っていたが今なら分る。仕事をしながら練習だなんて簡単にできるものじゃない。
独り身の自分ですらそう思うのだから、結婚して家庭を持てば尚更だろう。ましてや、肝心の演奏する場所が無いのだ。
いや、演奏を許される環境が無いと言い換えた方が正しいのかも知れなかった。
学校という狭くて教職員に管理された空間はあまり好きじゃなかったけれど、今更ながらに場所も時間も恵まれた環境だったのだと知った。
次の曲は何にしようかと過去に溜め込んだ楽譜を物色していたら、窓にこつんと何かが当たる音がした。最初は虫か何かかと思ったのだが、立て続けに二回三回と当たると何事かと思う。
窓を開けてみると一人のおばあちゃんがこちらに向けて、何かを投げようとしているところだった。
「やっと気付いたね、あんた」
憤慨しながら手に持っていたものをポイと足元に投げ捨てると、それは小さな小石だった。そんなものを窓に投げつけていたのかと少し呆れた。
「朝からぷうぷう五月蠅いよ。この辺りは静かだからと思って引っ越して来たのに、台無しだわ。周囲の迷惑というものを考えな」
随分と派手な化粧のおばあちゃんだった。
真っ白な白髪はぼわぼわと膨らんでいて、漂白剤にでも漬け込んだかのような白粉で真っ白な顔に、濃い紫のアイシャドウと真っ赤な口紅を塗っていた。
着ているものもピンクだの白のレースだの色とりどりで、これから夜のお仕事にでも出かけるのかと思えるほどの格好だ。
それに朝とか言うけれど、もうお早うございますではちょっと遅いかな、っていう時間帯だ。まぁ確かに午前中であることは間違いないけれど。
「お祭りじゃあるまいし、非常識なんだからね。あたしがレナちゃんの散歩でたまたま通りがかったから言うけれど、此処のご近所さんも迷惑だと思っているに違いないよ」
見れば片手に握ったリード紐の先には小さな白い毛玉みたいな犬がつながれていた。目が合うとひゃんひゃんと情けない声で吠えている。
成る程、このひとは犬の散歩で通りすがっただけという事か。
でもこのアパートは路地から枝道を少し入った行き止まりにあって、うっかり入りこむような場所じゃあない。付近に住んでいる人なら尚更だ。
あの、あなたが立っているその場所はここの敷地内の駐車場で、散歩がてら勝手に入り込んでよいところじゃないと思うのですけど。
「ちょっと、あたしの話を聞いてんの。薄らボンヤリとした顔でとぼけているんじゃないよ」
キンキンと甲高い声が周囲に響いていた。元気なものである。この小さな身体でよくもこれだけ大きな声が出せるものだ。しかし果たしてこの老女の声は、この近隣で五月蠅くはないのだろうか。
口論する気にもなれなくて「分りました」と答えた。注意しますと頭を下げたら気が済んだのか、「これから気を付けなさい」と捨て台詞を残して去って行った。
まったく若い子は躾がなってないとか何とか、ブツブツ聞こえよがしな独り言が路地の向こう側に消えてゆき、そこでようやくヤレヤレと溜息を吐き出した。
そういえば時々此処の駐車場で犬のウンコを見かけた。そして彼女が、飼い犬の粗相を後始末する為の道具を何も持っていなかったことにも気が付いて、もう一度ヤレヤレと肩を落とした。
しかしこれで怒鳴られたのも二度目だ。窓を閉め切っていたというのに、音は思った以上に漏れ出るものらしい。周囲が静かなので余計に目立つのかも知れなかった。
「都会はよく世知辛いとか言うけれど、田舎もそうとうなもんだよなぁ」
SNSでもだいぶ前に、田んぼで鳴くカエルが五月蠅いから土地の持ち主は黙らせろとかいう理不尽な話が投稿されていて、非常識だと反対する話題で盛り上がっていた。
僕の体験談もSNSで愚痴ったら誰か聞いてくれるだろうか。
それとも逆に窘められるのだろうか。
演奏の駄目出しは喰らったけれど、以前隣の部屋の男性から怒鳴り込まれた時ほど落ち込みはしなかった。
どうあっても、部屋で演奏など出来はしないと改めて身に染みて、何処か別の場所を捜そうという気持ちが湧いて来ていたからだ。
何故こんな前向きになれるのかよく分らない。でも悪い傾向じゃないだろう。以前の自分なら間違いなく、叩かれてヘコんだままであったろうから。
ふと、オーボエのリードは買うのではなく自作してみようかな、と思った。




