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寄り道ありマス  作者: 九木十郎
その4
22/35

4-5 自分の足音だけがやけに耳に付いた

 僕とキリエさんの掛け合いを尻目に、親父さんはさっさと調理に取りかかっていた。

 口元は笑んでいたが我関われかんせずといった感じだ。もしかすると気軽にチャルメラを手渡したのも、キリエさんに絡まれないようにする為の投げ餌だったのかも知れない。

 お陰で僕は一人で彼女の相手をする羽目になっている。


「吹いてみるとよく分ります。さあ、啓介さんもどうぞ」


 渋々受け取って手にしてみるとそれは普通に管楽器だった。しかも吹き口はオーボエと同じダブルリードだった。何というか、思わぬ出会いに驚いた。


 でもこのまま吹いたら間接キスになるけれど、キリエさんは気にしないのかな。


 更にその前、親父さんが吹いていたということは考えないことにする。独特のリードに戸惑ったけれど、一小節分の音階ならば苦労はない。

 吹けば夜空に音色が染みていった。久しぶりに吹く楽器だった。そして何かつっかえていたモノが、ちょっとだけ解れていく感じがあった。


「お兄さん上手いねぇ。普通、一発じゃそんな綺麗に鳴らせないよ」


 親父さんが食いついてきて「何かやっているのかい」と言われた。「オーボエを吹いています」と返事をしたが、「悪い、その楽器は知らないなぁ」と苦笑された。

 確かに一般的な楽器とはえず、知っている人間は音楽に携わった者くらいじゃなかろうか。


 とあるクラシック音楽のマンガで一部のファンに知られるようになったけれど、それは例外中の例外だ。

 逆にキリエさんは興味津々(きょうみしんしん)といった感じで、「どんな楽器なのですか」と訊いてくるものだから「クラリネットの親戚」と答えた。


「でも厳密に言えばチャルメラの方が近いのかも知れない」


 同じダブルリードの楽器だし、クラリネットの方はシングルリードだ。


「なんという奇縁でしょう。啓介さんはチャルメラに導かれし者だったのですね」


 い、いやぁそれはどうかな。


 小首を傾げていたら「へい、お待ち」とチャーシュー麺が突き出されてキリエさんが受け取り、少しの間を置いて僕ももやしラーメンを受け取った。


「この馥郁ふくいくたる香りとスープに浮かぶチャーシューの色合い。正に至高です。チャルメラの音色に乾杯といった心持ちです」


「感じ入るのも良いですが、冷めないうちに食べましょうよ」


 やたらテンション高めだけれど、食べている間くらいは大人しいのではなかろうか。だがその考えは甘かった。麺をすすりながらでも彼女のご高説は止まらない。


 スープの香りから麺の味と風味に始まり、滔々(とうとう)と定番の何たるかを語り始めたその口調は随分と熱かった。

 麺を咀嚼そしゃくしレンゲでスープ口にしながらキリエさんの講釈は続き、ついでに餃子二人前も平らげてからようやく結論へと至り、会計と相成った。


「お分かり頂けたでしょうか」


 彼女は満足げな顔だった。相変わらず口元しか分らなかったが、かもし出す雰囲気は言うべきことは全て言い切った、という達成感を感じとれた。


「キリエさんのラーメンを思う気持ちはよく分りました」


 僕は財布をジーンズの尻ポケットに押し込みながら、納得した風の返事をした。


 そろそろ自分の部屋に戻った方が良い。このままなし崩しに付き合っていると、本当に夜が明けてしまいそうだ。チラリとスマホで確かめてみれば、それもあながち誇張じゃないと知った。

 あと一、二時間で東の空は白み始める頃合いだろう。


「お話出来て楽しかったです。次はどのお店でデートしますか。ご希望があれば出来る限り応えたいと思います」


「え、デ、デート?」


「違うのですか。少なくともわたしはそのつもりだったのですけれども」


 急にそんな風に言われても困る。嬉しくないと言えば嘘になるが正直かなり戸惑った。これは何と返事をすればよいのだろう。違うと言えば失礼になりそうだし、そうだねと容易くうなずくというのも軽薄な気がする。


 なので、しばし逡巡しゅんじゅんした挙げ句、


「次に会うときまでに考えておきます」


 と応えた。


「そうですか、楽しみにしています。それではごきげんよう」


 そして彼女はいつものように、にっと笑って路地の奥に消えていった。すらりとしたその背筋はいつも何処どこはかなげに見えた。

 いつも落ち着いていてるがず、そして懇切こんせつ丁寧ていねいな物腰とは異なる希薄さがあった。


 それはあの「普通のレストラン」で出会った淡い印象の給仕にも似ている。

 まるで風にらぐ紫煙のように、あるいは池に落ちた小石の波紋のように。

 何かの拍子に僕の目の前から消え失せてしまうのではないか。突然忘れ果てて二度と思い出す事もないのではないかと、そんな根拠の無い不安に駆られて、非道く落ち着かなく為るのである。


 だからいつも僕は、見えなくなるまでその後ろ姿を見送るのだ。


 確かに彼女は自分が良く知る現実の存在じゃあない。

 異質と言えば言葉が過ぎるが、少なくとも在り来たりで平凡至極な日常風景とは、半歩外れた世界の住人だろう。彼女が普通ではないのは百も承知。でも、もう会えなくなるというのは正直嫌だ。


 まぁ別に、コレが今生の別れという訳でもないのだけれど。


 楽しみにしていますと言ってくれたのだから、きっとまた会えるのだろうけれど。


 それに顔の無い女性に何の違和感も持たなくなった僕も、普通とはちょっと云えないのかも知れない。まぁそれならソレでも構わないのだけれども。


 思わず苦笑が漏れた。慣れというのは実に不思議だと思う。

 それに気さくな知人が増えるのはむしろ喜ばしい事ではなかろうか。彼女は確かに変わっているが一緒に居て不快じゃないし、むしろ逆にホッとする。それに何かと助けてもらった恩もあるのだ。


 これを好意と呼ぶのなら、確かにそうなのかも知れなかった。


 短いボブカットの後ろ姿も足音も、全部消えてしまってから初めてきびすを返した。

 後ろでがちゃがちゃとラーメンの器や餃子の皿を洗う音が聞えていたが、足を進める内にそれもやがて遠ざかって聞こえなくなった。そして歩きながら彼女の言葉を思い出すのだ。


 受けた不条理の分だけ楽しい事を増やす、とかなんとか。


 うーむ。


 僕はそこまで多趣味じゃないし、次から次へと新しいことに挑戦出来るほどエネルギッシュな訳でもない。でも、昔やりかけて中断していたことを、今もう一度やり直してみるというのは悪くないかも知れない。

 直ぐには、ぱっと思い出せないけれど、お手付きのまま残って居るモノは割と多そうだ。


 見上げる夜空に月は出ていなかった。

 でも、星は意外にキレイに見えた。


 路地を歩く自分の足音だけがやけに耳に付いた。

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