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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

元聖女の隠し子はお母さんを見守りたい

作者: 鈴木かなえ

氷雨そら先生・キムラましゅろう先生主催のシークレットベビー企画参加作品です。


 太陽の光も月の光も届かない、表の世界からは隔絶された、ただ闇だけが満ちている世界。

 その虚空に、一人の少女が漂っている。


 風もないのにゆらめく長い銀色の髪は、毛先からじわじわと周囲の闇と同じ色に染まりつつある。

 

 少女はその体を丸めるようにして、無数の蛇が一塊になったような、闇色をしたものを大切に抱えている。

 まるで、卵を温める親鳥のように。 


「いい子、いい子よ……お眠りなさい、私の可愛い子……」


 少女が歌う子守歌が、闇に飲まれて消えていく。

 

 嫋やかな手が愛しそうに撫でると、蛇がのたうつようにその表面が蠢く。


「ふふふ……私の赤ちゃん……」


 白い頬を寄せてうっとりとした表情で囁くが、そのアメジストの瞳に映るのは闇より昏い絶望の色。

 

「もうすぐよ。もうすぐ、あなたのお父様に会えるわ……」


 そうしたら、家族で暮らすのだ。

 互いを慈しみ合い、惜しみない愛情を捧げ合って、ずっとずっと幸せに。

 

 だって、そう約束したのだから。


 その約束だけを心の支えに、私は……


「楽しみね。早く会いたいわね……」


 本来は髪と同じ輝く銀色をしていた少女の魔力は、深い絶望と悲哀と憎悪に染まり闇と同じ色へと変わり果てた。


 その魔力は、ひたすらに少女が抱える闇色の塊へと注がれ続けている。


 闇色の塊が、蠢きながらドクンと脈動した。


「そうよ、あなたのお父様はとても素敵な方なの。

 あなたもきっと大好きになるわ」


 少女はぎゅっと塊を抱きしめた。

 

「いい子、いい子よ……お眠りなさい、私の可愛い子……」


 闇しかない虚空に、子守歌が響く。

 澄んだ軽やかな声なのに、さらに周囲の闇をさらに深くしていくような、そんな歌声。


 少女の腕に抱えられた塊は、闇に染まった魔力を一身に受け、子守歌を聞きながらじっと孵化の時を待っている。


◇◇◇◇


 リスティラ王国の王都には、創世の女神を祀る神殿がある。


 ある晴れた春の日、神殿内には国内外から集まった貴族たちがそれぞれに着飾って居並んでいた。


 彼らは全員、壇上にある女神像の前に佇む一人の青年を見上げている。

 

 やや線が細い印象はあるが優し気に整った容貌の青年の名は、エサイアス・リスティラ。

 

 今日二十歳になったばかりの、リスティラ王国の王太子だ。


 王家の血統を現す輝く黄金の髪と新緑のような碧の瞳が、豪奢な婚礼衣装によく映えている。


 今日は彼の誕生日を祝うとともに、彼の結婚式が執り行われるところなのだ。


 扉が開き、ついに今日のもう一人の主役である花嫁が姿を現した。


 新たな王太子妃となるのは、マルガレータ・ハスティ。

 彼女はハスティ侯爵家の令嬢であるだけでなく、女神に愛された聖女として名高い。


 父である侯爵にエスコートされながら、しずしずと歩く少女。

 繊細なレースと大粒の真珠をふんだんにあしらった純白の花嫁衣装に、貴婦人たちはそろって溜息を漏らす。


 エサイアスは蕩けるような笑顔で彼女を迎え、そのレースの手袋に包まれた華奢な手をとって壇上へと導いた。


 彼が花嫁の顔を隠していたヴェールをそっと上げると、艶やかなストロベリーブロンドに縁どられた顔が露わになった。


 可憐というよりは勝気そうな印象が強い、美しい顔立ちの少女だ。

 アメジストのような瞳は今日という日を迎えた幸福に潤み、エサイアスに輝くような笑みを向ける。


「信じられないくらいきれいだ。愛しているよ、僕のマルガレータ」


「私も愛しています、エサイアス様。

 二人で幸せになりましょうね」


 手を取り合う二人が交わす視線には、互いへの深い愛情が垣間見える。


 絵になる王太子と聖女の姿に、人々はこの国の明るい未来を思い描いた。


 天上におわす女神様も、きっと若い二人を祝福してくださっていることだろう。


 誰もがそう思って、疑わなかった。

 それくらい理想的な、まるでおとぎ話の幸せな結末がそのまま目の前に再現されているかのような、そんな光景だと、その場にいる全員が思っていた。


 新郎新婦が二人揃って女神像の前で永遠の愛を誓い、口づけを交わす。

 それを皆が見届けることで婚姻が成る、というのがこの国の結婚式の習わしだ。


 とても幸せそうに見える二人だが、ここまでの道のりは順風満帆だったわけではない。


 エサイアスは、以前は別の婚約者がいた。


 マルガレータの異母姉で、稀代の悪女としてその名を轟かせたセラフィーナ・ハスティだ。


 セラフィーナは由緒正しい侯爵家の長女でありながら、本物の聖女であるマルガレータを陥れて自分こそが聖女であると騙り、王太子妃の座を手に入れようとした大罪人だ。

 

 心優しいマルガレータはどうにか姉を諫めようとしたが、欲に目が眩んだセラフィーナには妹の言葉に耳を貸すことはなく、マルガレータは途方に暮れていた。


 そんな時、まるで運命に導かれるように彼女はエサイアスと出会ったのだ。


 二人はすぐに惹かれ合うようになり、やがて力を合わせてセラフィーナの罪を暴くことに成功した。


 そうして晴れて聖女としての力を取り戻したマルガレータは、エサイアスの新たな婚約者となったのだ。


 逆境にめげることなく立ち向かった二人の物語は歌劇になって市井にも広く知られるようになり、今や国内外の平民たちからも二人は大人気だ。


 そんな二人の晴れ姿を一目でも見ようと、今日は早朝から神殿の外には多くの市民が詰めかけている。


 神官に促され、二人は女神像の前で両手を握りあった。


 まずはエサイアスが誓いの言葉を述べようと、口を開きかけたその時。


 雷のような、陶器が砕けた時のような、ガラスを鋭いものでひっかいた時のような、なんとも耳障りな大きな音が神殿中に響き渡った。


 何事かと皆が音が聞こえた方向へ反射的に目を向けた。


 皆の視線が集まったのは……壇上にある女神像。


 ちょうどそのあたりから、不可思議な音が聞こえたのではなかったか。


 皆が戸惑う中、また同じ音が先ほどよりも大きく響いた。


「神官! 何が起きているんだ!」


 エサイアスの問いかけにも、神官たちはオロオロするばかりで答えることもできない。


「エサイアス様!」


 不安げな表情のマルガレータが身を寄せる。

 

 周囲に控えていた護衛騎士たちが危険を察知し、壇上の二人を避難させるべく手を伸ばす。


 だが、その手が届くことはなかった。


 いつの間にやら床から黒い蔦のようなものが生えてきており、気が付いた時にはそれがその場にいる全員の体に絡みついていて、もう誰も首から下を動かすことはできなくなっていたのだ。


「なんだこれは! 誰か! 誰か、何とかしろ!」


 そうは言っても、騎士たちも誰一人身動きが取れない。


「エサイアス様……」


「大丈夫だよ、マルガレータ。きっとすぐに」


 助けが来ると続けようとした彼だったが、また鳴り響いた音に遮られた。


「女神像が……!」


 誰かが叫んだのが聞こえた。

 

 正面に目を向けると、花冠を頭に載せ両手を大きく広げた姿の女神像の頭から爪先まで、真っすぐに黒いヒビが走っている。


 そして、バリンと音をたてて女神像は崩れ去った。


 リスティラ王国の建国時に造られたという古く由緒正しい女神像は、本物の女神から祝福を受けているとされていたのに。

 それが、あっさりと砕けてしまったのだ。


 あまりのことに言葉を失う人々。


 彼らの目には、また信じられないものが映っていた。

 

 女神像のあった位置に、なにやら黒いものがある。


 あれは、ヒビだ。


 女神像を真っ二つに割るように走ったヒビだけが、女神像が崩れた今も変わらず残っているのだ。


 そんなのおかしい。

 あれはなんだ?


 もう女神像はないのに、ヒビは音を立てて縦にも横にも広がっていく。

 

 どうやらそれは、空間自体にヒビが入っているのだと大半の人々が悟った時は、すでに女神像があったのと同じ位置にぽっかりと真っ黒な異空間へと繋がる穴が姿を現していた。


 大きさは、人が一人楽に通り抜けられるくらいだろうか。

 穴の中を覗いても、そこにはただ漆黒の闇があるだけで何も見えない。

 

 突如として現れた真っ黒な穴と同じ色の蔦に囚われた人々の耳に、鈴を転がすような若い女性の声が届いた。


「エサイアス様」


 親し気に呼ぶ声は、マルガレータのものではない。


「な……この声は……」


 驚愕な表情になるエサイアスの隣で、マルガレータの顔色が悪くなった。


「セラフィーナ……セラフィーナ、なのか⁉」


 彼が口にしたのは、彼自身が悪女として断罪した元婚約者の名だった。


 それに答えるように真っ黒な穴から真っ白な腕がにゅっと現れた。


 若い女性の嫋やかな左腕だ。

 

「エサイアス様」


 左腕に続いて、右腕。

 

 白い両腕は、エサイアスに向けて伸ばされている。


「エサイアス様」


 そして、声の主がついに姿を現した。


 漆黒の艶やかな髪を背に流し、同じ色のドレスをまとった、マルガレータと同じ年頃の少女だ。


「セ……セラフィーナ……」


「エサイアス様……お会いしたかった」


 花がほころぶように微笑むセラフィーナ。

 はっとするほどのその美しさに、エサイアスだけでなく全員が息を呑んだ。


 あどけなさの残るその笑顔は、とても大罪人のものには見えない。

 まるで、穢れを知らない無垢な乙女のようではないか……。


「この日が来るのを、指折り数えて待っておりました。

 私たちの婚約が結ばれた、あの日からずっと」


 セラフィーナは六歳で聖女としての力が覚醒し、その翌年に王太子エサイアスと婚約した。

 

 ただし、その聖女の力は異母妹マルガレータから奪ったものということは、セラフィーナが断罪された後に正式に発表されている。


 だが、今の彼女のあどけなさの残るその笑顔は、とても大罪を犯した悪女のものには見えない。

 まるで、穢れを知らない無垢な乙女のようではないか。


 ここで、皆がセラフィーナの人柄をあまり知らないことに気が付いた。


 大罪人というその名だけが一人歩きしているが、実際に彼女と関わりをもったことがあるものが身近にいただろうか。

 私欲のために聖女の力を奪った強欲な女のはずなのに、その被害を受けたというものの話を聞いたことがあっただろうか。

 

 聖女の力はマルガレータに戻り、セラフィーナは本来のただの少女になったというのなら、この背筋が凍るような強大な魔力はどこからきているというのか。

 

 そして、果たして何が起きているのか。

 異母妹と元婚約者の結婚式をぶち壊しにして、いったい何をするつもりなのか。


「セラフィーナ、その髪はなんだ⁉

 これは、きみの仕業なのか⁉」


 彼女の髪は月光で染め上げたような銀髪だった。


 それが今は宵闇より昏い漆黒に染まり、まるで水中で揺蕩っているかのように彼女の背後でゆらゆらと揺らめいている。


 それは、人々の体に巻き付き動きを封じているのと同じ色と質感をしている。


 つまり、それは蔦ではなく彼女の髪なのだ。


「髪は……あなたを思うあまりに、変わってしまいましたの。

 でも、前の色よりもあなたはこちらのほうがお好きでしょう?」


 彼女の笑顔を真正面から見たエサイアスには、その瞳にはあるのは深い絶望と悲しみの光だというのがはっきりと見て取れた。 

  

 彼がマルガレータと共謀し、セラフィーナを断罪した時と同じ光だ。


「セラフィーナ! あんた、なんで!」


 マルガレータが叫んだ。

 その美しい顔は、恐怖でひきつっている。


 他にも怯えた表情を浮かべているものはたくさんいるが、真っ青になりガタガタ震えるほどの怖がっているのはマルガレータだけだ。

 

「マルガレータ、久しぶりね」


 セラフィーナはそんな異母妹に美しい笑顔を向けた。


「今日は私とエサイアス様の結婚式なの。

 お祝いに来てくれてありがとう」


「な……なにを言っているのよ!」


「エサイアス様の二十歳の誕生日に私たちが結婚することは、私たちが婚約した七歳のときから決まっていたことよ。

 あなたも知っているでしょう?」


 セラフィーナはゆっくりと集まっている人々を見渡した。


「ここにいる皆が、私たちの結婚を祝うために集まってくれているの。

 私たちが結ばれることで、リスティラ王国だけでなくこの大陸全体に女神様の恵が行き渡るのことになるわ。

 だって、私は聖女なのだから」


「嘘よ! そんな……嘘に決まってるわ!」


「嘘なんかじゃないわ。

 私が本物の聖女であることは、マルガレータ、あなたが一番よく知っているはずよ」


 さらに顔色が悪くなるマルガレータに、エサイアスも周囲の人々も顔色が悪くなった。


「どういうことだ! マルガレータ!」


「違います、エサイアス様!

 私が本物の聖女です!

 その女は、私からむぐぅっ」


 なにかを言い募ろうとしたマルガレータの顔の下半分にまで黒髪が伸びて絡みつき、その口を封じてしまった。


「マルガレータ、あなた空気が読めないのは今も変わらないのね。

 今は結婚式の途中なのよ。

 少し黙っていなさい」


 マルガレータは異母姉に似た紫色の瞳を見開いて必死にもがいている。


「さぁ式を続けましょうね、エサイアス様」


 差し伸べられたセラフィーナの嫋やかな手を、エサイアスの手が握った。

 正確には、握らされた。


 彼自身の意志でそうしたのではなく、体に絡みつく黒髪が強制的に彼の手をそう動かしたのだ。


 同時に、マルガレータは壇上から引きずり降ろされ、最前列にいた両親の前の床に縫い付けられた。


「セラフィーナ、きみが本物の聖女なのか?

 これは、聖女の力なのか?」


「そうですよ。

 少し見た目は変わってしまったけど、本物の聖女である私の力ですわ。

 とても素敵でしょう?」


 豊かな黒髪が揺らめく。

 花嫁衣裳も同じ色なので、まるで闇の中で彼女の白い顔と手だけが浮き上がっているかのようだ。


「エサイアス様……私がどれだけこの日を待ちわびていたか……」


 セラフィーナの手は温かく柔らかい。

 それが彼女もまた血の通った人間なのだとエサイアスに伝えてくる。


「私とあなたの大事なあの子も、ずっとこの日を指折り数えて待っていたのですよ」


「あ、あの子? 誰のことだ?」


「私たちの子ですわ」


「はぁ⁉」


「目元がエサイアス様にそっくりで、とても可愛い子ですのよ」


 セラフィーナは、女神像があった場所に開いたままの虚ろを振り返り、手を差し伸べた。


「さあ、出ていらっしゃいな」


 首だけ動かしてそちらを向いたエサイアスに、虚ろの内側から黒いものが突き出されるのが見えた。


 節がついて途中で折れ曲がったような黒く細長いものが四本まとまったものが、二組ある。


 それは虚ろの淵にとりつくと、ぐいっと虚ろの口を大きく押し広げた。


 どうやら、あの黒いものは虚ろの内側に潜むなにかの指であるらしい。


 大きく広がった虚ろの口の中心あたりから、ぬっと巨大な頭部が現れた。


 表面は虚ろの中の闇が具現化したかのような黒いヘドロ状のドロドロしたものに覆われ、少し開いた大きな口からはずらりと並んだ鋭い牙と、赤黒い舌が覗いている。


 だが、その瞳はエメラルドのような碧だ。

 それはリスティラ王家の色で、エサイアスの瞳と同じ色でもある。


「あらあら、この子ったら。

 初めてお父様に会うからって恥ずかしがっているみたい」


 セラフィーナは楽し気に笑うが、エサイアスもそれ以外も蛇に睨まれた蛙のように動けない。


「おいでなさい。

 お父様にご挨拶をしましょうね」

 

 まだ幼い我が子に呼びかける母親のようなセラフィーナの声に応え、それは虚ろからその巨体の全貌を現した。


 太い首、強靭な手足、長い尾。

 形はドラゴンのようだが、その表面は鱗ではなくヘドロで覆われており、ヘドロが滴り落ちると大理石でできた床がじゅうっと音をたてて溶ける。

 瞳だけは美しい色をしているのが、余計に不気味だ。


 ここは女神様を祀る、この大陸で最も古い神殿。

 そんな場所にこんなにも禍々しいものが現れたということは、女神様はこの存在をお許しなっているということなのか。


「ふふふ、お母様が言ったとおりだったでしょう?

 あなたのお父様は、とても素敵な方なのよ」


 それはセラフィーナの手に顔を擦り寄せ、尾を大きく振った。


 女神像の残骸とその側にいた神官たち数人がなぎ払われて、ヘドロが飛び散って創世神話をモチーフにしたレリーフが彫られた壁が歪に溶けていく。


「こ……これが、私の子だというのか……

 いったい、どういう……」


「婚約指輪の魔石を核に、私の魔力と聖女の力を注いだのです」


 二人が婚約を結んだ時、慣例としてセラフィーナにはエサイアスの魔力が籠められた魔石のついた指輪が贈られた。

 彼女はそれをとても大切にしていて、誰に何を言われても決して手放さなかった。

 断罪され投獄された時も、無理やり飲み下すことで奪われるのを防いだくらいだ。


「私たちの子ですわ。

 ふふふ、とても可愛いでしょう?」


「……」


 にっこりと笑うセラフィーナに、エサイアスはもう言葉もない。


「さあ、エサイアス様。

 二度と私たち家族が離れ離れになることがないように、この子に愛を誓いあいましょう」


「う……せら、ふぃーな」


 白い掌が、恐怖に青ざめ冷や汗に濡れるエサイアスの頬を包み込んだ。


「これからはずっと一緒です。ずっと、ずっとね」

 

 二人の唇が重なる。


 本来は女神像の前で行われるはずの誓いの口づけは、二人の魔力でつくられたという禍々しい存在により見届けられた。


『グゥアアアアアアアアア!』


 凄まじい咆哮が響く。

 

「みんなでずっと、幸せになるの」


 幸せそうに微笑むセラフィーナを見たのを最後に、エサイアスの視界は闇に呑まれた。



② 中編

「ん……」


 セラフィーナの長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開いた。

 カーテンの隙間から漏れる陽光から、もう朝だということがわかる。


「おはよう、セラ」


 声をかけられ隣に目を向けると、夫が優しく微笑んでいた。


「エサイアス様……」


 彼女は同じ寝台に横たわる彼の胸に顔を埋めた。


「どうしたの?」


「怖い夢を、見たのです」


 はっきりとは覚えていないが、とても長くて、とても悲しくて、とても怖い夢だった。


「大丈夫。全部夢だよ。

 なにも怖いことはない」


「そう、ですよね。

 あれは全部夢……」


 夫に抱きしめられながら、ほっと息を吐く。

 

「愛しているよ、僕の奥さん」


「私も愛しています」


 口づけたところで、隣の部屋からふにゃふにゃと泣き声が聞こえた。


「ああ、目を覚ましたようだね。

 僕がみてくるから、きみはもう少しゆっくりしておいで」


 彼はもう一度セラフィーナにキスをしてから、さっと寝台から起き上がり隣の部屋へと向かった。


 それを見送り、彼女は上半身だけ起こして背伸びをした。


 夢見は悪かったが、それ以外は気持ちのいい朝だ。

 どうやら天気もよさそうだし、今日は庭でランチかお茶をしてもいいかもしれない。


 そんなことを思っていると、エサイアスが戻ってきた。

 その腕には、リスティラ王家の血統を示す金髪と碧の瞳をした幼子が抱かれている。


「ほら、お母様にご挨拶をしようね」


「あーい!」


 父親にそっくりな可愛らしい顔立ちの幼子は、ついさっきまで泣いていたはずなのに今はニコニコと笑顔でセラフィーナに手を伸ばしている。


 彼女は幼子を受け取ると、その体を抱きしめた。


「いい子ね。私の可愛い子……」


 幼子の柔らかな金髪に顔を埋めると、かすかにミルクの匂いがする。

 とても幸せな匂いだ。


「この子も夢見が悪かったのかもしれないね。

 でも、もう大丈夫そうだ」


「ふふふ、そうですね」


 エサイアスは幼子を抱きしめる妻を抱きしめ、その頬にキスをした。


 そうこうしていると、侍女と乳母がやってきた。


 幼子は乳母に預け、身支度を整えてからエサイアスと二人で朝食の席に着く。


 今日のメニューは、チーズとハーブがはいったオムレツとポタージュスープ、新鮮な葉野菜のサラダと、小さなロールパン。


 それから、小皿に盛られた艶々としたオレンジ色の果実。


「あ、リリムベリー!」


 親指の先ほどの小さなベリーは、セラフィーナの好物なのだ。


「今年の初物だよ。

 採れたらすぐに買い付けるように手配しておいたんだ」


「まあ、そうだったのですか?」


 夫の優しさが嬉しい。

 艶々としたオレンジ色の果実を一つ口に含むと、爽やかな香りと甘酸っぱい味が口いっぱいに広がる。


「とても美味しいですわ。

 ありがとうございます、エサイアス様」


「きみが喜んでくれて、僕も嬉しいよ。

 また来年も一緒に初物を食べようね」


「はい、そうしましょうね」


 朝食が終わると、二人で庭園の散歩をすることにした。

 

 普段は王太子とそれを支える王太子妃として執務と社交に励んでいる二人だが、今日は二人とも仕事はお休みにして、一日ゆっくりと過ごすことになっている。


 庭師たちが手塩にかけた王宮の庭園は、常に隅々まで整えられ四季折々の花が咲き乱れており、ただ散歩するだけでもとても楽しい。


 途中、ガゼボで休憩してお茶を飲んだりしながら昼前に王太子宮に戻ると、両親の姿を見つけた幼子が元気に駆け寄ってきた。

 そして、その後ろにはセラフィーナの両親と妹の姿がある。


「お父様、お母様、マルガレータも!

 いつおいでになったの?」


 幼子を抱き上げたセラフィーナに、父は目を細めた。


「ついさっきだよ。

 ちょっと用事があって王宮に来たら、おまえの顔を見たくなってね」


「まあ、そうだったのですね。

 いらっしゃることがわかっていたら、きちんとお迎えしましたのに」


「いいのですよ。

 おかげで、可愛い孫と遊べましたからね」


 母は父の後妻なので、セラフィーナと血が繋がっていないが、年の離れた姉のように慕っている。


「お姉様、リリムベリーを持ってきましたの。

 一緒にお昼に食べましょうね!」


 エサイアスをチラリとみると、彼は優しく微笑んだ。

 マルガレータの好意を無にしないためにも、朝食にもリリムベリーを食べたことは内緒だ。


「ええ、そうしましょうね。

 リリムベリーは去年ぶりだもの、とても楽しみだわ」


 久しぶりに家族を迎えての昼食会は、とても賑やかだった。

 幼子もリリムベリーが気に入ったようで、口の周りをオレンジ色に染めながら頬張るのを皆で笑いながら見守っていた。


 両親と妹を見送ってからは、陽当たりのいいサロンでのんびりと過ごすことにした。

 

 セラフィーナは刺繍をして、エサイアスは幼子にせがまれて絵本を読んでいた。


 しばらくして、ふと静かになったことに気が付いてエサイアスたちのほうに目を向けると、二人は眠ってしまっていた。

 セラフィーナは起こさないように注意しながら、侍女が持ってきたブランケットをそっと二人にかけてあげた。

 そっくりな父子は寝顔もよく似ていて、彼女の頬は自然と緩んだ。


 穏やかで幸せな午後を過ごして、夕食は今度は国王夫妻の晩餐に呼ばれた。

 本来なら小さな子供は別室で食事をするものだが、家族だけなのだから堅苦しいのは必要ないということで、幼子も揃って席に着いた。

 国王夫妻も初めての孫をとても可愛がっており、小さな口でぱくぱくもぐもぐする幼子に目を細めていた。


「今日は一日ゆっくりするつもりだったのに、なんだか慌ただしかったな」


「そうですわね。

 でも、楽しかったですわ」


「そうだな。いい一日だったな」


 エサイアスに腕枕をされながら、セラフィーナは目を閉じた。


「おやすみなさい、エサイアス様」


「おやすみ、僕のセラ」


 額に夫のキスを受けたのを感じ、幸せを噛みしめながら彼女は眠りに落ちていった。



◇◇◇◇



「ん……」


 セラフィーナの長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開いた。

 カーテンの隙間から漏れる陽光から、もう朝だということがわかる。


「おはよう、セラ」


 声をかけられ隣に目を向けると、夫が優しく微笑んでいた。


「エサイアス様……」


 彼女は同じ寝台に横たわる彼の胸に顔を埋めた。


「どうしたの?」


「怖い夢を、見たのです」 


「大丈夫。全部夢だよ。

 なにも怖いことはない」


「そう、ですよね。

 あれは全部夢……」



◇◇◇◇



「ん……」


 セラフィーナの長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開いた。

 カーテンの隙間から漏れる陽光から、もう朝だということがわかる。


「おはよう、セラ」


 声をかけられ隣に目を向けると、夫が優しく微笑んでいた。


「エサイアス様……」


 彼女は同じ寝台に横たわる彼の胸に顔を埋めた。


「どうしたの?」


「怖い夢を、見たのです」 


「大丈夫。全部夢だよ。

 なにも怖いことはない」


「そう、ですよね。

 あれは全部夢……」 


◇◇◇◇



「ん……」


 セラフィーナの長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開いた。

 カーテンの隙間から漏れる陽光から、もう朝だということがわかる。


「おはよう、セラ」


 声をかけられ隣に目を向けると、夫が優しく微笑んでいた。


「エサイアス様……」


 彼女は同じ寝台に横たわる彼の胸に顔を埋めた。


「どうしたの?」


「怖い夢を、見たのです」 


「大丈夫。全部夢だよ。

 なにも怖いことはない」


「そう、ですよね。

 あれは全部夢……」 


 


◇◇◇◇



「ん……」


 セラフィーナの長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開いた。

 カーテンの隙間から漏れる陽光から、もう朝だということがわかる。


「おはよう、セラ」 








 っておい、コラ。


 何度同じこと繰り返せば気が済むんだよ。


 いくらなんでも、もういい加減飽きたわ。


 ず~~っと見せられてるこっちの身にもなってよね!


 え? 私は誰かって?


 私は……そう、私は、アレだよ。


 セラフィーナとエサイアスの魔力でできた、アレだよ。


 ドロドロヘドロドラゴンだよ!


 あの結婚式の直後、リスティラ王国を中心に大陸全体は奈落の底に沈んだ。


 お母さん(セラフィーナ) の願いを受けて、私がそうしたんだけどね。


 あれから、もう随分と時が流れた。


 ここはなにも変化はないのだが、おそらく数千回は外の世界の四季が廻ったと思う。


 その間、私がなにをしていたかというと。


 なにもしていなかった。


 正確には、ずっと眠り続けるお母さんと、お母さんが繰り返し見る幸せな夢を傍観するだけで、それ以外は本当になにもしていない。


 そして、そのことになにも疑問を持っていなかった。

 こういうものだと思って、ただ無為に時だけが過ぎていくのを受け入れていた。


 それが変わるのも突然だった。


 いつものようにぼんやりとお母さんを見つめていたところ、何の前触れもなく前世の記憶がよみがえったのだ。

 

 前世の私は日本という国で生きていた、様々なジャンルの小説や漫画を読むのが好きな、ごく普通の女性だった。

 はっきりとは覚えていないが、若いうちに事故死か病死したのだと思う。


 私はドロドロヘドロな自分の体を見下ろした。

 今も私の体からは、際限なくヘドロが流れ落ちて虚空の彼方に漂っていっている。


 これ、神殿の床を溶かしていたよね。

 強酸か猛毒か、その両方なんだろうな。

 外の世界の人間や動植物に害がある成分でできているのは間違いない。


 私は美人というわけではなかったが、一般的な倫理観を持ち合わせたごく普通の善良な人間だった。

 こんな姿で独りぼっちで暗闇に閉じ込められないといけないような、そんな罪を犯してなどいない。 

 それなのに、なんで私がこんな目にあわないといけないの⁉

 いくらなんでも、酷すぎるよ! 


 お母さんは夢の中で、お父さんとの幸せな結婚生活の一日を繰り返す。

 幸せな気分で目が覚めて、幸せな日中を過ごし、幸せな気分で眠りに落ちる。

 そして、また幸せな気分で目覚める、というのを数えきれないほど繰り返し続けている。


 夢の中では、全てがお母さんに優しい。

 お父さんも、ハスティ侯爵家の家族も、国王夫妻も、使用人たちも。

 

 それは、お母さんの願望の裏返しだ。

 つまり、お母さんはこのように扱われなかったということだ。

 

 お母さんは、創世の女神様の愛し子で、正真正銘本物の聖女だった。

 その慈愛に満ちた心により、大陸全体に女神様の恵を広め豊穣をもたらすことができるはずだったのだ。


 それなのに、誰もがお母さんを利用するか、お母さんから奪うばかりで、大切にすることはなかった。

 

 それでも、お母さんは頑張った。

 いつか報われるのだと信じて、きっと認めてもらえるのだと信じて、頑張り続けた。


 幼いころからの婚約者であるお父さんの存在は、そんなお母さんの心の支えだった。

 大人になったら結婚して、二人で力を合わせてリスティラ王国をさらなる繁栄に導くのだと、そう信じていた。


 だが、それは残酷に裏切られた。


 お母さんは深く絶望し、悲しみに暮れて……その魂に宿った聖女の力は反転した。


 そして、この奈落と私が生まれることになったわけだ。


 私は、私の足元にいるお母さんを見下ろした。


 お母さんは、お父さんの亡骸を腕にしっかりと抱いたまま幸せそうな顔で眠っている。


 お母さんは結婚式の時と少しも変わっていないが、お父さんはとっくの昔に朽ち果てて骸骨になっていしまっている。

 それはお父さんだけではない。

 

 マルガレータとハスティ侯爵夫妻はもちろん、国王夫妻、侯爵家の使用人たち、王宮の文官や騎士や侍女たち、神官たち……


 お母さんを虐げ軽んじた者の亡骸が、あちこちに散らばっている。


 そうでない者たちは、大陸が奈落に沈んだ際に命を落とし、その魂は普通に輪廻の輪に戻って別の大陸で新たな生を得ているのだが、ここに亡骸がある者たちは魂もまだここに留まっている。


 なぜそうなっているかというと、彼らはお母さんの夢の登場人物だからだ。


 お母さんの夢はただの夢ではなく、実際の魂が強制的に出演させられている。


 お母さんは王宮の中で幸せな休日を過ごすだけなのだが、お母さんが訪れることない神殿やハスティ侯爵家でも、ここにある亡骸に宿っていた魂たちが生前と同じように立ち働いている姿がある。


 こうして見ると、どの魂もかなりボロボロにすり減っている。

 際限なく同じ一日が繰り返されるという、なんとも不自然で歪な世界に長い間囚われているのだから、無理もないのだろう。


 ああ、でも、あの幼子だけは違うよ。


 あれだけは、完全にお母さんの理想と想像の産物だ。


 あの子は寝起き以外は泣かないし、イヤイヤしないし、おむつ代えも必要ないし、ずっとご機嫌でニコニコしている。

 お母さんは貴族令嬢で身近に小さい子がいたことがないから、幼児についての解像度が低いのだ。


 お母さんは、いつか子ができたら大切に育てようと思っていた。

 自分がしてほしかったことを、全てしてあげようと思っていた。

 

 名前も性別もなく、ただお父さんに似た顔をした幼子。

 お母さんの幸せな一日を構成する、重要な部品だ。


 あれってつまり、私なんだよね。

 

 現実の私は、とんだ化け物なのに。


 私は溜息をつきながら、自分の体を見下ろした。

 ヘドロがドロドロと流れ落ちるこんな姿では、この奈落を抜け出すこともできない。

 そんなことをしたら、生命の営みが今も変わらず続いている別の大陸にまで災厄をまき散らすことになってしまう。

 

 涙とヘドロが混ざりあって、ぼたぼたと足元に落ちた。


 お母さん、悲しかったね。

 最後の最後まで信じたいと願っていたからこそ、苦しかったよね。

 辛かったよね……

 

 お母さんの人生は、まるで前世の小説や漫画にでてくるドアマットヒロインそのものだったね。


 そんな過去を全て忘れて、幸せな夢だけを見続けたいっていう気持ちは、私にもわかるよ。


 でもね、夢はあくまで夢でしかない。

 お母さんが思い描いた願望が作り上げた、ただの幻なんだよ。


 実際、お父さんたちは転生もできないくらいに魂が傷んでしまっている。

 これではもう、来世で贖罪するというのも無理だろう。


 それにね、お母さん。

 私はどうなるの?


 真っ暗闇に閉じ込められたまま、これからもずっと眠り続けるお母さんをただ見守り続けるだけなの?


 孵化する前の私は、お母さんは魔力だけでなく愛情も感じていたよ。

 ただの魔石に魂を宿すなんて奇跡を起こすことができたのは、お母さんが聖女だったからだけじゃない。

 私を愛してくれていたからだよ。


 お母さんは、私が永遠に独りぼっちでいることを望んだわけじゃないでしょ?

 夢の中の幼子のように、元気に笑っていてほしいって願ったはずでしょ?

 私にも幸せになってほしいでしょ?


 私もね、同じだよ。

 お母さんに幸せになってほしい。

 

 夢の中の幸せは、本物じゃない。

 辛いこともある現実の中で、本物の幸せを掴んでほしい。


 誰かと心から愛し合う喜びを、お母さんにも知ってほしいんだよ。


 そうでないと、私もお母さんも、このままじゃ悲しすぎるじゃないの!


 奈落の世界に落ちてから初めて、私は声を上げた。


 女神様!

 そこにいるんでしょ⁉

 私の声、聞こえてるんでしょ⁉


 お母さんを助けて!

 私をここから出して!


 だって、こんなのあんまりだよ!


 お母さんは、女神様の愛し子なんでしょ⁉

 なんとかしてよ!


 グオオオンと私の慟哭が闇しかない虚空に響き渡り、周囲に散らばった亡骸がカタカタと震える。

 囚われたまま傷だらけになっている魂たちも、救いを求めて声なき声を上げ騒めいている。


 それでもお母さんが目を覚ます様子はない。

 

 私では、お母さんを夢の中から呼び戻すことは叶わない。


 それができるのは、お母さんにその力を分け与えた創世の女神様だけなのだ。


 私は涙を流しながら、声の限りに叫び続けた。


 女神様!

 お願いだから、私たちを助けて!


 私たちを、陽の当たる場所に連れて行って!

 

 真っ暗闇も、偽物の幸せも、もうたくさんだよ!


 めがみさまー‼

 たーすーけーてー‼


 暗闇の中にさっと一条の光がさしこんだのは、その時だった。


 光は真っすぐに私の心臓を貫き、暗闇しかなかった奈落で私の体を中心に光の大爆発が起こった。


 ああ、これで私たちは救われるのだ。

 前世の記憶がよみがえったのは、このためなのだ。

 ありがとう、女神様。


 消えゆく意識の中で、私はお母さんを抱きしめた。

 それが、最初で最後のお母さんとの抱擁だった。


 どうか、幸せに。

 今度こそ、お母さん––––––

 

 温かな光に包まれるのを感じながら、私は目を閉じた。





◇◇◇◇




 気が付くと、私はふわふわと空中を漂っていた。


 薄暗くはあるが、確かに光があるのがわかる。

 色彩があり、わずかながら甘い花の香りがする。


 そんなものを感知するのは、私が私になってから初めてのことだ。


 ということは、ここは奈落ではない

 

 では、私はどこにいるのだろう。


 きょろきょろと周りを見回してみて、そこが見覚えのある室内だということがわかった。


 ここは、ハスティ侯爵家にあるお母さんの部屋の寝室だ。


 淡いピンクの可愛らしい天蓋がついた寝台も、見覚えがある。

 

 そっと天蓋の中を覗いてみると、銀色の髪をした女の子がすやすやと眠っているのが見えた。


 お母さん!

 お母さんだ!


 随分と若返っているし、髪も本来の色に戻っているが間違いなくお母さんだ!


 顔色は……悪くない。

 頬は薔薇色で髪には艶があり、とても健康そうに見える。


 胸をなでおろした私は、はっと自分の体を見下ろした。  


 目の前にかざした両手は、小さいが人間と同じ形をしている。

 体には、リリムベリーのようなオレンジ色のひざ丈ドレスを着ていて……


 え? これってもしかして?


 壁にかけてある姿見の前に移動し、覗きこんでみた。


 そこに映っていたのは、私が知っている言葉で現すなら、妖精だった。


 身長は、万年筆と同じくらい。

 フワフワの髪は瞳と同じ碧色で、背中にはガラスのように透き通った羽があり、ドロドロヘドロはどこにもない。


 どこからどう見ても、おとぎ話の絵本に描かれているような可愛らしい妖精の姿だ。


 なにがどうなったのか、私は化け物から妖精に生まれ変わったようだ。


 ドロドロでないしなやかな手足と、キラキラときれいな羽が嬉しくて、姿見の前でくるくる回ったり宙がえりしたりしていると、寝室の扉がノックされた。


「セラフィーナ様、入りますよ」


 とっさに隠れるべきかと思ったが、おろおろしている間に扉が開かれて優しそうな顔の少しふくよかな女性が入ってきた。


 あれは……レーアだ。

 お母さんの乳母で、前回のお母さんの記憶では、聖女になってすぐにもう不要だからと解雇された。


 その彼女がいるということは、今のお母さんは六歳になっていないということなのだろうか。


「さ、起きてくださいな。

 よく晴れた気持ちのいい朝ですよ」


 レーアは私の前を素通りし、天蓋をめくってお母さんを揺すり起こした。


「うん……レーア、おはよ……」


「おはようございます。

 さ、顔を洗ってお着換えをしましょうね」


 お母さんは欠伸をしながらも起き上がり、レーアに手伝われながら身支度を始めた。


 私はそんな二人の周囲を飛び回ってみたが、二人ともまったく私の存在に気が付かない。

 声をかけても、なんの反応もない。

 それなら触れてみようかとレーアの肩に手を伸ばしたが、すかっと宙を掴むようにすり抜けてしまった。

 

 どうやら、二人には私の姿が見えず、声も届かないだけでなく、触れることすらできないようだ。


「ねえレーア、今日の朝ごはんにリリムベリーはあると思う?」


「どうでしょうねぇ。あったら嬉しいですね」

 

 レーアはお母さんの銀色の髪を櫛で梳き、お母さんも安心して身を任せている。


 二人の間にしっかりとした信頼関係があるのがわかる。 


 これは……おそらく、時間が巻き戻っているのだ。

 お母さんが幸せだった、まだ子供だったころに。


 前の時も、レーアは母さんをとても大切に慈しんでいた。

 それは今も変わらないようで、私はまた胸を撫でおろした。


 お母さんも彼女のことが大好きで、お別れした後こっそり一人で泣いていたくらいだ。


 子供らしい無邪気な笑顔を浮かべるお母さんに、私の頬も緩んだ。


 今のお母さんは幸せなようだから、私がずっと側で見守る必要もない。

 それなら、私は私の状況を知るためにもあちこち探検してるべきだろう。 


 私はお母さんの寝室を離れ、ハスティ侯爵家の屋敷を見て回ることにした。

 壁も窓もすいすい通り抜けることができるから、簡単だ。


 私の中には、前世の記憶だけでなく、不幸だった前回のお母さんの記憶がある。

 それと今の屋敷内を照らし合わせると、あちこちに相違点があることに気がついた。


 まず、使用人の顔ぶれが違う。

 知っている顔と知らない顔が半々くらいになっている。


 一番大きな違いは、お母さんの父、つまりハスティ侯爵がいないことだ。

 侯爵の私室も寝室も、家具に埃避けの布がかけられている状態で、もう何年も使用されていないように見える。


 お母さんの記憶では、屋敷でもっとも豪奢なこの部屋を侯爵はずっと使っていたはずなのだが、どうなっているのだろうか。


 使用人たちのおしゃべりを盗み聞いたりもしたが、そう都合よく知りたい情報が得られるわけもない。


 私の姿が見える人も誰もいないようだし、さてどうしたものか。


 考え込みながらふよふよと庭を漂った。


 太陽の光の温かさも、植物の緑の爽やかな匂いも、肌に感じるそよ風の柔らかさも、全て心地いい。

 暗闇に満ちていた奈落に比べたら、まるで天国のようだ。


 このまま、お母さんが幸せになっていくのを見守り続けるというのも、そう悪くはないかもしれない。  


 そう思っていたところで、見慣れないものがあるのを見つけた。


 お母さんがいるが母屋だとするなら、これは離れというのだろうか。

 小さめの別の建物がある。


 こんなものは、前回はなかったはずだ。

 倉庫という感じではないから、住居として建てられたものだと思うが、誰か住んでいるのだろうか。


 離れの中では、数人の使用人がそれぞれの持ち場で働いている。 

 隅々まできれいに整えられているし、やはり誰か住んでいるらしい。

 だが、なんとなく雰囲気が暗い。


 その理由は、主寝室だと思われる部屋に入ってみてわかった。


 そこにいたのは、少年と青年の境目くらいの年頃の男の子だった。

 カーテンが閉じられたままで薄暗い室内でも、その金髪は輝いて見える。


 これはお父さんと同じ色。

 つまり、王族の色だ。

 瞳は閉じられているので見えないが、きっと碧かそれに近い色なのだろう。


 なんで王族がこんなところに、という以上に気になることがある。


 彼は、見るからに具合が悪そうなのだ。

 

 頬がこけているし、少し見える首もとても細い。

 不自然な感じで顔が赤いのは、熱があるからなのだろう。

 苦しそうな息遣いに、私も胸が苦しくなる気がした。


 私はそっとその額に触れてみた。

 熱があるときに、平熱の手で触られるとひんやりして気持ちがいいということを、前世の記憶で知っている。


 今の私の小さな手ではそんな効果はないだろうが、少しでも癒してあげたいと思ったのだ。


 あれ?


 熱い額に触ってみて、私は首を傾げた。


 彼の細い体の中で、なにかが渦巻いているのがわかる。

 循環している血液かと思ったが、そうではない。


 これは、魔力だ。

 

 魔力というのは心臓の近くにある魔力臓という器官でつくられて、血液と同じように全身を巡る。

 普通は、体中に均一になるよう魔力が広がっているのだが、それが何らかの理由で滞ると体調を崩すことになる。

 

 彼の場合、魔力の流れにあちこちで目詰まりが起きているような状態になっている。

 

 お母さんが前回勉強した知識があるから、私にもわかる。


 これは、魔力過多症という病だ。


 器である体に対し保有する魔力が多すぎると、魔力をうまく循環させることができなくなくて、この病気になってしまうというのだ。

 それなら魔法を使って魔力を消費すればいいではないかと言われそうだが、ことはそう単純ではない。


 魔力の流れにムラがあると、魔法の発動が阻害されてしまうため、魔力はたっぷりあるのに魔法が使えないのだ。

 

 なのに、魔力臓は魔力をつくり続けるので、体内の魔力は増えていく。

 そしていつか、体がそれに耐えきれなくなった時、命を落とすことになる。


 というように、原因ははっきりわかっているが体内の魔力の流れに干渉することはできないため、治療法がない不治の死病だと言われている。


 と、いうことを知識としては知っているが、その病を抱えた人を実際に見るのは初めてだ。

 

 私は彼の体を流れる魔力をじっくりと観察した。


 つまりは、この多すぎる魔力が原因なんでしょ? 

 これを、ちょいちょいっとどうにかして取り出してあげればいいんじゃない?


 私ならなんとかできそうな気がする。

 だって、こんなにもはっきりと魔力の流れが見えるんだもん。


 私は人間じゃなくて妖精? なんだから、少しくらい非常識なことができたっておかしくないよね。

 

 よし! と気合を入れた私は、魔力の流れが滞っている右肩のあたりに手を突っ込んだ。

 ふわふわとしたものが触れる感触がして、彼の魔力に直接触れているのがわかった。


 それを掴んで思い切ってぐいっと引っ張ると、キラキラした蜘蛛の巣の束のようなものが出てきた。

 これが彼の魔力の姿なのだ。


 思った通りだ。

 やっぱり、私ならできる!


 私はそのままぐいぐいと彼の魔力を引っ張り出しては、毛糸の束を毛糸玉にする要領で巻き取っていった。

 しばらくそれを続けて、膿のように溜まっていた魔力を全て取り去ると、右肩の魔力が滞りなくするすると流れるようになるのが見て取れた。


 うんうん、いい感じだ。

 彼の体のあちこちに同じように魔力が滞っている箇所があるから、その全てで同じことをすれば、きっと彼の体調はよくなるのだ。


 すっかり気をよくした私は、せっせと彼の体から魔力を巻き取り続け、なんとか満足がいくくらいになった頃には魔力の玉は私の体と同じくらいの大きさになっていた。


 最後のほうは大きくなりすぎて、巻き取りにくくて苦労したが、そこは根性でやりきった。

 

 そのおかげか、あんなに苦しそうだった彼の呼吸は穏やかになり、顔色も随分とよくなっているではないか。

 

 よかったよかった。

 人ではなくなった私だが、人助けをするのは気持ちがいいものだ。


 それはそうとして、この魔力の塊をどうしようか。


 腕組みをして考えた私は、気が付いた。


 これ、お母さんの髪と同じ色じゃない?

 

 それってつまり、闇落ちする前の前回のお母さんの魔力と同じ色だということだ。

 

 女神様の愛し子だったお母さんは、その魔力とともに女神様の恵を大陸全体に行き渡らせる役割だったはず。

 ということは、これには女神様の恵が含まれているってことなのでは?


 それならば。


『えーい! 飛んでけ!』


 私は魔力の塊を空に向かって思い切り放り投げた。


『散らばれー!』


 そう叫ぶと、シャーンと鈴が鳴るような音がして魔力の塊が弾け、キラキラとしたものが流星のように四方八方に飛び散っていった。

 

 間違いない。

 前回はお母さんが宿していた聖女の力が、今は彼の中にあるのだ。


 そして、どうやら私がそれをこの大陸中に広げる係になっているようだ。


 まぁそれならそれでいいけどね。

 それでお母さんが聖女にならないで済むのなら、私は構わない。

 今度こそ、お母さんには幸せになってほしいのだから。


 すっかり一仕事終えた気分で、私はまたさっきの彼の様子を見に戻った。

 

 窶れてはいるが、よく見れば整ったきれいな顔立ちをしている。

 髪の色からして王族だと思うのだが、それにしてはお母さんの記憶の中にはない顔だ。


 彼は誰なのだろう?

 

 そんなことを考えながらふよふよと漂っていると、彼が身じろぎをした。

 そして、金色の長い睫毛に縁どられた瞼が持ち上がる。


 その下から現れたのは、お父さんと同じきれいな碧の瞳だった。

 これで彼は王族なのだと確定した。

 

 彼の碧の瞳はゆっくりと瞬いて、それから私を真っすぐに見つめた。


 あれ? 目が合ってる?


「きみは……だれ?」


 今度は、私が瞬きをする番だった。


『あなた、私が見えるの?』


「見える。見えるよ……」


 見えるだけでなく、声も聞こえているようだ。


 彼は寝台の上に上体を起こした。

 肩も胸も薄く、顔だけでなく全体的に窶れているのだとわかる。


 彼は自分の手を見て、それから周囲を見回した。


「見える……はっきり、見える……」


『もしかして、目が見えなかったの?』


「うん。最近は、ほとんど見えなくなってたんだ」


 そういえば、彼の目のあたりにも魔力が停滞していたっけ。

 きっとそれが視力にも影響していたのだろう。


 彼は白く細い手を自分の胸に置いた。


「ずっと具合が悪くて、体が痛くて……

 それが、全部なくなってる。

 体がすごく軽い。こんなに気分がいいのは生まれて初めてかもしれない」


 彼はぱっと私を見上げた。


「きみが、助けてくれたんでしょう?」


『そうよ。あなたの体の中にあった、余分な魔力を取り出してあげたの』


 ついでに、女神様の恵を大陸全体にまき散らしたのだが、その説明は後でいいだろう。

 今は、お互いに自己紹介をすることが先決だ。


『あなたは王族よね?

 なぜハスティ侯爵家にいるの?』


「僕は、国王陛下の弟なんだ。

 ここにいるのは、療養のためだよ」


 国王陛下の、弟。

 つまり、王弟ってことか。

 そんなの前はいなかったはずだけどなぁ。


「僕の名は、ヴィルヘルム・リスティラ。

 きみの名を教えて?」


 そう言われて、私には名がないことにやっと思い当たった。

 お母さんは私に名をくれなかったし、前世の日本人だったころの名も覚えていない。


『えーと、私には名前がないのよね。

 せっかくだから、あなたがつけてくれる?』


「え、いいの?」


『ええ。もちろんよ』


 今のところ私は彼としか会話ができないのだし、どうやら私たちは一蓮托生のようだから名付け親には彼が適任だろう。


「それなら……えーと……うーんと……」


 彼はしばらく真剣に考え込んで、それからポンと手を打った。


「トゥーラ! トゥーラというのはどうかな?」


『トゥーラ?』


 聞き慣れない響きの言葉だ。


「海の向こうの遠い国にある、とてもきれいな音色の楽器なんだよ。

 本にそう書いてあったのを読んだだけで、僕も実物を見たことはないんだけどね」


 なるほど、異国の言葉なのか。

 言われてみればそんな響きだ。


『トゥーラ……悪くないわね』


 私の感覚の根っこの部分は日本人のままなので、遠い異国から来たと言っても間違いではない。

 それに、きれいな音色の楽器というのもなんだか妖精っぽいではないか。


『いいわね。気に入ったわ!

 たった今から、私はトゥーラよ!』


 名前がついたことが嬉しくて、くるくる回る私を見て彼は微笑んだ。


「僕のことは、ヴィルって呼んでくれる?」


『わかったわ。よろしくね、ヴィル』


 前世の習慣で握手をしようと手を差し出すと、彼はそっと指先で私の手に触れた。


 こうして、私は名前と友達を同時に手に入れたのだった。




 外からぼそぼそと話し声が聞こえて目が覚めた。

 一つ背伸びをしてから起き上がり、カーテンを大きく開くと柔らかな朝日が寝室に差し込んできた。


 うん、きもちのいい朝だ。

 今日もいい天気なようだ。

 

 トントンと扉をノックする音が聞こえた。


 私は寝室を飛び出し、階段を駆け下りて玄関の扉を開いた。


『おはよう、ヴィル!』


「おはよう、トゥーラ。さあ、朝食に行こう」


 ぱりっとした服を着て、身支度を整えた彼が手を差し出す。


『はぁい!』


 瞳と同じ碧の髪に寝ぐせがつくこともなく、オレンジ色のショートドレスに皺がつくこともない私には身支度は必要ない。

 彼の手にいつものようにぴょんと飛び乗ると、そのまま朝食の席まで連れて行ってくれる。


 あれからヴィルは、私のためにドールハウスを手配してくれた。


 オーダーメイドだと出来上がるまでに時間がかかるので、王宮に元からあったものを持ってきたのだそうだ。

 豪華絢爛というわけではなく、田舎にある可愛いお屋敷といった感じのデザインで、私は一目で気に入った。


 以来、ヴィルの寝室の窓辺に設置されたドールハウスが私の住み家になっている。


 つまり、私と彼は一緒に暮らしているようなものなのだ。

 友達とルームシェアしている感覚に近いと私は思っている。

 

 私が治療をするようになって、彼の体調は見違えるようによくなったのだが、長い間ほぼ寝たきりだったため筋力も体力も衰えており、動けるようになるまでには時間が必要だった。

 私も私で、彼以外とは意思疎通もままならない。


 二人とも時間が有り余っていたし、他にできることもないということもあって、私たちは身の上話から始まりたくさんのことを話した。

 

 ヴィルは現国王の、年が離れた腹違いの弟なのだそうだ。

 生まれた時から魔力過多症で体が弱く、二十歳になるまで生きることができないだろうと言われていた。

 それでも年齢一桁のころはまだマシだったのだが、十歳を超えたあたりからあちこちに不調が出るようになった。

 十六歳になり、ほとんど起き上がることもできなくなった彼は死期を悟り、なにかと騒がしい王宮から離れることを選んだ。

 兄の幼馴染のハスティ侯爵は彼のことも昔から気にかけてくれていて、かつてはここの庭でよく遊んでいた。

 彼は懐かしい思い出のあるこの屋敷で、穏やかな最期を迎えるつもりだったのだそうだ。


 ちなみに現国王というのは、お母さんの記憶にある国王、つまり私のお父さんの父の弟にあたる。


 お父さんの父は、ちょうどヴィルくらいの年に病で亡くなったのだそうで、第二王子だった現国王が繰り上がって王太子になり、即位したのだ。


 つまり、この世界に私のお父さんは最初から存在していない。


 それなのに、お父さんの魔力を核として作りだされた私は存在している。


 こういうのって、前世の言葉ではナントカパラドックスっていうんじゃないかな。

 卵が先か鶏が先か、みたいな。

 いや、そうだっけ? ちょっと違うような?


 まぁとにかく、ここではそのようになっているわけだ。


 他にも、同じように存在していなかったり、既に亡くなっていたりして、前回はいたはずなのに今回はいない人がたくさんいる。

 お母さんの父であるハスティ侯爵もその一人だ。


 その人たちの共通点は、私にはすぐにわかった。


 あの奈落の闇で、お母さんの夢に囚われていた人たちが全員いなくなっている。


 あの人たちの魂は再び人間としての生を受けるには傷みすぎていたから排除され、矛盾がないように調整されたのが今のこの世界なのだと思う。


 誰がそんなことをしたかって?


 創世の女神様だよ。

 他にいないでしょ。


 ここでは、前回のお母さんを虐げたお母さんの父は、お母さんの母が亡くなってすぐに事故死している。

 そして、お母さんの父の弟ラウノがハスティ侯爵家を継いで、お母さんを養女にした。


 ラウノは家を継ぐ前は研究一筋の植物学者だった。

 研究以外には興味が薄い彼だが、姪であるお母さんのことは気にかけており、お母さんが成人したらすぐに爵位も家も譲り渡すつもりなのだそうだ。


 というわけで、前回のお母さんが不幸になった大きな原因の一つであるマルガレータも、ここには存在していない。


 お母さんは現在ごく普通の五歳児としてすくすくと成長しているところで、今のところ不幸になりそうな要素は見当たらない。


 いいことだ。

 お母さんには、このまま順調にごく普通の幸せな生活をおくってほしい。


「おはよう、サムエル」


『おはよう、サムエル!』


「おはようございます、ヴィルヘルム様、トゥーラ様」


 食堂では、ヴィルの専属侍従であるサムエルが朝食の準備をして待ち構えていた。


 彼はヴィルが生まれた時から仕えている専属侍従だ。


 私の声はヴィル以外には聞こえないのだが、魔力がある程度強い人で、私がそうと望んだ人にだけ私の姿が少しだけ見えるということがわかった。

 光の粒がふわふわ浮いているといった感じにしか見えないそうなのだが、それでも私の存在を信じてもらうには十分だった。


 サムエルもその一人で、ヴィルの体調が劇的に回復したのを涙ながらに喜んで、私にも親切にしてくれるようになった。


 テーブルに配膳されたヴィルの朝食の隣には、ドールハウスの備品だった小さな食器セットで同じように朝食が並べられている。


「さあ、いただこうか」


『はぁい! いただきます!』


 私は前世の習慣に従って手を合わせてから、カトラリーを手に取った。

 

 大きさが違うので全く同じというわけではないが、私とヴィルの皿にはだいたい同じものが盛りつけられている。


 寝たきりになってから、彼はずっと一人きりで食事をしていたということで、こうして誰かと一緒に食事をするのはとても楽しいのだそうだ。

 

「今日のオムレツはチーズが入ってるね」


 笑顔で食事を口に運ぶヴィルを、サムエルは目を細めて見ている。

 

 私も同じような気持ちだ。

 以前の状況を知っているから、健康的な顔色で美味しそうに食事をする彼は見ていて気持ちがいい。


『そうね。とっても美味しいわ』


 私は壁をすり抜けることができるが、自分で触ろうと思ったものにはふれることができる。

 それと同じように、飲食ができることがわかった時は、正直とても嬉しかった。


 前世の時から変わらず、私は美味しいものが大好きなのだ。

 

 食事をしなくても私の体は平気だと思うが、美味しそうな食事が目の前にあっても食べられなかったとしたら、なんとも味気ない気分を味わい続けることになったことだろう。


『じゃあ、今日の治療をしましょうね』


「ああ、頼むよ」


 朝食が終わると、庭に出てヴィルの体の治療をするのが日課になっている。


『えーい! 飛んでけ! 散らばれ!』


 毎日治療をしているからか、彼の魔力の流れはそれ自体が目に見えて太く力強くなってきた。

 私が取り出して空に投げる余分な魔力の量も、少しずつ減ってきている。


 この治療は、大陸の隅々まで女神様の恵が行き渡るまで続くことになるのだと思う。


 そのころにはきっと彼は完全な健康体になり、私の役目も終わるのだろう。

 

「今日もいい感じで散らばったようだね」


 空を見上げながら、彼は微笑む。

 彼の魔力だからか、彼にもキラキラが飛び散るのが見えるのだそうだ。


 最初にこれが女神様の恵だと私が説明したとき、彼は半信半疑だった。

 

「女神様の恵? それって、聖女を通してこの世界に広がるんでしょ?

 僕が聖女って、さすがにそれはないんじゃない?」


 歴代聖女は、全員女性だったもんね。

 そう疑うのは無理もない。


 だがそれからしばらくして、国内外で起こっていた冷害や干ばつなどが次々と解消されていったことで、彼も私の話を信じてくれるようになった。

 

 ただし、このことは彼の希望により極秘とされている。

 病弱な弟に昔から甘い国王が、そのように取り計らってくれたのだ。


 国王は数年以内に命を落とす予定だったヴィルが健康になったことを泣いて喜び、姿が見えない私にもとても感謝してくれた。

 前の国王と違い、気取ったところがなく親しみが持てるいい人だと思っている。


 治療が終わると、私たちは彼の体力増進のための運動も兼ねて、ゆっくりのんびり庭の散歩をする。

 

 最初は杖をつきながら本当に短い距離をゆっくり歩くだけで疲労困憊だったヴィルも、今は杖も不要になりすいすいと庭を一周できるまでになった。

 まだ若いから、回復も早いのだろう。

 

『あ、見て! もうすぐ木蓮が咲きそうよ』


「ああ、あの花が木蓮というんだね。

 名前は知ってたけど、実物を見るのは初めてな気がするな。

 満開になったらきれいなんだろうね」


『とってもきれいよ。

 赤紫っぽい花が咲くのもあるんだけど、お母さんは真っ白な木蓮のほうが好きだったのよね』


「トゥーラ、きみも白い木蓮が好き?」


『そうねぇ、私は木蓮は赤紫のほうが好きかも。

 白い花なら他にもあるしね』


「じゃあ、将来の僕たちの屋敷の庭には赤紫の木蓮をたくさん植えようね」


『そんなことしたら、庭が木蓮だらけになってしまうんじゃない?』

 

「きみが望むなら、そんな庭でもいいよ」


『いやいや、よくないでしょ。庭師さんが困っちゃうわよ』


 他愛もないおしゃべりをしながら庭を歩いた後は、ヴィルは読書タイムとなる。

 彼は読書好きでもあり、目がよくなってまた本を読むことができるようになったことをとても喜んでいた。


 彼が読書をしている間は、私は別行動をすることにしている。


『じゃ、お母さんのところに行ってくるね』


「ああ、いってらっしゃい」


 私はガゼボで読みかけの本を広げたヴィルに手を振って、お母さんがいる母屋に向かった。


 お母さんが不幸になる要因はほとんど取り除かれているが、それでも心配なので一日に数度は様子を見に行くことにしているのだ。

 それ以外にも、侯爵家の中を見て回ってお母さんを害しようとするものがいないか偵察するのも私の大事なお仕事だ。


 この時間なら女家庭教師の授業がもうすぐ終わるはずで、それからレーアとおしゃべりしながらお茶を飲むのがお母さんの日課なのだが、この日はそうではなかった。


『ヴィル!』


 慌てて戻ってきた私に、彼は驚いた顔をした。


「どうしたの、トゥーラ」


『お願い! 力を貸して!』


 いつも授業を受けている部屋にお母さんの姿はなかった。

 他の部屋にもいないし、どうしたのだろうと探し回って、背の低い庭木の陰に隠れて泣いているお母さんを見つけたのだ。


 おろおろと周囲を飛び回るも、今のお母さんに私は見えない。

 それで、ヴィルの助力を願いに来たのだ。


「僕に小さな女の子を慰めるなんてできるかなぁ」


『大丈夫よ、私がいるんだから! だから、お願いよ!』


「わかってるよ。トゥーリの頼みだからね」


 私はヴィルを急きたてて、お母さんが隠れているところへと案内した。


「こんにちは、セラフィーナ嬢」


 突然現れた年上の少年に声をかけられ、お母さんはびくっと震えて怯えた顔をした。


「僕はヴィルヘルムっていうんだよ」


「びるへるむ……?」


「前に一度だけ会ったことがあるんだけど、覚えているかな?」


 お母さんはふるふると首を横に振った。


「ヴィルって呼んでくれたらいいよ。

 きみのお父さんのお友達で、事情があってこのお屋敷でお世話になってるんだ」


 言いながら、ヴィルはお母さんの前に膝をついて顔を覗きこんだ。


 あ、お母さんったら、ヴィルに見とれてる。


 無理もない。

 健康的になった彼は、この年代の少年特有の中性的でとてもきれいな顔をしてるもんね。


 だが、彼はそんな顔をわずかに顰めてお母さんの小さな手をとった。


「これは……鞭で打たれた痕だね?」


 白い手の甲に、真っ赤な痛々しい筋があるではないか。


 お母さんになんてことを!


『あの女家庭教師にやられたんだわ! 

 さっきまで授業をしていたはずだもの!』


 神経質そうな顔をした中年の女家庭教師で、五歳の女の子に対してちょっと厳しすぎるんじゃないかと私はかねてから心配していたのだ。

 

「おいで、手当をしてあげるから。

 その後で、一緒にお菓子を食べようね」


「で、でも……」


「大丈夫、僕がきみをお茶会に招待したって家令に伝えておくよ。

 きみが叱られることはない」


 お母さんは少し迷ったようだが、すぐにヴィルに手を引かれて立ち上がった。

 きれいな顔って、こういう時にも便利なんだね。


 離れにお母さんを連れ帰ったヴィルは、サムエルに母屋の家令に伝言を頼み、お母さんの手の甲にはヴィルが手ずから傷薬を塗ってあげた。


「これで、しばらくすれば痛みが引くはずだよ。

 痕が残るようなこともないからね」


「……ありがとう、ございます」


『ヴィル! なにがあったのか聞いて!

 こんなの、虐待だわ!』


「ええと、セラフィーナ嬢。

 なにがあったのか、できれば僕に教えてくれるかな?」


 お母さんの可愛らしい顔が曇り、俯いた。


「……私は、おうじさまのこんやくしゃになるからって……」


『え⁉』


 お母さんは今回も王子の婚約者になるの?

 お父さんとは別な王子なのだろうが、それでお母さんが不幸になるなら、なんとしてでも阻止しなければならない。


「だから、もっと頑張らなきゃダメって言われたのかな?」


 こくんと頷くお母さんに、私はかっと頭に血が上った。


『だから鞭で叩いたっていうの⁉

 なによそれ⁉

 そんなことしたって、お勉強ができるようになんてなるわけないじゃないの!

 お母さんはまだ五歳なのよ!』


 この世界では、こういうことも珍しくないということは私も頭ではわかってるのだが、前世の常識がある私にはとても許せることではない。


『ヴィル! お願い、なんとかして!』


「落ち着いて、トゥーラ。

 このことは、僕からハスティ侯爵と兄上に報告するから」


『あの女家庭教師、お母さんを泣かせるなんて許せない!

 不幸にしてやる!』


「落ち着いてってば。

 然るべき罰はきちんと与えるから、きみはなにもしてはいけないよ」


『でも!』


「いいから、僕に任せて。ね?」


『ぐ……わ、わかったわ……』


 真剣な顔のヴィルに真正面から見つめられ、私は渋々引き下がった。


 お母さんは、不思議そうな顔をしてそんな私たちを見ている。


 そうだ、お母さんには私は見えていないんだ。


「セラフィーナ嬢。

 僕には、誰も知らない秘密があるんだ」


 そんなお母さんに、ヴィルはにっこりと笑った。

 どうやら、なにか考えがあるらしい。


「僕の秘密、知りたい?」


 小さな頭が頷いた。


「秘密はね、誰にも話してはいけないんだよ。

 わかるね?」


 小さな頭がまた頷いて、さっきまで陰っていた紫色の瞳が好奇心でキラキラと輝き始めた。


「それじゃあ、きみにだけ特別に教えてあげよう。

 ほら、耳を貸して」


 ヴィルはお母さんの耳に小さな声で囁いた。


「実は僕には、妖精の恋人がいるんだ」


 え? 恋人?


「ようせい……こいびと?」


 お母さんは首を傾げた。

 どうやら、ピンときていないらしい。


「妖精っていうのはわかるよね?

 きれいなお花とか、森の中の湖とかにいて、背中に羽が生えてる小さくて可愛い女の子のことだよ。

 絵本なんかで読んだことがあるでしょう?」


 頷くお母さん。

 

「恋人というのは、あれだよ。

 悪い魔女に攫われたお姫様が、助けに来てくれた騎士と結婚するっていうお話があるよね。

 その結婚する前の段階っていう感じかな」


 紫の瞳がぱちぱちと瞬いてヴィルを見上げた。


 いろいろと言いたいことはあるが、とりあえず私は口をつぐんで成り行きを見守ることにした。


「ヴィルは……妖精さんと、恋人なの?」


「そうだよ」


「妖精さんとお話ができるの?」


「もちろん!

 僕のトゥーラは、とても優しくて可愛いんだよ」


『やだ、ヴィルったら』


 蕩けるような甘い笑顔を向けるられて、私は思わず照れてしまった。

 可愛いと言われるのは、素直に嬉しい。


「妖精さん……そこにいるの?

 私には、なにも見えないわ」


「セラフィーナ嬢がもう少し大きくなって、魔力が成長したら見えるようになると思うよ。

 それまでは……そうだね。

 こうしたらどうかな」


 ヴィルは花瓶に生けられていた勿忘草の花弁を一枚とって、私の頭に乗せた。


「わあ! 花びらが浮いてる!

 そこに妖精さんがいるのね!

 私にもわかるわ!」


 やっとお母さんに笑顔が戻った。


 お母さんが喜んでくれるなら、花びらでも落ち葉でも頭に乗せてやろうではないか。


「セラフィーナ嬢、トゥーラはきみとお友達になりたいそうだよ。

 なってあげてくれるかな?」


「なる! 私、妖精さんのお友達になりたい!」


「僕ともお友達になってくれるよね?」


「うん! なるわ!」


「よかった。

 セラフィーナ嬢と、トゥーラと僕で、三人で秘密のお友達だよ」


「秘密のお友達! とっても素敵だわ!」

 

 お母さんは瞳を輝かせて笑い、私も嬉しくて花びらを頭に乗せたままくるくると回った。


 こうして、ヴィルはあっさりとお母さんの心を掴んだのだった。


 その後ヴィルが確認したところによると、お母さんはまだ王子様の婚約者候補というだけで、婚約は確定しているわけではないそうだ。


 例の女家庭教師は、即日解雇となった。

 自分の生徒が王家と縁ずくのは栄誉なことだからと張り切りすぎてしまったのだそうだ。

 特になにもしなくてもこういった悪評は自然と広まるものなので、もう次の雇用先は見つからないだろうから、それが罰ということになった。

 

 温いとは思うが、それくらいが落としどころなのだろう。

 私も『不幸になってしまえ!』と思ったくらいで、実際に呪うようなことはしなかった。

 優しいお母さんが気にするかもしれないからね。


 そんなことがあってから、お母さんは三日に一度はヴィルのところに遊びに来て、お茶を飲みながらたくさんおしゃべりをするようになった。


 お母さんの実の両親はずっと前に亡くなっていて、養父となったラウノ叔父も仕事が忙しくてあまりお母さんと会う時間はない。

 乳母や使用人たちは優しいが、お母さんに仕える立場なので、どうしても一線を引いた接し方になる。

 

 お母さんには頼りになる目上の存在がほしかったようで、年上のお兄さんキャラなヴィルはそれにぴったりだったのだ。

 

『ヴィル、子供の相手をするのって疲れない? 大丈夫?』


 いつものお茶会の後、母屋に帰っていくお母さんを見送るヴィルに尋ねてみた。

 

 お母さんは年の割には賢いから相手をするのはそう大変ではないと思うが、それでも子供は子供だ。

 

「そんなことはないよ。セラは可愛いしね」


 お母さんは、可愛い。

 ひいき目を抜きにしても、美少女だと私も思う。

 そして、確実に輝くような美女へと成長することを私はよく知っている。


 ヴィルは十六歳、お母さんは五歳。

 十一歳差か……貴族同士の結婚なら、まぁこれくらいは普通だ。

 

 美男美女の、お似合いのカップルになるだろう。


「トゥーラ? なにか変なこと考えてない?」


 ヴィルの指がちょんと私の頭をつついた。


「僕がセラを可愛いと思うのは、きみに似ているからだよ」


 血ではなく魔力で繋がっていて、この状態で母娘といえるのかどうか疑問な私とお母さんだが、それでも顔立ちは似ていなくもない。


『そんな理由なの?』

 

「他にどんな理由があると思うの?

 きみのためなら、僕はなんだってするよ」


『ええぇ?』


「愛してるよ、トゥーラ。

 きみの大切なものは、僕が守ってあげるからね」


 私は妖精で、ヴィルは人間なのに。

 そう思いつつも嬉しくて、私は真っ赤になってくるくると回った。


 だって、最近は私も同じ気持ちになっていたから。


 健康になったヴィルは身長が伸び始め、顔つきもあどけなさが抜けて大人っぽくなってきた。

 十代半ばとは思えないほど精神的にも落ち着いているし、いつも優しく気遣ってくれる。


 私だって、女の子なのだ。

 そんな彼に特別扱いされて、好きにならないなんて無理というものだ。


「僕はきみと一緒にいられれば、それでいい。

 他のことはなにも望まないよ。

 だから、これからも側にいてね」


『ヴィルなら、可愛い女の子を選び放題なのに』


「僕にとって、きみは世界で一番可愛い女の子だよ。

 まあ、それはこれから証明していくことになるんだけど、とにかくそういうことだから覚悟してね」


 にっこりと笑ったヴィルはどこか大人の色気も漂わせているようで、私はぷしゅ~と顔から湯気を出しながらテーブルの上にへたり込んでしまった。


 前世の私は二十代にはなっていたはずなのに、すっかり翻弄されてしまっている。

 なんだか悔しいが、まぁいいかと思えたのは惚れた弱みというものなのだろう。


 こうして、私とヴィルの関係も変化し始めたのだった。


 秘密の友達のお茶会に、新しいメンバーが加わったのはそれからちょうど一年ほどたった頃だった。


「おひさしぶりです、叔父上」


 そう言ってぺこりと頭を下げたのは、ルーカス第二王子だった。

 お母さんと同い年で、婚約者候補で、ヴィルの甥でもある。


 王家特有の金髪と碧の瞳をしているが、なんだかおどおどとした印象のふくよかな男の子だ。


「久しぶりだね、ルーカス。元気だったかい?」


「は、はい……」


 彼は俯いて、お母さんの背中に隠れてしまった。

 王子様なのに、彼は人見知りで引っ込み思案なのだ。


「もう、ルーカスったら。

 ヴィルに相談したいことがあるんでしょ?」


「……」


 お母さんに背中を押されて、彼はもじもじしながら前に出てきた。


「大丈夫よ、ヴィルは家庭教師みたいに告げ口したりしないわ。

 なんでも相談できるのよ」


 お母さんとルーカス王子の婚約は、まだ決定していない。

 まずは二人の相性を見極めてからということで、今はまだ婚約者候補ということになっている。


 そんなわけで、ルーカス王子は週に一度お母さんを訪ねては一緒にお茶会をするようになった。


 私もそのお茶会には毎回偵察に行っているので、どんな様子なのかは把握している。


 なので、今日ここに二人で来ることも、その目的も知っていて、ヴィルとは事前に打合せ済みだ。


「ほら、ちゃんと言いなさいな。

 ヴィルだったらちゃんと話を聞いてくれるから」


「……」


 お母さんに促されても、まだもじもじしているルーカス王子。

 

 二人の関係は、おませで気が強い姉と、姉に引っ張られる大人しい弟といった感じだ。

 同い年でも、一般的に女の子のほうが精神年齢が上ということが多いものだ。


「ルーカス、僕になにか相談したいのかな?」


 ヴィルが腰をかがめて目線を合わせると、金色の小さな頭が頷いた。


「ほら、ルーカス!」


 お母さんに肘でつつかれ、彼はやっと口を開いた。


「お、叔父様……僕、剣術が苦手で……」


 ルーカス王子は不出来なわけではない。

 ヴィルのもう一人の甥である第一王子が誰から見ても優秀なお子様なため、平凡なルーカス王子はどうしても比べられてしまうことが多く、自信もやる気も失くしてしまっているのだ。


 前世でもありがちなことではあったが、なんとも気の毒ではないか。


 彼はまだ六歳になったばかり。

 お母さんの女家庭教師の時もそうだったが、伸びしろだらけの幼児になにをしているのだと呆れてしまう。


「剣術か。僕も得意ではないなぁ」


 ルーカス王子は興味深そうにヴィルを見上げた。

 きっと、今まで彼の周囲にはそんな弱みを認めるようなことを言う大人がいなかったのだろう。


 得意とか苦手とか以前に、少し前までヴィルは死にかけていたのだ。

 剣術は貴族男性の嗜みとはいえ、彼の場合はそんな状況だから、得意でないのもしかたがないことだ。


「僕もそろそろ剣術を習おうかと思っているところなんだよ。

 というわけでルーカス、僕と一緒に鍛錬してみない?」


「叔父様と一緒に、ですか?」


「そうだよ。

 共に励む仲間がいると張り合いがあると思うよ」


「でも……」


 彼はまたもじもじと俯く。


「知っていると思うけど、僕は最近まで病気でずっと寝たきりだったんだ。

 剣術は小さいころに少し習っただけだから、剣の握り方ももう忘れてしまったよ。

 だから、基礎の基礎からもう一度習おうと思っているんだ」


「……」


「誰だって、最初から全部上手にできるわけじゃない。

 できないことがあるなら、できるように練習すればいいんだよ。

 それは恥ずかしいことじゃなくて、普通のことなんだからね」


『そうよ! ちっとも恥ずかしいことじゃないのよ!

 きっとできるようになるから、頑張ってみなさいよ!』


 という私の声はヴィルにしか届かないので、両手にピンク色のマーガレットの花びらを持ってぱたぱたと振り回した。

 

「ほら、トゥーラも僕たちを応援してくれてる。

 一緒に頑張ってみようよ」


 ヴィルに説得され、彼は迷った素振りを見せながらもこくんと頷いた。


 ヴィルの中性的で優し気な雰囲気が、子供に警戒されないために役立っているのだと思う。

 

 このように誘導することは、ヴィルの兄夫婦でルーカス王子の両親でもある国王夫妻とも事前に相談済みのことだ。

 上手くいってよかった、と私は胸を撫でおろした。


 国王夫妻もちゃんと次男のことを気にかけているのだが、多忙な上に第一王子との間で将来後継争いが起きないように調整もせねばならず、あまり親子の触れ合いができていない状況なのだそうだ。


 ルーカス王子が引っ込み思案なのは、そのような寂しい身の上だからというのもあるのだろうと思う。


 お母さんもヴィルもそうなのだが、高位貴族というのは家族との縁が薄いことが多く、前世の感覚を引きずっている私にはどうにも不憫に感じてしまう。

 

 ルーカス王子の週に一回だった来訪は、婚約者候補とのお茶会だけでなく剣術の鍛錬という目的も加わったため、これ以降週二回になった。


 そして、来訪の度にヴィルとルーカス王子は二人並んで木剣を握っている。


 ヴィルが真剣に取り組むものから、ルーカス王子も隣で怠けるわけにもいかず、汗だくになりながらも真面目に鍛錬をするようになった。


 基礎の基礎から学びなおして、苦手意識がなくなったころにはルーカス王子のややぽっちゃり体形がすっきりとするようになった。

 そのころには剣術が楽しくなってきたようで、あれだけ渋々だったのが嘘のように活き活きと鍛錬をするようになった。

 

 剣術ができるようになり自信がついたことで、ルーカス王子はもじもじすることがなくなった。

 堂々した態度ではきはきとしゃべるようになった彼に、国王夫妻は涙ぐんで喜んでいた。


 私は花びらを振って応援をしていただけだが、立派に成長した彼を誇らしく思っている。


 彼も自身の変化を自覚しており、そのきっかけをつくってくれた婚約者候補と叔父に深く感謝している。


 最初のころはおませなお母さんがルーカス王子を引っ張りまわしていたが、成長するにつれてそういうこともなくなり、十歳になってちょうど対等の関係のようになったところで二人は正式に婚約した。

 

「セラ。今の僕があるのは、きみのおかげだよ。

 これからもずっと僕の側にいてくれる?」


 すっかり美少年になったルーカス王子が、婚約式の前にしっかりとお母さんにプロポーズしたのもポイントが高い。


「もちろんよ、ルーカス。

 私たちは秘密のお友達ですものね」


 お母さんも嬉しそうにそれを受けて、私も嬉しくて空まで飛んでいきそうになってしまった。


『ヴィル! あの二人、幸せになれるわよね!』


「そうだね。僕たちはそれを見守っていこうね」


 お母さんとルーカス王子は、文句なしのお似合いカップルだ。

 将来、美男美女夫婦になることは間違いない。

 

 仲良く寄り添う二人を眺めながら、私とヴィルも同じように寄り添っていた。




 月日は流れ、お母さんの二回目の人生が始まってから十三年が経った。


 今日は、十八歳になったお母さんとルーカス王子の結婚式だ。


 創世の女神を祀る神殿で誓いを交わす二人に、ヴィルの肩に腰かけた私は涙が止まらなかった。


 これからお母さんは家と爵位を継いで女侯爵となり、ルーカス王子は婿として輿入れして二人でハスティ侯爵家を盛り立てていくことになる。


 二人の将来は安泰だ。


 お母さんは、今度こそ本物の幸せを掴んだのだ。

 よかった。本当によかった。


「ねぇ、トゥーラ。僕たちもそろそろ結婚しようか」


『えぇ?』


 ヴィルがそんなことを言い出したのは、いつもならおやすみなさいと言って私がドールハウスの寝室に向かうタイミングでのことだった。


 もうサムエルや他の使用人もいないので、今は寝室に私とヴィルの二人だけだ。


「僕はきみを愛してる。きみも、僕のことを愛しているでしょう?」


『それはそうだけど……でも、私は妖精だし』


 ヴィルは現在二十九歳。

 今でも線が細く優し気なのは変わらないが、身長が伸びて体を鍛えるようになってからは中性的な雰囲気はなくなった。

 

 美しい顔立ちはそのままで、しっかりとした大人の男性になった彼は、当然ながらものすごくモテるのだが、今まで一度も女性と特別な関係になったことはない。

 たまに公の場に出ても、会話はできないまでも絶対に私を側から離さないので、それが誇張でもなんでもない真実だということを私はよく知っている。


 私を愛しているからと言われると嬉しくはあっても、時が経つにつれて申し訳なさが大きくなってきていた。


 彼は普通の人間で、普通の幸せを掴むことができる。

 それなのに、私はそんな彼を縛り付けてしまっているわけで。


 お母さんも結婚したことだし、もう彼を解放すべきなのではないかと思っていたのだ。


「僕にはトゥーラだけだ。

 きみがいれば、他にはなにもいらない」


『でも、ヴィル』


「これからもずっと、側にいてほしい。

 きみがいなくなったら、僕の世界はまた闇に閉ざされてしまうよ」


 それは、私も同じだ。

 

 毎日彼の魔力を空に放り投げて飛び散らせていたおかげで、今ではこの大陸中に女神様の恵が行き渡った。

 それと同時に、彼はすっかり健康体になり私の治療は必要なくなった。

 

 そんなこともあって、彼から離れることを考えていたのだが、そうすることを考えるだけで寂しくて悲しくて胸がしくしくと痛む。

 

 私も優しい彼を心から愛しているのだ。


 離れたくない。

 このままずっと、一緒にいたい。

 

『でも……私、あなたには幸せになってほしいの』


「僕は今、とても幸せだよ。

 トゥーラがここにいてくれだけで、僕の心は満たされる」


 差し出された手に、私はいつものようにちょんと座った。

 彼の指が、私の透明な羽を愛しそうに撫でる。


「僕に幸せになってほしいのなら、僕と結婚してほしい。

 この命も心も、きみに全て捧げるから」


『本当にいいの?

 そんなことしたら、私はもう二度とあなたを放してあげられなくなるわ』


「そうしてくれたら、とても嬉しい。

 いつか僕が死ぬときは、彼岸にきみを連れて行くよ。

 きみを独りで置いて逝ったりはしないと、僕の母の魂にかけて誓う」

 

 女神様と深い繋がりがある私たちが互いに強く望むなら、きっとそれは叶うだろう。


『ヴィル……ヴィルヘルム。私も、あなたを愛してる。

 これからもずっと、側にいるわ。

 あなたの肉体が滅んでも、ずっと、ずっとね』


 私は彼の唇にキスをした。

 私にとっても彼にとっても、それはファーストキスだった。


 そして、私たちは初めて同じ寝台で眠りについた。

 彼の温もりを感じながら眠るのは、とても幸せな気分だった。





 

 翌朝目が覚めた私は、身動きがとれないことに気がついた。


 何か温かなものが体に巻きついて、動きが封じられているのだ。


「んん……?」


 目をこすって天井を見上げた私は、その天井がいつもと違うことではっと覚醒した。


 知らない天井ではなく、よく知っている天井なのだが、朝目覚めてすぐにこれが目に入るのは初めてのことだ。


「んんん?」


 ここは、私がいつも寝起きしているドールハウスの中ではなく、そのドールハウスが置かれているヴィルの寝室で、さらに言えばヴィルの寝台の上だ。


 私は昨夜、初めて彼の愛を受け入れ、私の愛を捧げた。

 そして、一緒に眠った。


 そして、今。


「ええええええ⁉」


 私の体に巻きついているのは、ヴィルの手足だ。

 

 昨夜寝るまでは彼の手のひらに乗るサイズだった私の体が、今は彼が手足を巻きつけられるサイズになっている。


 そして、裸だ。

 なにも着ていない、生まれたままの姿というやつだ。

 妖精だったころの、皺にならず汚れることもない便利なオレンジ色のショートドレスは影も形もなく消えてしまっている。


 いけない。

 これは、本格的にいけない。


 混乱しつつ、私はヴィルの手足を押しのけて寝台から降りた。


 つまり、私には成人男性を押しのけることができる腕と、床を踏みしめて立つことができる足があるということだ。


 状況を確かめるために私が向かったのは、壁に掛けられている姿見の前だ。


 そこに映ったものを見て、私は思わず息をのんだ。


 碧の瞳と、同じ色の髪。

 お母さんの顔をややあっさり目にしたような顔立ちの、二十歳くらいの可愛い女の子。


 万年筆サイズだったのが普通の成人女性サイズになり、背中にあった羽がなくなったこと以外は、妖精だったころと変わりはないと思う。

 

 私が頬に手を触れると、鏡の中の女の子も同じ動きをする。


 ああ、やはりこれは今の私の姿ということで間違いない。


「私、バ美肉しちゃった……!」


 いや、ちょっと違うか。

 バ美肉のバは、バーチャルという意味だったはず。

 これは仮想世界のアバターではなく、現実の生身の肉体だ。


「ばびにくって、なに?」


 あまりに予想外なことに呆然としていた私は、目を覚ましたヴィルが寝台から起き上がってきたのに気が付かなかった。


「ひぇっ⁉」


 後ろからぎゅっと抱きしめられ、私は思わず悲鳴を上げた。


「おはよう、トゥーラ」


「お、おはようございます……」

 

 自然に髪に顔を埋めるヴィルに、私はどうしていいかわからず硬直したままだ。


「ああ、トゥーラの匂い……」


「あ、あの……?」


 ヴィルはすでに私が受肉したのを受け入れているようだ。

 当事者の私はあんなに驚いたのに。


「女神様が夢の中で、きみを普通の人間にするって教えてくれたんだよ。

 僕たち二人が役目を果たしたご褒美なんだって」


 なるほど、そういうことか。

 女神様、私の夢にも出てきてくれてもよかったのに。


「きみが側にいてくれたらそれでいいって思っていたのは本当だよ。

 それでも、こうやって抱き合うことができたらって夢見てもいたんだ。

 叶うなんて思ってもいなかった……」


 それは、私も同じだ。

 叶うことならこうやって触れ合いたいと思っていたのだが、まさかそれが実現するとは思っていなかった。


「きみは女神様が僕にくれた宝物だ。

 今度、二人で神殿にお供え物をしに行こうね」


 言いながら、ヴェルはひょいと私を抱え上げた。


「ひゃぁ!」


 妖精だったころはふわふわと浮くのが普通だったのに、今のこの肉体は重力に縛られている。

 とっさに彼の首にしがみついた私に、彼は嬉しそうに笑った。


「トゥーラ、きみはこの姿になっても羽のように軽いんだね。

 どこかに飛んで行ってしまわないように、しっかりと捕まえておかないといけないね」


 そのまま当然のように寝台に連れていかれて、私は慌てた。


「あの、ヴィル? もうすぐサムエルが」


 カーテンの隙間から差し込む朝日は、もうずいぶんと明るくなっている。

 いつサムエルが扉を叩いてヴィルを起こしに来るかわからない。


「誰も来ないから、大丈夫。

 ここの使用人たちは、今日は全員昼まで寝過ごすことになってる。

 女神様の思し召しってやつだよ」


「えぇ……」


 女神様、ちょっと奇跡を奮発しすぎじゃない?


「愛しているよ、トゥーラ。

 きみは、これからもずっと僕のものだ」


 こうして私はヴェルにがっちりと捕獲され、末永く大切にされたのだった。


  

 

◇◇◇◇

(ヴィルヘルム視点)


 僕の最初の記憶は、薄暗い寝室で熱に苦しみながら伏せっている情景だ。

 多分三歳くらいだったのだと思うが、その時には既にそうやって体調を崩して寝込むのが普通のことになっていて、こういうものなのだという諦観とともに受け入れていた。


 早くに亡くなった母のことは少しも覚えていないし、国王である父は病弱な末息子に興味が薄かった。

 唯一気にかけてくれたのは、年の離れた兄だった。

 兄は僕の周囲に信用できる使用人を配置し、僕が不自由なく暮らせるようにしてくれた。


 サムエルも、元は兄に仕えていた侍従だった。

 

 二十歳まで生きられないと言われている僕よりも、王太子である兄に仕えていたかっただろうにと思うと、申し訳なくなる。

 

 僕が死んだら、サムエルを始め僕に仕えてくれた使用人たちが好待遇の職を得ることができるよう便宜を図ってほしいと遺言に書くつもりだ。

 王子という身分しかない僕にできるのは、それくらいだから。


 十代半ばになると、僕の体調は本格的に悪くなった。

 体のあちこちが痛み、寝台から起きられることのほうが少なくなった。


 侍医には魔力過多症の症状だから手の施しようがないと言われ、気休めにもならない解熱剤や痛み止めを飲まされた。

 もうどうにもならないのに、手厚い看護を受けるのも申し訳ないというか、人手の無駄としか思えない。

 死期を悟った僕は、静かに王宮を離れることにした。

 

 できれば、どこか遠くの山間部とか海辺に行きたかったが、それは兄に止められてしまった。

 せめて死に目に会えるところにいてくれと言われると、断ることもできない。

 それで結局、以前から付き合いのあったラウノ屋敷の離れでお世話になることになった。


 死にかけているとはいえ、王子である僕には利用価値がある。

 そんな僕が安心して滞在できる場所というのは、どうしても限られてしまうのだ。


 ラウノはハスティ侯爵家を継いでいるが、あくまで中継ぎ当主という立場を絶対に崩さず、正当な跡継ぎであるセラフィーナ嬢が成人するのを首を長くして待っているような、欲のない男だ。

 兄に恩を売るようなこともなく快く引き受けてくれた彼にも、なにか恩返しができないかと考えていた。


 だが、それも難しそうだ。

 

 ハスティ侯爵家は静かで過ごしやすいところなのだが、ここにきて目まで悪くなってきたのだ。

 満足に動けない僕の唯一の楽しみが読書だったのに、これではそれすらもままならない。


 とはいえ、いつかそうなるのだろうというのは前からわかっていたことだから、今さら慌てたりはしない。


 諦めることは慣れている。

 小さいころから、諦めてばかりいるからね。

 僕にできるのは、ただ大人しく運命を受け入れることだけだ。


 そう思っていたある日、僕はまた熱を出した。

 体が痛くて目を開けることすら億劫で、僕の命の灯が次第に小さくなっていくのを感じながら寝台に横になっていた。


 熱にうかされた途切れ途切れの眠りの中で、僕は夢をみた。

 

 真っ黒な闇の中で、なにやらドロドロしたもので全身を覆われた大きな獣が泣いている。

 エメラルドのような碧の瞳からぽろぽろと涙を零しては、胸が引き裂かれるような悲しい声を上げる。


 あれはきっと、助けを求めているのだ。

 暗闇に閉じ込められ、寂しくて悲しくて、ここから出たいと泣いている。


 あまりに悲痛な声に、僕は思わず手を伸ばした。


 あんなところに独りぼっちでは、可哀想ではないか。

 

 あの獣を助けられるなら、僕の体をあげても構わない。

 死にかけている出来損ないな体だけど、なにかの役に立つのなら使うといい。


 だから、おいで。僕がいる世界へ……


 そう思ったところで、目が覚めた。


「……?」


 大きな違和感があるが、寝起きではっきりしない頭ではその正体がわからずゆっくりと瞬きをした。


 ぼんやりとしか見えなくなっていたはずの視界が、やけにはっきりとしている。


 そして、僕の目の前に、なんとも不思議なものが浮かんでいた。


「きみは……だれ?」


 問いかけると、それは瞳をぱちぱちと瞬いた。

 その鮮やかな碧は、さっき夢の中でみた獣と同じ色だと気が付いた。


『あなた、私が見えるの?』


「見える。見えるよ……」


 もっと近くでよく見たくて、体を起こしてみた。


 瞳と同じ色の艶やかな髪と、リリムベリーのようなオレンジのドレス。

 その背中には、カーテンの隙間から差し込むわずかな光を受けてきらめく二枚の羽。


 細部まではっきりと見える。

 そう認識した瞬間、彼女を中心に僕の視界は急速にクリアになっていった。

 

 手も、壁の色も、カーテンの皺までぼやけることく鮮明に見える。


 変化があったのは、視界だけではない。

 数日続いていた熱もすっかり下がっているし、体がどこも痛くなくなっている。


 僕は確信を持って、彼女を見上げた。 


「きみが、助けてくれたんでしょう?」


『そうよ。あなたの体の中にあった、余分な魔力を取り出してあげたの』


 にっこりと笑った彼女の笑顔は、僕の胸に突き刺さった。


 美しいとか可愛いとか、そんな言葉では語れない。

 次元を超えたこの世界の真理に触れたような、そんな感覚。


 その時はそれがなにかわからなかったが、今ならそれが恋の炎が胸に灯った瞬間なのだと断言できる。


 僕は、生まれて初めて一目惚れをして、二度と元には戻れないくらいの深く激しい恋に落ちたのだ。


 彼女の名は、トゥーラということになった。

 僕がつけた名を口にするたびに、僕は彼女の特別な存在なのだと思えて心が震えるほど嬉しい。


 彼女が現れてから、僕の世界は一変した。

 なにもかもが新鮮に輝いて見えて、それまでの僕の目には何も見えていなかったのだということがよくわかった。


 彼女が側にいてくれるだけで、心が震えるほどに嬉しい。


 きっと僕は、彼女に出会うために生まれてきたのだ。  

 僕のすべては、彼女のために存在しているのに違いない。

 彼女と過ごす幸せな日々の中で、そうだったらいいなと僕はひっそりと願っていた。


 そうやって僕が心身共に回復したのは、彼女が起こす奇跡のほんの一端だった。


 ここ十年ほど大陸各地で天候不順や魔物の異常繁殖が起こったりしていて、大きな問題になっていたのだが、それらがぴたっと治まったのだ。

 

 彼女が言うには、僕の魔力には本来聖女に宿るはずの女神様の恵が含まれており、それを放り投げて大陸全体に広げているから、なのだそうだ。

 

 そんなことある? と思ったが、実際にそうなっているのだから疑問を呈する意味もない。

 

 これも創世の女神様の思し召しなのだと、粛々と受け入れるだけだ。


 別の世界で普通の人間として生きていた前世の記憶があるという彼女は、僕の知らないことをたくさん知っていた。

 この国の常識に囚われることなく、僕の身分を気にすることもなく、ぽんぽんと軽口をいう彼女と話をするのは、いつも新鮮な気分にさせられる。

 

 たとえ抱きしめることは叶わなくとも、彼女が側にいてくれるだけで僕は夢見心地になるくらい幸せなのだ。


 だが、彼女には僕以外にも気にかける存在がある。


 セラフィーナ・ハスティ。

 僕の面倒を見てくれているハスティ侯爵の義娘だ。


 トゥーラは彼女のことを『お母さん』と呼び、彼女の身を心配して一日に何度も周囲の偵察に行く。


 なぜセラフィーナ嬢が『お母さん』なのか、その理由をトゥーラはきちんと説明してくれたが、時が戻ったことなんて確かめる術はない。

 前回の世界では、聖女だったセラフィーナ嬢は大陸全体を巻き込んで壮絶な復讐を遂げたということだが、今の彼女はその片鱗もない普通の女の子だ。


 トゥーラの存在自体が奇跡なのだから、深く考えることはせずそういうものだと受け入れた。


 愛しいトゥーラが僕以外の誰かを気にかけるのは正直なところ面白くないのだが、その相手はまだ五歳の女の子だ。

 張り合うことができる相手でもない。

 それに、トゥーラを生み出してくれたという恩もある。


 戸惑いつつも優しく接すると、セラフィーナ嬢はすぐに僕に懐いた。

 子供といえば、我儘で理屈が通じなくて、なにかあれば泣き叫ぶようなイメージだったが、彼女はそうやって僕を困らせることはほとんどなかった。


 トゥーラによれば、セラフィーナ嬢はおませ(・・・)だからなのだそうだ。

 女の子はそういうものだというトゥーラにサムエルも同意していたので、本当にそういうものなのだろう。


 本を読んでいるだけではわからないものがこの世にはたくさんあるが、女の子の生態もそのうちの一つだということを僕は学んだ。


 懐かれてみると、セラフィーナ嬢を可愛く思うようになった。

 もちろん、トゥーラとは別の意味でだ。


 子猫や小鳥と同じように、セラフィーナ嬢は可愛い。

 

 セラフィーナ嬢が笑顔だと、トゥーラも笑顔になる。

 

 トゥーラのためにも、セラフィーナ嬢が健やかに成長できるよう手助けをしてあげよう。

 ハスティ侯爵にも恩返しができるし、一石二鳥ではないか。


 そうしていたら、今度は甥で第二王子のルーカスにも懐かれるようになった。


 久しぶりに会った彼は覇気がないというか、影が薄い印象だった。

 

 健康な体を持っているのになにを甘えているのだと思わなくもなかったが、年の近い優秀な兄と比べられるのも嫌だろうなと想像はつく。


 僕は彼と一緒に剣術の鍛錬をすることにした。


 そろそろそういったことに手を出そうと思っていたところだったから、ついでのようなものだ。

 

 なぜ僕が剣術を習おうと思ったのかというと、それはもちろんトゥーラのためだ。

 彼女は、逞しい騎士が好きなのだそうで、たまにハスティ侯爵家の騎士たちが鍛錬しているところを覗きに行くのだ。


 それを知った時、僕は平静を装いながらも嫉妬で心も体も真っ黒焦げになりそうだった。

 そして、体調が許すようになればすぐにでも鍛錬を始めようと決めたのだ。


 体を鍛えるのは辛いこともあったが、トゥーラが応援してくれると気力が果てしなく湧いてくる。

 彼女にかっこいいところを見せたいと思うと、いくらでも頑張ることができた。


 そんな僕に影響され、ルーカスも真面目に剣術と向き合うようになった。

 元々素質があった彼の上達は、目を見張るものがあった。

 

 剣筋を褒められるようになった彼が自信に繋がり、精神的にも強くなるのはすぐだった。


 それでも傲慢になることなく、周囲への感謝を忘れずセラフィーナ嬢への気遣いを欠かすことはなく、立派な騎士へと成長していった。


 残念ながら、幼少期をほとんど寝台で過ごした僕は彼ほどの腕にはなれなかった。

 それでも、平均的な近衛騎士と一対一で渡り合えるくらいの腕前にはなることができた。

 体にもそれなりに厚みがでて、騎士服を着てもしっくりくるようになった。

 そんな僕の姿はトゥーラの好みに合っているようで、彼女は他の騎士を見物しに行くことはなくなった。

 彼女のキラキラとした碧の瞳が僕に向けられることが増えたというだけで、頑張って鍛えたかいがあったというものだ。


 だが、もちろんそれだけで満足したわけではない。

  

 彼女の心がほしい。

 僕としか言葉を交わせないからという理由ではなく、僕のことを愛しているから側にいるという選択をしてほしいのだ。


 彼女をドールハウスに閉じ込めて僕だけのものにできたらと、幾度願ったことか。

 鈍重な人の身を、どれだけ恨めしく思ったことか。


 僕の心は初めて会ったあの時から彼女のもので、一度も揺らいだことはない


 僕には、ずっとトゥーラだけなのだ。

 トゥーラさえいれば、他にはなにもいらない。

 離れるなんて、耐えられない。


 セラフィーナ嬢とルーカスが正式に結婚したのと同じ日に、僕は彼女に求婚した。


 もし断られたら、その場で命を絶つつもりだった。

 彼女と離れて僕が生きていけるわけがないのだから、自刃してもしなくても結局は同じことになる。


 優しい彼女は、僕がそんな死に方をしたら酷く悲しむだろう。

 それでも、彼女の心に傷となって僕の存在が末永く残ることができるなら、本望だ。


『ヴィル……ヴィルヘルム。私も、あなたを愛してる。

 これからもずっと、側にいるわ。

 あなたの肉体が滅んでも、ずっと、ずっとね』


 求婚を受け入れてくれた彼女との初めての口づけは、天にも昇る気持ちだった。


 生まれてきてよかったと、僕は創世の女神様に心から深く感謝した。

 

 もし僕の胸の中にあるトゥーラへの愛が女神様に植え付けられたものだったとしても、僕は恨みはしない。

 おかげで、僕は至上の幸福を手に入れることができたのだから。


 いつかこの鈍重な肉体が滅び魂が解放されたら、彼女を抱きしめることができるようになるのだろう。

 それが待ち遠しくてしかたがない。 

 

 僕の愛しいトゥーラ。

 これからも、ずっと一緒だ。


 幸せな気分で眠りについた僕は、夢の中で女神様の声を聞いた。

 僕とトゥーラが種族の枠を超えて愛を育むのを眺めるのは楽しかったのだそうで、ご褒美をくださるのだそうだ。

 

 そして目が覚めると、そこには女神様の言葉のとおりに姿が変わったトゥーラがいた。


 ばびにく、というのはトゥーラがたまに言う前世の記憶にある言葉なのだろう。

 

 抱きしめると、温かな体温を感じた。

 碧の髪に顔を埋めると、甘い花のような香りがする。


 トゥーラは、僕と同じ生身の人間になったのだ。

 さすがは女神様、すばらしいご褒美だ。


 慌てているところからすると、女神様のお告げはトゥーラにはなかったようだ。

 おそらくだが、翻弄される僕らを遠くから眺めて楽しんでおられるのだろう。


 僕はまだ状況が飲み込めていない様子のトゥーラを、有無を言わさず寝台に連れ込んだ。


 同じ人間になったのだからもう遠慮する必要はないし、それ以前にもう我慢できない。

 僕だって、健康な男なのだ。


「愛しているよ、トゥーラ。

 きみは、これからもずっと僕のものだ」


 そんなわけで、愛しいトゥーラは全て僕のものになり、僕たちは末永く幸せに暮らしたのだった。

  

  


シークレットベビー要素少な目でごめんなさい!

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― 新着の感想 ―
まさかヴィルとトゥーラが結ばれるとは思いませんでしたが、面白かったです(´艸`*) 最初に魂ごと断罪された妹とか王太子などなど、ざまあも良き(`・ω・´)
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