いつかの言葉を繰り返すように、何度も声を聴いている。
《ある医師のカルテより》
いつかの言葉を思い出すように、いつかの想いを伝えるように、何度も繰り返される言葉を聴いている。
言えなかった悲しみと後悔と怒りがごちゃ混ぜになって、いつかキミを潰してしまう前に、その声を聴かせて欲しい。何度だって聴こう、何度だって受け止めよう。そのために、オレはここにいる。
その日はきんきんと星が鳴りそうなほど寒い日だった。オトナシは自分以外の誰かの気配を感じて振り返った。少し離れた所で立ったまま、こちらを向く患者の姿がある。
ここは彼の地。どこよりも遠く、どこよりも近い場所。
天に広がるは紺の帳。帳を飾るは金糸銀糸の星の子たち。地に広がるのは形のないもの。風が揺れるたびに姿を変え、形を変え、岩に、木々に、草花に、砂に、波に、風景を変える。
今、辺りは分厚い氷で覆われた小さな湖になっていた。底まで見えそうなほど透明だというのに、氷のむこうは光が届かないのか黒に沈み、底が知れない。
オトナシは小首を傾げて、患者に歩み寄った。オトナシは医師だ。とは言っても病気を治したり怪我を治したりするわけではないから本当の意味での医師とは異なる。それ以外に良い言葉が見当たらないから医師と呼ばれているに過ぎない。
ヘッドホンの頭を持つからオトナシ。本当は別の名前があるけれど、皆がそう呼ぶからそれでいいとオトナシは思っていた。頭の代わりに宙に浮く黒にも見える深い藍のヘッドホン、首元にヘッドホンと同じ色のラインが入った白い外套を羽織って、足元には黒いブーツ。それがオトナシのお決まりの格好だ。
「こんにちは。もしかして初めましてっスかね」
患者の頭を覗き込む。冷たい風の中で黒い煙がゆらゆら揺れる。こちらも患者と呼ばれているだけで、本質的には患者ではない。医師と呼ばれる存在がいるから相対的にそう呼ばれているに過ぎない。彼らは皆、同じ姿だ。黒いコートに黒いズボン、黒いブーツと黒づくし。頭はなくて、代わりに切れた首から必ず気体が漂っていた。具合が悪くなればなるほど色は黒く変化していく。状態によってキリ、カスミ、クモ、ケムリと4つの呼ばれ方をされていて、キリが1番軽症の、ケムリが最も危険な状態の患者のことをさした。
しばらく様子を見ていたオトナシは小さく息を吐く。
「……ケムリっスね。じゃあ、ケムリさんって呼ばせてもらうっス」
患者は答えない。ただぼんやりと立っているだけだ。
「座りましょ? 立ちっぱなしは疲れちゃうでしょ」
言ってオトナシは丸めた布を広げるようにふわりと手を上下に動かした。するとオトナシの手に黒いラグマットが現れた。天に広がる星空のようなデザインが施してある。
ラグマットを氷の上に敷いて、オトナシは腰を下ろした。空いた隣をポンポンと叩くと誘われるままに患者が腰を下ろす。そうして三角座りをした足を自分の腕で護るように抱いた。
しばらくふたりして黙り込んでいた。きんと冷え切った天で星はまばゆいほどに輝いている。
「……何か、話したいんじゃないんスか?」
天を見つめたままそっと穏やかな口調でオトナシは問いかけた。三角座りした膝に腕をやって、その上にヘッドホンの片方を乗せて、患者の方を見る。
た
す
け
て
4文字の言葉が零れてきた。雪が降り積もるときに出るような、ほんの小さなその言葉をオトナシはしっかりと聞き取っていた。
「たすけて……と、言いたかったんスか?」
こくり、と患者が頷く。ふーんとオトナシは優しく相槌を打つ。
「たすけて、ほしかったの。しにそうなくらい、くるしかったの」
ポツリ、ポツリ、患者が言葉を零していく。
「くるしかったら、いってねって、いわれてた。でも、たすけて、くれなかった」
「というと?」
患者がぎゅっと手を握り締めた。オトナシはそっと静かな声で、ゆっくりでいいっスよ、と言う。
「くるしいりゆうを、さがしなさいと、いわれた」
ぐしゅりと何かが潰れるような音がした。腐った果実が潰れるような音だった。患者の煙がぼこりと黒い煤を吐く。
「りゆうなんて、さがせない。わけもなく、しにたくなるのに。りゆうがわかってるなら、こんなに、こんなに、くるしいわけ、ない」
震える声が患者の苦しみを伝えてくる。このひとはたった独りでそれを抱え込んできたのだと、オトナシはすぐに分かった。
患者がこちらを向く。オトナシは頭を上げた。
「くるしいと、わけもなくおもってしまうのは、それは、いけないこと、ですか?」
オトナシは困ったようにヘッドホンの片方を撫でた。それからおもむろに言う。
「いいえ。全然。むしろ、自然なことじゃないんスか? アンタも言ってたじゃん。理由がわかってたら苦しんでないって。それが答えっスよ」
患者が黒い煙を噴く。オトナシは両足を投げ出した。両手は後ろについて、天を見上げながら言葉をつぐ。
「理由がある苦しいも、理由がない苦しいも、等しく苦しいって感情っス。その苦しいはアンタだけのもんだ。他の誰かが理由の有無だけで決められるものじゃない」
オトナシはちらりと患者を見た。真っ黒だった煙がチカチカ、銀の粉を噴きながら、ほんの少し灰色になったようだった。それに気づいてオトナシは安心したように少しだけ笑う。
患者は何も言わないままだ。少し待ってからオトナシは続けた。
「いろいるんスよ。訳もなく苦しくなる人も、そんなことと一生縁がない人も。どっちかが悪いなんてことはないんス。ただ」
思わず苦笑が零れた。患者が不思議そうにしているのがわかる。キシリと氷の湖が小さく鳴いた。
オトナシは手を伸ばす。天の星を捕もうとするように。星は遠くて、届かない。
「どういったわけか、それがわからないひともいるんスよねぇ。理解も、納得もできないひと。不思議っスね。同じヒトに生まれたはずなのに」
伸ばしていた手を下ろしてオトナシは患者の方を見る。チカチカ銀の粉が舞う。煙は上へと昇って行って、天に飲まれては消えていく。
「だからアンタは何も悪くないよ。苦しいを素直に苦しいと言えるのは大切なことっスから」
「たいせつ?」
「そう、大切」
小首を傾げる患者に頷いて、オトナシはちょっと下を向いた。暗い暗い湖の底にあるなにか指さすように、そっと氷を人差し指でなぞる。冷たさに指先がじんと痛んだ。
「苦しいを言うどころか、それに気づけないひとも多くいますから」
懐かしむような苦笑がオトナシから零れた。とん、と氷を指先で弾いて、だからね、と患者に向き直った時。
「あれ?」
そこにはもう誰もいなかった。天には星が輝いて、地は風と共に姿を変えるばかりである。
「もう、いいんスか?」
座ったままオトナシは呟く。けれどその問いに答えるものは誰もいない。オトナシは困ったようにヘッドホンを撫でた。そうして星の煌めく天を見上げ、そっと優しく言葉を告げた。
「まぁ、いつでも待ってるんで。苦しくなったら、また来てください」