リベンジ
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予めご了承ください。
また当作品には、以下の描写が含まれます。
・暴力行為(暴言、いじめを含む描写)
・殺人行為
それらを踏まえて、読後自らの感情に責任が持てる方のみお読みください。
〈十一月二十日 月 08:16〉
これは何かの夢なのだ。私はそう直感した。
そこはひどく寂れた映画館のようで、目の前には大きなスクリーンがある。その脇にある黒いカーテンは破れかけており、下の方からは後ろの壁が少し見えていた。座っている座席は少し動く度にキィキィという可哀想な音をたてる。肘掛けもべたついていて、何もなければすぐにここから出ようとするような劣悪な環境だった。
それでも、その部屋から出なかったのは、酷く疲れていたからだった。疲れていて何もしたくないのだ。なぜ疲れているのか。その理由を思い出そうとしたが、それは出来なかった。
ここが夢だ、と思ったのは、現実世界の映画館のような賑やかさが無いからだった。見る限り私の他には、後ろの方で座っている男が一人しか確認できない。ちなみに私は前から三番目の列中央に座っており、スクリーンが見やすい位置だった。
男、といっても本当にそうかは分からなかった。黒いパーカーを着ておりそのフードを被っているため、顔が影ではっきりと見えないのだ。前の席の背もたれに乗せている足は真新しいスニーカーを履いていた。なぜかその姿に既視感がある。
すると、急に前のスクリーンが明るくなった。何かが上映されるらしい。私は、まだ動くことが出来ない。きっと、このまま映し出される何かを見る羽目になるのだろう。
〈十一月七日 火 20:12〉
九月頃だっただろうか。ひきこもりの兄が、バイトを始めた。母はそのことについて今日も嬉しそうに語った。わたしは信じていたの、やっぱり強い子なのよ、と。
私はそれに、そう、よかったね、と返しながら、リビングのテレビを点けた。とある音楽番組が映ったことを確認しリモコンを置くと、その横に用意しておいた自分のスマホを手に取る。パスコードを打ち込んで開くと、「川本怜奈」宛の大量の通知が現れた。大学で知り合った女子達とのグループトークからのものだった。
さっと目を通すと、どうやらその中心人物の中村朝美が来週金曜日に行われる合コンのメンバーを募っているようだった。
音楽番組では丁度、朝美の好きな男性アイドルグループが新曲を披露している。今日大学で朝美に、視聴率を上げるために見て、と言われたのだ。別に私は好きではない。朝美の頼みだとはいえ、興味の無い音楽を聴くのは苦痛だ。けれど、見て、と言われたものを見ていなかったら人の輪にヒビが入る。それだけは避けたかった。やはり人付き合いにも多少の努力は必要なのだ。
母は、というと、先ほど食べた夕食の片づけをしていた。まだ帰ってきていない兄と父の分はラップをして食卓に置いてある。兄の分はひきこもっていた時と同じようにトレイの上に置いてあった。
皿洗いの音と音楽番組をBGMにして、グループトークに参加する。溜まった会話を追っていると、不意に聞いたことがあるような声がテレビから聞こえてきた。顔を上げて見てみるとtree.という新人シンガーソングライターの特集が始まっていた。中性的な歌声と弱い自分を等身大に綴った歌詞が持ち味、と紹介されている。
そういえば、野田茉莉と江森宮子が話していたような気がする。その時は、そんな歌手がいるのか、と思っていただけだったが、そうか男だったのか。けれど、私にとって重要なのはそこではなかった。
私はその男のことを知っていたのだ。細かく言えば、tree.になる前の奴のことを。
すぐには信じられず、画面の中の奴をよく観察する。テレビ初登場だ、と言われてスタジオに現れた奴は、その細長い身長を折るようにして礼をした。不健康そうな痩せた体つきに、目にギリギリかかるくらいの前髪。あれから成長していることもあり、分かりにくくはなっているが、私の知っている暗い雰囲気がそのtree.という男にもあった。私は確信した。
こいつは、河本大樹だ。小中、と同じ学校に通った、いわば同級生。愚かで愛しかった、私の友達。
見たくない。そう思いながらも私はその男のことを目で追っていた。
奴の暗い雰囲気はかえってアーティスト独特の謎のようなものとして成立していた。そのせいか、スタジオで言葉を発するごとに観衆が静まり返っていくのが分かった。
『どんな想いでこの曲を歌われているのですか?』
司会者がそう訊くと、マイクをじっと眺めた後ゆっくりと答えた。
『……ぼ、僕は昔いじめを受けていました。その時のことを思い出しながら歌います。誰かのことを傷つけてはいけない、一人一人生まれたことに意味があると思うから。……そう信じて歌っています』
『……なるほど』
チッ、という音が聞こえた。私が舌打ちをした音だ。懐かしさと悔しさとやるせなさ。それらがぐちゃぐちゃと混ざりあう音も聞こえてきそうだ。
御大層なことを言っているようですが、お前、その空気分かってんの? 司会者困ってんじゃん。お前のその空気読めなさっぷりは健在かよ。
私は思い出から逃げるように首を振って、再びトーク画面に視線を戻した。すると、朝美の他に茉莉、宮子が合コンに行くことになっていた。
【あと一人ー! 誰かー!】
朝美が最後の一人を絞り出そうと呼びかける。けれどそのもう一人が中々現れない。顔の見えない画面越しに、誰か行けよ……、とみんなが空気を探り合う気配が感じられた。なんだか集団で朝美をシカトしているみたいだ、と思った。私はスマホの画面の前で眉毛をハの字にし困っている朝美を想像して、笑った。きっと自分が勝手に合コンに参加したかったために軽率にメンツ集めをかって出たのだろう。彼氏にフられてすぐに次を探し出すその恋愛イゾンショウっぷり、ほんとすごいよ。ざまぁみろ。
すると、個人のトークから通知が届いた。茉莉からだ。
【合コンの件。怜奈、行かない? 確か彼氏いないよね。朝美このままだと不機嫌になってメンドイから(笑) 行こうよ!】
私はまたもや笑った。茉莉はいつも朝美のご機嫌取りをしているが、まさかここまでとは。というか朝美、茉莉にメンドイ認定されてんのかよ。なんと美しき友人関係! それに彼氏がいないだけで誘ってくる強引さもぶっとんでいる。私はもはや朝美のご機嫌取りに利用されているのだ。
けれど。私はカレンダーを見て日程を確認した。料金は男性持ちだというし、日にちも空いている。正直に言うと、行ってみたことが無い合コンに興味をそそられていた。別に男に興味があるわけではない。むしろ、一緒に行く朝美達に興味があった。
自分しか見えていない朝美に、腰巾着を気取っている茉莉。そしてこの中ではそこそこ可愛く、格好の餌食になりそうなコミュ障宮子だ。宮子もこういうことにノるような性格ではないから、きっと茉莉に誘われたのだろう。宮子は容姿は整っていたが話下手で、たいていは聞き役に回っている。そんな子が、男達に囲まれて困ったように私の方を見るのだ。
それが見られるとしたら面白そうだ。私は楽しみで体中がゾクゾクするのを感じた。すぐさま参加する旨をグループと茉莉の二つのトークに送る。
音楽番組が終わった。私は課題などが残っていないか頭で計算しながら、録画一覧のメニューを開いた。話題合わせのために見なければならないドラマが溜まっているのだ。
すると、先ほど見ていた音楽番組が録画されていた。間違えて録ってしまったのだろうか。私は確認のために母を呼んだ。母は私が三回呼んだところでようやく気付いた。
「録画? あぁ、それね、お兄ちゃんよ。録ってあるから消さないで、って言ってたわ」
それだけ言うと、母はそのまま作業に戻っていった。
不思議だ。私はそう思った。
一つ上の兄、川本拓郎は小学校高学年から不登校になり、中学からほんの最近まで二階にある自室から出てこようとはしないひきこもりだった。私と違って気弱で小さいときからよく泣く子だった。そうなると母は兄を膝の上に乗せて、優しい声をかけながらなだめた。兄にひたすら甘かった母は、学校に行きたくない、と言い始めた兄を休ませ、私だけを学校に行かせた。兄はそのせいで友達もいないようだったし、これといった趣味も見受けられなかった。
けれど、最近はどうだ。
伸びっぱなしだった髪を切り、バイトを始め、音楽番組を録画している。
チッ、不思議だ。今度は心の中だけで舌打ちをした。いっそのこと、この番組を消してやろうか。お前みたいな思い上がりは世の中に取り残されるべきなんだよ。
「怜奈、何、ボーッとしてるの」
母の声で、私はその音楽番組にカーソルを合わせたままであることに気付いた。
「……なんでもないよ」
私は本心を見せないようにしながら、器用に笑った。
〈十一月二十日 月 : 〉
兄妹喧嘩というものは、こんなにも一方的で良かったのだろうか。それも妹ばかりに軍配が上がるワンサイドゲームだなんて。
『お兄ちゃんは優しいから、怜奈に譲ってあげているのよ』
母は暴力をふるった私を叱らず、何もしなかった兄を褒めた。よく我慢したね、流石お兄ちゃんだね、と。
違う、と私は言いたかった。兄はただ臆病なだけなのだ。人を傷つけることばかりを怖がって、自分の考えをも言おうとしない、ただの弱虫なのだ、と。
『自分が呼吸している度に誰かのことを傷つけている、と思っていなさい』
夢の中の映画館。そこで上映され始めたのは私のこれまでだった。スクリーンに映っている母はその言葉を言う。私は懐かしさで胸がいっぱいになった。
これは母が私を叱る最後の記憶だ。私が兄を階段から突き落としてしまった時に言われた言葉。小学生に上がりたての時、物を大事に扱わない私に、兄が本を貸すのを渋ったのが原因だった。
私はただ、貸してくれない理由を説明して欲しかっただけなのに、兄はただ黙っているだけで、そのことにカッとなって突き飛ばした。運悪く倒れた先が階段で、運良く兄は怪我一つしなかった。その代わり大泣きをして母に見つかり、私は怒られた。そしてこの言葉を言われたのだ。
『本当に自分の呼吸が相手を傷つけているってわけではないの。ただ人はね、気付かない内に誰かを傷つけていることがあるから……。けれど最初からそう思っていれば、じゃあ出来るだけ他人に優しくしよう、と思うでしょう。知らない内に謙虚になって気付いたときに優しくしてあげることが出来る。だから大げさかもしれないけれど、そう思っているのよ』
私達の前でそう語る母は優しく微笑んでいた。まるで神様みたいだ、と思った。兄が珍しく手を挙げて質問をした。
『けんきょ、ってなに』
『謙虚、はね。控えめで素直なこと。お兄ちゃんはちゃんと出来ているわ』
そうかな、と兄は顔を下に向けた。目だけがそろり、と私の方を見た。真っ黒で、なんだか空っぽな瞳だ。じっと私のことを見つめている。
「同情されてんのか。可哀想に」
急に自分ではない声が聞こえた。組んでいた足を解き、後ろを見やる。するとあの男が軽く手を上げて下したのが見えた。今の声はあの男のものらしい。
「でもこんな一方的なの、喧嘩じゃないね。まぁ、興味ないけど」
「確かに。友達から聞いた兄弟喧嘩とは全然違うなぁ、って思ったことあるよ。ていうか、他人の家庭事情見せつけられて退屈でしょ。なんでこんなの上映されてんだか……」
すると男はいやいやいや! と手をヒラヒラさせた。前の席の背もたれから足を下す。
「気にしてないよ。思いやり、どうもありがとう」
思いやり。私はその言葉に小さな棘のような気持ち悪さを感じた。
スクリーンに映し出されている私は小学校四年生になったようだった。ざわついている教室に一人の男子が入って来る。
「こいつは?」
男がこちらを見ずに私に訊ねた。
「……小四の時に私のクラスに来た転校生。河本大樹。中二まで一緒でそれからまた転校していった。川本と河本だから名前の順で並ぶと前後だし字が似てるしで、よく間違えられた」
「ふーん、この子のどこにいじめる理由があったんだろう」
「え?」
思わずそう訊き返すと、男は軽く笑った。
「知っているよ。お前が河本をいじめていたってことは。自分は何でも知っているんだ」
男はそう言ってスクリーンを指差した。画面には、河本に何かを指示する私が映っている。
私が河本の手を引いて連れてきたのは学校の花壇だった。
『わたし、あのお花がほしいなぁ』
『えっ?』
戸惑う河本の手を放して私はそこに咲いている花を指差した。耳元で囁く。
『大樹くん……。あのお花ひっこぬいてきてよ』
当然河本は首を振って出来ないことを示した。しかし私がポケットに入っていたチロルチョコを取り出すと黙りこくった。
『この前、大樹くんに万引きをさせた子たちのこと、先生に教えちゃうよ?』
それを聞いた河本は観念したように花壇に向かった。
ぶちぶちと根を引きちぎる背中が震えている。私はその様子を遠くから眺めていた。そして走って戻ってきた河本を校舎の陰に引き込んだ。河本は泣くのを我慢しているような顔をしていた。
『ありがとう、大樹くん。無理させてごめんね』
私は、そう言って丁寧に河本の頭を撫でた。その言い方は明らかに母を意識しているものだった。
当時の私は、河本に悪いことをさせては優しく褒める、ということを繰り返していた。大人しいけど良い子、と思われていた河本が、悪いことをしている、と自覚している時の顔が好きだったのだ。
力が弱く、体も小さかった河本は、まず男の子達の格好の遊び相手になり、女の子からもいじられるようになっていった。
何かされる度に男の子達の前ではピィピィ泣いた。しかし、一人でも女の子がいるとそれを堪えていた。
私はそれが気になった。一人になったところを見計らってその理由を訊くと、女の子の前ではかっこわるいところは見せてはいけないからだ、と答えた。
『ママがね、そう言うんだ』
小四にもなってママ呼びをする河本は、そう言うと幸せそうに笑った。私は笑顔を作りながら、すごいね、かっこいいね、と褒めてやった。
優しい声に安心したのか、河本はこちらを見た。私はその時、母に褒められた兄の瞳を思い出した。
それがきっかけだったのか、河本はだんだんと私がいた女子のグループと遊ぶようになった。私の言うことばかりを聞いていた。私はその様子を見ながら、大切に育てている花に水をやっているような気持になった。
けれど同時に冷えた怒りのようなものも感じていた。付きまとってくるのが煩わしかったからだろうか。いや、分からない。きっとこの世界において、他人をどうにかしてみたい、と思うことはひどく自然なことなのだろう。
河本は、男子達に万引きをするよう指示をされ、言う通りに盗んだお菓子を必ず私に見せてきた。
『怜奈ちゃん、またやっちゃった……。やっぱり僕、先生に言った方がいいかな……』
校舎の裏はジメジメとしていて暗い。私は、誰も見ていないことを確認して河本に笑いかけた。
『ダメだよ、大樹くん。わたしは大樹くんが悪いことをした、ってなったら悲しいよ。だから先生に言っちゃダメ』
『じゃあ、僕はどうすればいいの?』
今にも涙を流しそうな河本を私は抱きしめる。甘い甘い声で諭してやる。
『悪いことをしたら、ばつを受けなきゃいけないの。このことを知らない先生や大樹くんのママができないなら……、わたしがやってあげる』
私が右手を振り上げると、河本はぎゅっと目を瞑った。
『……泣いちゃ、ダメだからね』
そう言うや否や、河本の頬を張った。ばちん。ばちん、ばちん、ばちんっ。
『痛いだなんて思っちゃダメだよ。たたいてるわたしも手が痛いんだからね』
何回目かの「ばちん」で河本が尻もちをつく。私はそこに馬乗りになって叩き続けた。膝には湿った土が付いている。
私の息が切れてきたところで、河本を抱き起こす。最後の仕上げに優しい神様みたいな声でこう言った。
『よくがんばったね。もうわるいことをしちゃダメだからね』
河本はそれにぼんやりした顔で頷いた。
それから二人は、また明日、と言って繋いだ手を離した。家に帰ってきた私は、河本を叩いてかゆくなったのか右手をしきりに掻いていた。玄関先で立ち止まり、家の奥、リビングの方を見ている。
聞こえてきたのは、兄の激しい泣き声となだめる母の甘い声だった。兄のいつもより酷いキーキーした泣き声で、スクリーンを見ていた私は気づいた。この日初めて兄が、学校に行きたくない、と言った日であることを。新品の運動靴を誰かにバラバラに切り刻まれて逃げ帰ってきていたのだ。
「うん、確かに」
私は足を組み直した。男は私の方を見なかった。
「私は河本を傷つけていた。だけどただ楽しいからってだけでやってたわけじゃない」
私は、快楽で誰かを殺すような人間じゃないのだ。そんな短絡的な理由に押し込めて欲しくはなかった。
「私はただ教えているだけだよ。……お前らだって誰かを殺しているんだよ、って」
〈十一月十七日 金 20:17〉
19:00から始まった合コンは、朝美と茉莉を中心に話が盛り上がっていた。最近よく聴くアーティストの話、が今の話題らしい。
朝美が得意気に男性アイドルの話を持ち出すが、反応はイマイチだ。彼女が熱を入れて話せば話すほど場は白けていった。けれど朝美はそれに気付こうともせず、周りなんかお構いなしに話し続けている。完全に自分に酔っている行為だ。
「じゃあ、宮子ちゃんは?」
一番つまらなそうに聞いていた茶髪の男が宮子に話を振る。話足りなさそうに朝美は口をすぼめた。何その顔、不細工で面白いね。
どうしよう、と宮子は小さい声で私だけに話しかけた。朝美と違って宮子の困った顔は本当に可愛い。その瞳から涙を零してあげたいと思うほど尊いのだ。
私は、大丈夫、頑張って、と言ってあげた。けれどすぐにそう言ったことを後悔した。
「さ、最近は……。tree.さんを聴いています。知ってますか?」
「知ってる! 俺もよく聴いてるよ!」
すると、私の前に座っていた眼鏡の男が手を挙げて同意した。それが呼び水となったのか一気に場が盛り上がる。
「オレもオレも! 最近知ってハマったんだ。流行ってるんだね!」
「あたしも宮子に教えられて! この前のツアーファイナル当たったんで二人で行ってきたんですよー。ほら!」
私の横で半ば立ち上がりながら、茉莉は自分のスマホの画面を見せた。そこには、お揃いのツアーTシャツとタオルを身に付けた宮子と茉莉が写っていた。
私は黙ったまま驚いていた。茉莉の奴、いつの間に宮子と……。それに宮子がライブに参加するような行動力がある子だとは思わなかった。
「このtree.のロゴマークもお洒落だよね。ライブは行けなかったけどツアーグッズぐらい欲しかったなぁ」
「事後通販ありますよ、確か! まだやってたはず! あたし、ポーチ追加で買っちゃいました」
茉莉はそう言うと、相手の男に通販のページを教え始めた。私は宮子が見せてくれたそのマークを見た。
それは植物らしき根が絡みついたハートマークだった。その根から一つ、新芽が小さく芽吹いている。私はいつか河本が引っこ抜いていた花を思い出した。
「マークの意味も素敵ですよね。……思いやりは人を想う気持ちから生まれる。心を育てることで優しい芽が生まれるはずだ。僕たちは音楽で心を育てよう……」
「それ聞いた気がする。去年の横浜のライブだっけ」
「そうです! もしかしていらっしゃってたんですか?」
「行った! 宮子ちゃんも?」
「はい、行ってました!」
話を促した私を置いて宮子はみんなとtree.のことで話を盛り上げていった。元々、男目当てで参加したわけではなかったが、こうなると少し不愉快だ。それに盛り上がっている話題が赤の他人のことならともかく、あの河本のことなのである。
私は、どの曲が好きなのか、という話に発展していく場に素直に順応出来ずにいた。いつもならどんな不愉快も笑顔に押し込めることが出来るのに。今の私は輪に入れているようで、輪に入れていないのだ。
いっそのこと、そのtree.が知り合いだと、告白してみようか。そう考えたところで私はその考えをうち消した。あの河本との繋がりで自分のことを持ち上げたくない。絶対に嫌だ。
「わたし、今でこそライブとか行けるようになってますけど、昔はそうじゃなかったんです」
宮子は小さな声で話し始めた。
「tree.さんっていじめられていた、って話あるじゃないですか。実は私も、いじめられていた時期があったので……。すごく勇気づけられたんです」
周りが神妙に聴いている中で、宮子は何気なく指を組んだ。どうやらその頃のことを思い出しているようだ。伏せた目はますます彼女のことを魅力的に見せていたし、そのポーズは何か敬虔な信者を連想させた。
「宮子ちゃんがいじめられていたなんて! オレがいたらいじめたそいつ許してないよー!」
茶髪が気持ち悪く声を上げる。ていうか、さっきからちゃん付けウザい。
「いや、もう終わったことなので。tree.さんとそのファンの方達に出会えて友達も増えました。tree.さんがわたしを変えてくれたんです」
宮子がそう締めくくると、周りから拍手が起こった。
なんだこれ。私はイライラでおかしくなりそうだった。私が見ようとしていたのはこんな光景じゃない。
男に囲まれて困り顔になるはずの宮子が自分の過去を話し、男達を黙らせている。機嫌がよくなるはずの朝美は死んだ目でサラダを食べている。茉莉はそんな朝美を放置し宮子達と意気投合している。私は楽しんでいない。
こんなはずではないのだ。そもそも過去いじめられていたことなんて合コンで告白しないでほしい。そんな、他人に傷付けられたなんてよくあることを、何か個性のように見せびらかさないでほしい。そう思っていても、私は声を上げることは出来なかった。
宮子の話を皮切りに、周りも自分の苦労話を語り始める。この場は狂っているぞ、と叫びたかった。不幸自慢をしたところでただ傷を慰め合っているだけ。こんなのは最初の朝美と同じ、自分に酔った行為だ。
「宮子。そんな話聴いてて、私達が面白がると思ってんの?」
その言葉で場が一気に静かになる。言ったのは朝美だった。怒っているようだ。
「場がしらけるんですけどー」
朝美はそう言いながら立ち上がった。一万円札をテーブルに叩きつけて席を立つ。帰っていく朝美を追いかける者は誰もいなかった。
「しらけさせたのは、あんただっつーの!」
ぷっと茉莉が噴き出してそう言うと、周りもドッと笑った。爆笑に包まれながら宮子がそっと私の元に寄ってくる。
「朝美ちゃん、怒っちゃったかな」
心配そうに訊いてきた宮子に私は大丈夫だよ、と言って頭を撫でた。けれど私は内心絶望していた。
私は声を上げることも出来なかった。
私が散々馬鹿にしてきた朝美は声を上げた。
私は今、手を振り下す人間にもなることが出来なかったのだ。
〈十一月十八日 土 02:54〉
河本とは、二年間同じクラスで、六年生の時に別になった。成長と同時に周りからの嫌がらせも減り、中学に上がるとほとんど無くなった。違う小学校から来た子もいるため、人間関係がミックスし、白紙に戻ったのだ。小学校の時にいじめられていた奴だ、と言っても周りの反応は薄く、毎日がつまらないものになった。
中一の夏休み明け最初の集会で、河本は表彰された。全国規模の作文コンクールで優秀な賞をもらったのだとかいう話だった。それはとても珍しい事らしく、地区の新聞にまで載った。
隣のクラスにいた河本は、背が伸びて印象も変わっていた。その表彰をきっかけに友達も出来たようだった。暗い雰囲気は変わらず纏っているくせに、それがなぜか人を惹きつけているようだった。親の都合で転校していった中二の時も花束をみんなから貰い、涙を流す女子までいた。対して私は新しい場所に馴染めず、一人でいることの方が多かった。
ある日、私はその河本を取り巻く奴らの中に、かつて私と河本をいじめていた同級生を見た。一人だけではない。何人も何人も、自分は何もしていませんよ、といった顔で、河本に笑いかけていた。気持ち悪かった。恐ろしい、とさえ思った。けれどそれを思うのと同時に、これが真実なのだ、ということにも気付いた。
誰もが無神経に人を愛し、無責任に人を傷つけている。それはとても流動的な判断で、そこに善悪を判定する意志は無い。誰も、自分がどこかで手を振り下していることに気付こうとしないのだ。どんなに教えてあげても、それを見る意志すら無いのだ。
意志が無いのなら。私はついに諦めた。諦めて、人の輪に入ろうとするようになった。ほどほどに付き合って、そっと心の内で人を貶す。きっと私にはそれで十分なのだ、と思い込もうとしている。
けれどいくら頑張ってもずれていくだけ。歩いていく人々の中で私だけが遅れをとっているような感覚。あぁ、誰か。私と同じ想いをしている人はいないのだろうか。私は一体どこに、このやるせない気持ちをぶつければいいのだろう。誰か、見つけてくれ。私は確かにここにいるんだ。
自室のベッドから起き上がると、頭に鈍い痛みが走った。酒のせいだろうか。それよりも中学の頃を夢で見るだなんて最悪だ。
朝美が帰ってしまった後。白けた場を仕切り直そうと、急遽時間を延長した。それほど酒に強いわけではないため、それまでは誤魔化しながら飲んでいた。しかし、酔い始めた宮子達の誘いをかわしきることが出来ず、いつも以上に飲んでしまったのだ。
私は水でも飲みに行こうとドアを開けると、顔をしかめた。酷い臭いが漂ってきたのだ。廊下を覗きこむようにして確認する。
家の二階には、私の部屋と兄の部屋の他にトイレが一つあった。その暗い廊下の突き当りにあるトイレのドアが開いている。そこから明かりが漏れているのも見えた。
部屋を出て近づいてそっと見てみる。すると、兄の背中が見えた。どうやら兄がトイレで吐いているらしい。酷い臭いは兄の吐瀉物から来るものだったのだ。
私は今日大学に行く前に、兄が母に帰りが遅くなる、と伝えていたことを思い出した。理由を訊かれた兄がバイトの新歓に誘われたことを言うと、母は飛び上がって喜んだ。無理しちゃダメよ、だなんて言いながら、人の輪に誘われた息子にお金を握らせていた。けれど兄は無理をしたらしい。無理やり飲まされてしまったのだろうか。
便座を上げた状態の便器を掴んでいる右手は力みすぎて真っ白になっている。背中は第一波、第二波と来る度に下から上へ波打つ。私はその様子をただ見下ろしていた。
みじめだなぁ。せっかくひきこもりから脱して一歩を踏み出したというのに、また誰かにもみくちゃにされている。兄はいつだって何にもしていないのに被害にばかりあっている。世の中の輪に入ろうとしても、上手く入ることが出来ない。そうやってひきこもっていった兄を私は見ていた。バラバラにされた靴と泣いてグシャグシャになった兄の顔。
愚かで可哀想だ、と思った。そしてその可哀想な生き物は紛れもなくたった一人の私の兄なのだ。大嫌いで大嫌いで大嫌いで仕方が無いのに、血は繋がったまま。お前も私も、同じ母のもとで育った。認めたくないけれど、同じだ。
ふと気が付くと私は兄の横にしゃがみ込み、背中をさすっていた。兄はそこで私の存在に気が付いたのかこちらを向きかけた。けれどすぐに嘔吐の波が襲ってきてすぐに便器の中に突っ伏した。
兄はひとしきり吐くと、治まったのかただ黙って肩で息をしていた。ふと私の方を向く。
長い前髪の奥で涙に濡れた真っ黒い瞳がこちらを見ている。顔の全体が涙だけではない、鼻水や汗でぐちゃぐちゃになっている。私はこんなにも至近距離で兄の顔を見たのは久しぶりだった。じっと見つめていると、兄が背中にあった私の手を掴んだ。ギリギリと力が入っていく。
「痛い! 痛い、何すんの」
「……………すんな」
「え?」
次の瞬間、勢いよく腕を振り払われる。
「同情すんな」
それだけ言うと、私から顔を背けた。そのまま私達は黙ってトイレの中でしゃがみこんでいた。
私は驚いてしばらく何も出来なかった。しかしスゥーっと脳髄が冷えていくような感覚があった。脳裏に色々なイメージが浮かんでは消えていく。過去を語る宮子。声を上げた朝美。大成した河本。そして私を見ようともしない母と腕を振りほどいた兄。
すべてが私を否定していた。私を拒んでいた。
どんなに譲歩をしても、その人との距離は変わらない。どんどん向こうに行ってしまうのだ。
悪いことをした私を、置いて行ったまま。
「同情しなくていいのね」
私は立ち上がってトイレの水を流した。
「いいのね?」
甘ったるい声でそう訊くと、初めて兄は私を真正面から見た。
立ち上がろうとした兄の髪をむんずとつかんで、跳ね上がる水流に当ててやる。その時、兄が暴れたので私は一度トイレの壁に激突した。しかしその反動でさらに兄に体当たりをする。
運よく便器と壁の間に倒れてくれたので、すぐさま馬乗りになって首を掴んだ。兄も私の腕に爪を食い込ませるが、不思議なことに痛みは感じない。左手で首を抑え、両足で動きを抑えるようにする。空いていた右手は床に置いてあった消臭スプレーを掴んだ。そのまま振りかぶって兄の顔に叩きつける。何度も何度も。
目を瞑ってそれから逃れようとする兄は、ひどく滑稽だった。私は可笑しくて声を押し殺しながら笑っていた。
さっきのはなんだ。私の腕に爪を食い込ませているお前は何だ。
お前だって、やれば出来るじゃないか。
もっとやり返せばいい!
そうやって、私がここにいるということを証明してくれ!
その時、持っていたスプレー缶がすっぽ抜けて床に転がった。その一瞬の隙に、兄は勢いよく起き上がった。私は体勢を立て直せずに廊下に転がる。よく見ると兄の顔には血の一滴も流れていなかったし、首にも絞めた痕は残っていなかった。途中でやり返してくるなどの抵抗もなかった。なんだ、女の力はそんなものか、とがっかりする。
すると、階下から母の声が聞こえた。起こしてしまったのだろうか。
「騒がしかったけど、大丈夫ー?」
兄がひきこもりになってからというもの、ほとんど喧嘩という喧嘩をしてこなかった兄妹だから、まさかこんなことになっているとは思ってもいないのだろう。どう言うか考えあぐねていると急に兄が大声で怒鳴った。
「スプレー踏んでこけただけー。平気ー!」
兄の珍しい大声といい加減な誤魔化し方に私は驚いた。けれど母はそれを信頼したらしく、そのまま安心して戻っていったようだった。いつだって母は兄の言ったことを信じるのだ。
兄は首を手で押さえながらゲホゲホと咳き込んでいる。それが治まったところで私は問いかけた。
「なんで誤魔化したの?」
「別に。母さんに面倒かけたくないだろ」
「庇ったっていうわけ?」
私はそれだけ言うと、立ち上がった。何もかもがどうでもよく思い始めたからだ。しかし今度は私が兄に呼び止められる。
「何」
「……なんでこんなことするんだ」
「は? 心配してやったのに腕振り払われたからキレただけでしょ。そんなことも分かんないの?」
一息でそう言い切り、踵を返す。兄は私の背中に何かを差し込むように言った。
「お前、いつか罰が当たるぞ」
私は思わず笑った。上等だ。何もしないで黙っているよりいくらか分かりやすいじゃないか。
「そうかもね。でもそれはみんなだって同じ。よく母さん言うでしょ。人は知らない内に他人を傷付けているって。それなら、みんなだって当たるはず。そうじゃなかったら、不公平だ」
部屋のドアを開けて、最後に兄をもう一度見た。私を見る真っ黒い瞳はなんだか反抗的に見える。なぜか安心した。
「……お兄ちゃんだって、そう思うでしょ?」
〈十一月二十日 : 〉
今でも思い出せる。
本を抱きしめて下を向く幼い兄の瞳。それは真っ黒でなぜかとても空っぽに見えた。なぜそれを私に貸してくれないのか。そう訊いても兄は黙ったままだった。
何を考えているか分からなくて、どうすればいいのかも分からなくて。
だから。幼い私はあの日、兄を両手で押したのだ。
後ろは階段だった。下へと落ちながら、兄はそこで初めて私を見た。その時、空っぽだった瞳に何かが映り込むのが見えた。それは何か、気持ちだったのだと思う。それが恐怖だったのか、怒りだったのかは、分からない。とにかくその瞳に感情が混ざりこんでいくあの様子を見られて、私はすごくうれしかったのだ。
本当に、うれしかったのだ。
ところで、この男は一体なんなのだろう。
兄を殴る私の映像を見ながら、ふと考える。最初から既視感はあるものの思い出せないでいるのだ。男自身ではなくどちらかというと男の姿に見覚えがある。
「まだ思い出せないのか」
不意に男が問いかけてくる。男はたまに私の考えていることを見透かしているような質問をしてきた。心が読めるのだろうか。
一番後ろに座っていた男はいつの間にか私の二つ後ろの列のところで映像を見ている。真後ろだったら顔が見えたかもしれない。しかし斜め後ろに座っているおかげで、フードで隠れて見えなかった。そう、フードは最初から今まで被ったまま、なのだ。
「何かをやるときは顔を見せないようにする。それが鉄則だろう?」
「は? 何言ってんの」
男は立ち上がった。そのせいか、フードが少しずれて口元が見えた。
「まぁ、今に思い出せるよ」
その口元は笑っていた。
〈十一月二十日 月 07:44〉
「怜奈、お兄ちゃんも駅に行くから一緒に行きなさい」
大学に行こうと玄関で靴を履いていると、そう母から言われる。その後ろで黒いパーカーを着た兄がこちらを見ていた。昨日のこともあり、私は気まずくなって目をそらした。
「……分かった」
私は逆らうことが出来ずに、兄が靴を履くのを待った。兄は新しく買ったコンバースのスニーカーをおろしていた。
到着した駅のホームで欠伸を噛み殺しながら、スマホで時刻を確認した。画面には08:13と表示される。
兄は今日もバイトらしい。バイト先の方向まで同じなのかちゃっかり私の隣で一緒に電車を待っている。電車はあと三分で来るはずだ。
金曜日に出来た合コンのグループトークは未だにtree.の話で盛り上がっていた。私はそれに辟易しながら、適当に相槌をうつ。すると個人で朝美からのメッセージが来た。内容を確認する。
【金曜日は場をぶち壊してごめん。あのあとどうなった?】
私は時間を延長したことと茉莉が朝美に対して怒っていたこと、宮子が気にしていたことを伝えた。まぁ、茉莉は怒っているのではなく、実際には笑い飛ばしていたのだけれど。
【私は全然気にしてないよ。むしろあそこだけで勝手に盛り上がっちゃってるの気になってたから、すっきりしちゃった】
【ホント? 良かったぁ~】
適度に嘘を混ぜながらそう付け加えると、安心したような返信が来る。笑顔で涙を流すクマのスタンプも流れてくると、私は少し笑った。単純。
【怜奈はいつも優しいね。思いやりがあるっていうか。今度一緒に遊びに行こうよ♪ 二人で!】
【二人だけで?】
【そうそう。どこか行きたいところある?】
私は予想外の評価と誘いに一瞬真顔になった。私が、優しい? 思いやり、ねぇ。ふーん。私はそんなハリボテのような気持ちを意識したことは無いけれど。ただ相手に合わせているだけのことがこんなにも功を奏しているだなんて。けれどまぁ、甘んじてこの言葉は享受しよう。
【うーん。最近、映画見てないから、映画館とか?】
【いいね! そう言えば今見たいホラーやってるんだった。怜奈はホラー平気?】
ホラー。私はまたも笑った。ホラー映画で泣き叫ぶ朝美が見たい。それはそれは面白い反応をしてくれるだろう。
【平気、平気。見よう!】
丁度それを送ったところで、電車が向こうからやってきた。私はスマホの画面を待ち受けに戻し、時刻を確認した。その、表示された時刻は。
十一月二十日 月 08:16
急に私は前へバランスを崩した。背中にははっきりと誰かが両掌で私を前へ押した感触が残っていた。後ろから押されたのだ。一歩二歩、と堪えようとしたが、叶わず、線路の方へ吸い込まれるように落ちていく。誰かが私に罰を当てに来たんだ、と思った。中々やるじゃないか。
けれど体はそんな考えとは裏腹に、助けを求めていたようだ。隣にいた兄の方へ、手を伸ばしながら振り向く。
その時、私ははっきりと見た。
黒いパーカーのフードを被り真新しいスニーカーを履いて人ごみに消えていく誰かの後ろ姿。目の前で線路に落ちていく女を驚いた表情で見る人々。そして、犯人と同じようなパーカーを着た兄。
兄はただ落ちていく私をじっと見ていた。助けを求める私の手を掴もうとはせず、あの真っ黒で空っぽな瞳で私を見ていた。何の感情も抱いていないその瞳は、いつだって私を怖がらせる。兄の胸元には、見覚えのあるマークが描かれていた。植物の根が絡みつき、そこから一つの新芽が芽吹いているハート。そうだ、お前らはいつだって直接何もしないで、ただ黙って誰かを見殺しにしているんだ。私は、兄が録画していた音楽番組と茉莉が言っていた事後通販を思い出した。
兄は、改宗していたのだ。
兄すらも、奴の信者になっていたのだ。
それは、tree.のロゴマークだった。
〈 月 日 : 〉
「やっと思い出せたんだね」
私はその声でゆっくりと振り向いた。男は真後ろに座っており、私を見て笑っているようだ。
「その顔が見たかったんだよ」
そう言いながら男は自分のフードに手をかけた。バサリ、とフードを下すと兄の顔が現れた。けれど、初めて見るような印象があった。まるで兄という容器の中に別人が入っているような感覚だった。
男は後ろから私の座席を蹴り上げながら、話し始めた。
「まぁいわばこれはお前の走馬燈で、お前はもう人のことを嗤ったり、友達のことを悪く言ったり、一緒に映画に行ったりは出来なくなったってわけ。電車に轢かれて死亡」
何も言えずに黙っていると、男が私の頭の上に手を置いた。わざと優しく笑いかけ、頭を撫でる。その撫で方は、私が河本や宮子にした撫で方を彷彿とさせた。
「残念でした」
そう言う顔はいつの間にか、私のものになっていた。
男が私の頭から手を離し、席から立ち上がる。その瞬間には男の顔は河本になっており、次の瞬間には宮子の顔になった。見れば見るほど顔はコロコロ変わり、一つの顔に落ち着くことが無かった。
「一体誰がお前を殺したんだろう。罰を当てに来たその誰かの顔をお前は見たい、と思うはずだ。……お前は誰であってほしい、と思う?」
問いかける男。今の顔は母のものだった。
もしかしたら、と私は思った。この男は鏡なのかもしれない。ひょっとすると私を殺したのはその一人一人、みんななのかもしれなかった。
「けれどそんなことは考えても無駄だ。大体、人はやられたこと自体に騒いでも、やったヤツの『それから』には少しも興味が無いんだから。お前も忘れることが出来れば良かったのにな」
ご愁傷様でーす。そう付け加えると男は出口に向かって歩き出した。私は疲労感がよりひどくなっていくのを感じていた。もう足は地面に張り付いてしまったかのように、動かない。振り返ることすらもう出来ない。
バタン、と扉の閉まる音が聞こえた。私は辛うじて動く手の指を組んで誰かに祈った。神様に? まさか。
私を殺したみんな、せいぜい苦しんで死ね。いつかお前らの手を直接誰かの血で汚してやるからな。
私は今、車輪と線路の間で轢き潰されている自分の身体のことを想っている。