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惨めジメジメじめ太郎

作者: 村崎羯諦

人生は楽しい。苦しくとも楽しい。涙を流しつつも楽しい。

──────『人生論』岡本かの子

 惨めジメジメじめ太郎は一生懸命生きてますし、一生懸命生きてきました。


 じめ太郎の両親、惨めジメジメじめ五郎と惨めジメジメ花子は、じめ太郎が小学校に上がる前に離婚しました。じめ太郎はお母さんに引き取られ、お父さんとは離れ離れになりましたが、当時のじめ太郎はあまりお父さんには懐いていなかったので特に悲しいとか寂しいとかは思ったりしませんでした。小学校に上がって周りの子供達と遊んだりするうちに自分の家にお父さんがいないことをからかわれたりして、初めてそのことが嫌だなと思ったくらいです。


 小学校時代のじめ太郎は友達も人並みにいて、楽しい毎日を送っていました。周りの子供達からは鈍臭いところを笑われたりすることは多かったですが、それをじめ太郎が気に病んだり、周りの友達がそれを理由に仲間はずれにするということはありませんでした。放課後や休み時間になると、みんなで近所の公園へ行き、一緒に缶蹴りやケイドロをして遊んだりしてました。


 ですが、小学校時代、じめ太郎たち男の子の間で、ワルモノはかっこいいと思ってその真似っこばかりする時期がありました。最初は砂場の砂をほったり、下級生をこづいたりなど可愛らしいものでしたが、行動はどんどんエスカレートしていきました。そしてしまいには、万引きをやってみよう、なんて話が出てきてしまいました。


 じめ太郎は初め大丈夫かなと心配しましたが、自分だけ仲間外れにされるのも怖かったので結局反対はできませんでした。ターゲットは歳をとったお婆さんが一人でやっている小さな駄菓子屋でした。友達がおばあちゃんに話しかけて注意を逸らしているうちに、じめ太郎が商品をポケットの中に隠すという作戦でした。作戦は拍子抜けするほどに上手く行き、公園でじめ太郎がポケットから万引きしたお菓子を取り出すと、友達はみんな歓声をあげました。みんなは背徳感で興奮し、はしゃぎまわり、それからじめ太郎が一番ワルモノだと言ってくれました。もちろんここでいうワルモノというのはかっこいいという意味です。いつもからわれてばかりのじめ太郎はそんなふうにみんなから褒めてもらえて、とても幸せでした。


 その後も味を占めたじめ太郎たちは、もう一度、またもう一度と万引きを繰り返しました。その度にじめ太郎はみんなからすごいと言ってもらえました。でも、もちろんそんなことがずっと上手くいくわけもありません。ある日、いつものようにお菓子をポケットに入れたまま店を出ようとしたその時でした。偶然店の中に入ってきた大人とぶつかって、そのはずみでポケットに入れていたお菓子が地面に落ちてしまいました。


「これは何だ! 説明しなさい!!」


 じめ太郎は聞いたことないくらいに大きな声に怯え、何も話すことができませんでした。助けを求めるため、囮役だったじめ太郎の友達を探しました。だけど、すでに万引きがバレたことを察した友達たちはみんなじめ太郎を置いてお店からこっそり逃げ出してました。じめ太郎はたった一人で、連絡を受けたお母さんが来るまでお店に残らなくてはいけませんでした。


 ですが、お店の中でじめ太郎は何かを反省することはありませんでした。早くお母さんが迎えにこないかなと呑気に考えたり、捕まったワルモノとして、きっとみんなが自分のことをかっこいいと言ってくれると思ってました。実際、お店に迎えにきたお母さんはいつになく冷静で、ことの顛末をお店の人から聞いた後、二人で一緒に頭を下げるだけでじめ太郎は解放してもらえました。


 それから無言のままじめ太郎とじめ太郎のお母さんは家に帰りました。無言でしたが、お母さんはそこまで怒った表情をしていなかったので、そんなに怒ってないんだとじめ太郎は勘違いしました。だから、家に帰り、玄関に上がってリビングに入った瞬間、お母さんが聞いたことのないくらいに大声で訳のわからない言葉を叫び、じめ太郎に殴りかかってきた時も、じめ太郎は一体何が起きているのかよくわかりませんでした。


 お母さんは顔を真っ赤にして、じめ太郎を何度も何度も手で叩いて、手が腫れて痛くなると、物干し竿でじめ太郎の体をたたきました。ところで、その当時、じめ太郎はお母さんの実家で捕まえたクワガタを飼っていました。じめ太郎はそのクワガタにクワ太郎と名前をつけ、大事に大事にお世話をしていました。じめ太郎への怒りがおさまらなかったお母さんは、じめ太郎の部屋に行き、じめ太郎が大事に飼っていたクワガタを勢いよく手で掴んで取り出し、そのまま床に叩きつけました。そして、じめ太郎が見ている前で、お母さんはクワ太郎を思いっきり足で踏み潰してしまいました。


 じめ太郎はその後もお母さんから叩かれ続けたので、悲しみに浸っている余裕はありませんでしたが、床に模様のようにぺったんこになったクワ太郎の亡骸をみて、静かになみだを流しました。夜になってようやくお母さんから叩かれなくなった後、じめ太郎はこっそりと家を抜け出し、クワ太郎を近所の公園に埋めてあげました。公園の端っこ、立木の裏にあった小さなスペースに作ったお墓の前で、じめ太郎は手を合わせながらもう一度涙を流しました。


 じめ太郎が中学校に上がると、みんなからいじめられるようになりました。のろまとか間抜けとか言われたり、すれ違いざまに足を引っ掛けられたり、プロレスの練習だと言われて身体の大きな同級生から理由もなく関節技をかけられたりしました。いじめっ子の中には小学校の時に一緒に遊んでいた友達もいました。担任の先生も見て見ぬふりで助けてはくれませんでした。お母さんであればひょっとしたら助けてくれたかもしれませんが、じめ太郎はあの日のように怒られることが怖くて相談することができませんでした。


 ただ、それでもじめ太郎は頑張って中学校に通い続けました。というのも、じめ太郎はその時、クラスの一人の女の子に恋をしていたからです。みんなじめ太郎を馬鹿にしたり、嫌がらせをしますが、その子だけはそんなことをせずに、優しく接してくれたからです。もちろん自分がその子と付き合えるなんて思ってもいなかったですし、叶うはずのない片思いだってことも理解していました。それでも、その子に会うため、じめ太郎は頑張って中学校に通い続けたのです。


 ただ、ある日のことでした。放課後、みんながいなくなった時間。図書室で居残りで宿題をしていたじめ太郎は教室に忘れ物の体操着を取りに帰りました。そして、偶然、その子の机に目を向けると、そこには同じようにその子の体操着が忘れてありました。じめ太郎はじっとその子の体操着を見つめ、無意識のままそれを手に取りました。じめ太郎の頭に一瞬だけよくない考えが思いつきましたが、ブルブルと頭を横に振り、自分の頭に思い浮かんだ考えを強く否定しました。じめ太郎は体操着を元の場所に戻し、教室を出ようとしました。ですが、その時、偶然廊下から声が、それもあの子の声が聞こえてきたのです。


 じめ太郎は何もしていないにもかかわらず、まずいと反射的に思いました。慌てたじめ太郎は、教室の一番後ろにあった掃除用具入れに急いで身を隠しました。間一髪でその子が教室に入ってきたので、じめ太郎は息を殺し、ロッカーの隙間から教室の様子を観察しました。


 教室に入ってきたのはじめ太郎が好きだった女の子と、いつもじめ太郎にプロレス技をかけてくるいじめっ子でした。どうして、その女の子といじめっ子が一緒にいるのか、じめ太郎にはよくわかりませんでした。女の子は忘れ物だった自分の体操着を見つけ、帰ろうとそのいじめっ子に言いました。すると、いじめっ子がじめ太郎が置きっぱなしにして忘れていた鞄が机の上にあるのを見つけ、じめ太郎もまだ帰ってないんだなと、なぜか馬鹿にしたような口調で言いました。


「敦子さぁ、なんでじめ太郎みたいなキモいやつにも優しくする訳?」


 いじめっ子が女の子に呆れたように問いかけます。


「キモいとか言わない方がいいよ、かわいそうでしょ」

「キモいもんはキモいんだから仕方ないだろ。お前も優しいから言わないだけで、本当はあいつのことキモいって思ってるんだろ?」


 じめ太郎は教室にいる時よりもずっと距離が近い二人を見つめ続けました。それから、女の子は困ったような表情を浮かべ、そして苦笑いを浮かべながら答えました。


「うーん、まあ、正直気持ち悪いって思ってるよ。かわいそうだから言わないけど」


 いじめっ子が女の子をからかい、女の子がやめてよと言い返しました。それからいじめっ子は女の子にくっついて、女の子の体をいやらしく触りました。女の子はこんなところでやめてよと言いましたが、どこか満更でもない態度でした。いじめっ子はよりいやらしく女の子の体を触り続け、二人は誰もいない教室でお互いに戯れあい始めました。


 じめ太郎は掃除用具入れの中で息を殺しながら、じっと二人を見続けました。満足した二人が教室を出て行った後も、じめ太郎は掃除用具入れから出ていくことができませんでした。そしてその日を境に、じめ太郎は中学校に行くのをやめてしまいました。じめ太郎の初恋はこうして終わってしまったのです。


 それからしばらく不登校と引きこもりの期間が続きました。じめ太郎が引きこもりの間、じめ太郎のお母さんはあの手この手で学校に行かせようとしました。時には激しい罵倒や暴力を浴びせかけながら、それが上手くいかなければ一転して猫撫で声で学校に行くようにじめ太郎に言いました。ですが、どれもこれも効果がないとわかると、じめ太郎のお母さんは諦めてしまいました。それでもじめ太郎はこのままではよくないと心の中では思っていました。なので、じめ太郎のことを聞きつけた叔父がじめ太郎に働き先を紹介してくれた時、じめ太郎は少し悩んだ後で働き始めることを決めたのです。


「単純な作業ばかりだから、じめ太郎()()大丈夫だよ」


 じめ太郎の叔父は笑いながらそう言ってくれました。じめ太郎が就職したのは、叔父の知り合いが経営している小さな商社で、そこで簡単な事務作業をやることになりました。叔父に恥をかかせられない。じめ太郎はやる気に満ちていました。入社してから数日は先輩社員が付き添いで仕事の流れを教えてくれたのですが、その際もじめ太郎は仕事を覚えようと真剣に話を聞き、聞いたことを忘れないようにしっかりメモを取りました。


 ですが、じめ太郎はお世辞にも仕事ができるとは言えませんでした。初めは優しく何度も教えてくれた先輩社員も、何度教えても同じ失敗を繰り返すじめ太郎に少しずつ冷たくなっていき、次第にはじめ太郎が仕事のことを聞きにくるたびに大きなため息をつくようになりました。


「じめ太郎くんさあ、会社は学校じゃないんだよ。君がこうして私の時間を奪ったり、何もできてないせいでどれだけ周りに迷惑がかかってるか理解してる?」


 ため息を聞くたびにじめ太郎は胸がギューっと締め付けられました。次第にじめ太郎は先輩社員に話しかけるのが怖くなって、仕事のこともできるだけ聞かずに、自分で何とかしなくちゃと思うようになりました。だからこそ、仕事で何か失敗した時も、他の人に報告したり相談することをしなくなっていきました。


 ある日の金曜日。じめ太郎が不要な書類を業務用シュレッダーにかけるという仕事をしている時、もうすぐ終業だと思って慌てていたせいで、まだ捨てては行けないはずの大事な書類をシュレッダーにかけてしまいました。


 書類をシュレッダーにかけた直後に気がついたじめ太郎はパニックになって、シュレッダーに引き込まれていく書類をなんとかして取り戻そうとしました。ですが、思いっきり紙を引っ張ったり、シュレッダーを思いっきり叩いたりしているうちに、シュレッダーは今まで聞いたことにない音を出しながら左右に大きく揺れ、ぷすんと何か空気が抜ける音がして停止してしまいました。


 とりあえずシュレッダーは停止してくれたので、じめ太郎は書類を引っ張り出そうとしました。ですが、すでに書類は半分以上が裁断されてましたし、シュレッダーに挟まった状態では取り出すことができませんでした。じめ太郎は冷や汗をびっしょりかきながら、書類を抜き出すことを諦め、ゆっくりと外側にはみ出している部分を破くことで、一見するときちんと裁断されてるような見た目に戻しました。


 それからじめ太郎は祈りような気持ちでシュレッダーの電源をもう一度入れ直しましたが、シュレッダーは動いてくれません。じめ太郎の頭にはまた怒られてしまうという考えしかありませんでした。じめ太郎は時計を見て、そろそろ退勤の時間だということに気がつきます。じめ太郎はシュレッダーにかけるべき残りの書類を自分のバッグにこっそり隠し、大事な書類と壊れたシュレッダーをそのままに帰りの支度を始めました。


「変な音がしてた気がするけどなんかあった?」


 部屋に入ってきた別の社員がじめ太郎に聞いてきた時、じめ太郎はいつになく冷静に、そんな音してませんでしたよと答え、そのまま会社を出て行きました。


 家に帰ってからもじめ太郎は自分のミスが頭から離れず、とても生きた心地がしませんでした。あの後別の人が偶然シュレッダーを使って、その人が壊したことにならないかと考えてみたり、大事な書類も実はもう用済みで捨てても良かった書類だったんだと思うようにしてみましたが、心は一切休まりませんでした。金曜日の夜から日曜日の夜までじめ太郎はずっと仕事でしたミスのことを考え、自分を責め続けました。後悔と羞恥と申し訳なさが心をぐちゃぐちゃに掻き乱し、死んで詫びるしかないとさえ思いました。


 そして、人生で最も長い休日が過ぎ、月曜日の朝を迎えました。当日の朝、じめ太郎はストレスから体調を崩し、出社できませんでした。次の日には体調は回復したのですが、月曜日に休んだことがミスを隠すためのサボりだと思われるのではないかと思うと、じめ太郎は会社に行けませんでした。次の日も、その次の日もじめ太郎は会社に行くことができず、結局じめ太郎はそのまま会社を辞めてしまいました。


 もしそのまま会社に行けないままだったら、じめ太郎は罪悪感と自己嫌悪から引きこもりになってしまっていたかもしれません。ですが、じめ太郎が会社を辞めたちょうどそのタイミングで、じめ太郎のお母さんが脳梗塞で倒れてしまったのです。


 じめ太郎のお母さんは命は取り留めましたが、それと引き換えに下半身付随となってしまいました。そのため、唯一の家族であるじめ太郎がお母さんの介護をしなくてはいけませんでした。


 じめ太郎のお母さんは自分にも他人にも厳しい人で、自立というものを一番重んじる人でした。だからこそ、下半身付随という他人のサポートなしでは生活できなくなってしまったことが、お母さんにとってはこの上ないほどに屈辱的なことでした。お母さんははじめ現実を受け入れられず夜に泣き出したかと思うと、突然自分がこうなったのはお前のせいだとじめ太郎をベッドに横たわりながら金切り声で非難したりしました。


 それでも、じめ太郎は必死にお母さんを介護しようとしました。ですが、今まで身の回りのことをすべてお母さんにやってもらっていたじめ太郎が、家事と介護をはじめから上手にできるはずもありません。料理は自分とお母さんの分を作らなければいけないのですが、料理を作ったこともないじめ太郎には、スーパーで割引になった弁当を買ってきたり、パンとソーセージを焼いたものを出したりすることが精一杯でした。洗濯も頻度が少ないせいで、家の中は常に汗臭くなり、掃除も滅多にしないせいで家の中はどんどん汚くなりました。生ゴミが混じったゴミ袋が開けっぱなしの状態で放置され、その上を小蠅がブンブンと飛び回るありさまでした。


 介護だって、じめ太郎はヘルパーさんに教えてもらいながら、なんとか頑張ろうとしました。ですが、不器用で気を使うことが苦手なじめ太郎にとって介護は、会社の仕事以上に難しいことでした。初めはオムツは嫌だと言っていたお母さんのためにトイレの介助をしてあげていましたが、うまく支えることができずに廊下の真ん中でお母さんごと転倒してしまったり、ベッドから起き上げるのにまごついて結局ベッドの上で排泄物を漏らしてしまうということが何度もありました。ヘルパーさんの説得で、オムツを履くことになった後も、じめ太郎はオムツが汚れたまま放置してしまい、数日交換されていないオムツを見たヘルパーさんが、じめ太郎を本気で怒ったことさえありました。


 加えて、最初は下半身が動かなくなっただけのじめ太郎のお母さんは、寝たきりになったことで認知症になってしまいました。じめ太郎のことを見て、お前は誰だと怒鳴ったかと思えば、突然赤ちゃん返りしてママの元に帰りたいと泣き叫んだりしました。じめ太郎はいつも気丈で、凛としていたお母さんの姿にただ狼狽えることしかできませんでした。じめ太郎は毎日が地獄だと思っていました。そして、早くお母さんが死んで欲しいと無意識に考えている自分に気が付いては、自分で自分の考えにぞっとするのでした。


 じめ太郎はクワ太郎の一件もあり、お母さんのことが好きではなく、むしろ恐怖の対象でしかありませんでした。それでも、じめ太郎はどんどん弱っていくお母さんの姿を見て初めて、今まで自分がお母さんにどれだけ苦労をかけてきたのかを実感し、何とか恩返しをしたいと思うようになりました。じめ太郎は歯を食いしばり、孤独の中、懸命にお母さんの介護を続けました。それでも、お母さんは階段から転げ落ちるようにいろんな病気を発症していき、どんどんどんどん痩せ細っていきました。


 そして、とうとうある日の深夜、お母さんは自宅で呼吸困難になってしまい、そのまま病院へと運ばれました。そして、医者から今夜が山でしょうと告げられた時、じめ太郎はただただ呆然としました。こんなにあっけなく人は死ぬんだということが、彼にとってはイマイチ理解できなかったのです。


 じめ太郎は最期を看取るため、一晩中、お母さんの部屋でお母さんの手を握り続けました。目を醒ますことは期待しないでくださいと医者に言われていましたが、希望を胸に、必死にお母さんに語り続けました。もうすぐ夜が明けようとしていたその時、じめ太郎の祈りが届いたのか、お母さんはゆっくりと目をあけました。そして、じめ太郎の方を見て、じめ太郎の名前を呼びました。お母さんはそれから口を動かしていましたが、声が小さく、聞き取ることはできません。じめ太郎は体を近づけ、お母さんの言葉に耳を傾けました。


「死にたくない」


 それがじめ太郎のお母さんの最期の言葉でした。じめ太郎のお母さんは再び意識を失い、そのまま目覚めることはありませんでした。じめ太郎は放心状態のまま何も考えることができませんでした。その後も、事務的な作業は全て連絡を受け取った叔父さんがやってくれ、じめ太郎は必要な作業を叔父さんから言われるがままするだけでした。


「じめ太郎のお父さんの連絡先が見つかったぞ」


 遺品整理をじめ太郎の代わりにやってくれていた叔父さんから、そんな連絡がありました。じめ太郎はその時まで、自分にお父さんがいるということをすっかり忘れていました。おじさんが言うには、離婚後も度々二人は連絡をとっており、その連絡先がお母さんの携帯に残されていたようでした。


 じめ太郎は叔父さんから電話番号を知らされても、一体何をすればいいのかよくわかりませんでした。とにかくお母さんが死んだことは伝えないといけないと言われましたが、電話をかける勇気が出ません。結局じめ太郎が電話をかけたのは、じめ太郎のお母さんが死んでから二ヶ月後のことでした。


「一度会わないか?」


 じめ太郎のお母さんが死んだことを聞いたじめ太郎のお父さんは一言そうかと言った後、長い長い沈黙を挟んでそう言いました。じめ太郎は別に会いたいという気持ちはありませんでしたが、断ると何だか申し訳ない気もしたので仕方なく会うことにしました。


 指定されたのは、じめ太郎のお父さんが住んでいる町の最寄駅でした。じめ太郎は三十分ほど遅れて駅に到着し、じめ太郎のお父さんはその二十分後にやってきました。


 じめ太郎のお父さんは小柄で背が曲がっていて、遠い昔の記憶とはあまりにも違っていました。でも、しゃがれた声だけは昔のままで、じめ太郎には目の前に人物が確かに自分のお父さんだということがすぐにわかりました。


 二人は簡単な挨拶を交わしたあと、近くの喫茶店に入りました。何十年という空白の時間を埋めるため、二人は色んなことを話しました。両親が離婚してからのじめ太郎のことや、お母さんの最後、そしてお父さんの今の状況など、色んなことです。時間はあっという間に流れていき、気がつけば二人は喫茶店で二時間も話し込んでいました。


「そろそろ行こうか」


 じめ太郎にお父さんがそう言って、じめ太郎も立ち上がり、二人は喫茶店を出ました。そのまま解散だとじめ太郎は思って駅へ行こうとしましたが、じめ太郎のお父さんはどこに行くんだと呼び止めました。


「お前に会わせたい人がいる」


 じめ太郎のお父さんがそう言ったので、何だろうと思いながらじめ太郎はついていきました。そして駅から十分ほど歩き、真っ白で背の高い、教会のような建物に入っていきました。じめ太郎は少しだけ不安でしたが、とりあえずそのまま着いていくと、一番奥に部屋へと案内されました。


 一番奥の部屋にいたのは、足首まで覆った白いローブを身に纏った、初老のモヒカン男でした。一体この人は誰だろうとじめ太郎が思っていると、モヒカン男は自分から手を差し伸ばし、じめ太郎に自己紹介をしてきました。


「初めまして。私、ここの『世界鶏平和信教』の教祖である、五鶏といいます」


 はあ、とじめ太郎は理解できないまま相槌を打ちましたが、教祖は嫌な顔ひとつしませんでした。代わりに教祖は、こんな宗教聞いたことありませんよね、と気さくに笑いかけてきました。それからじめ太郎が聞いていないにもかかわらず、教祖は『世界鶏平和信教』の説明を始めます。


「『世界鶏平和信教』では、この世界、宇宙はすべて鶏様によって産み落とされたものだと考えています。鶏様は世界の始祖であると同時に、鶏肉となり、その命を我々人類のために差し出してくださっています。私たちは人類が軽んじている鶏様を崇拝し、その尊さを人類に広める活動を行なっているのです」


 教祖はゆっくりと、心地よい口調で話を続けます。じめ太郎は説明を聞きながら、鶏が世界を産んだと言っているが、そもそも世界が存在しないと鶏だって存在できないのではないかと思いました。鶏と卵の話ではありませんが、鶏と世界ではどっちが先に存在していたのか。じめ太郎が思いついた疑問を教祖にぶつけると、教祖は真剣な表情で答えてくれました。


「鶏が先です」


 教祖はじっとじめ太郎を見つめ、もう一度口を開きます。


「鶏が先なのです」


 じめ太郎はその教祖の圧に何も言い返すことができませんでした。教祖は再びにこりと微笑み、じめ太郎とそれからじめ太郎のお父さんに対して、椅子に腰掛けるように促しました。じめ太郎はなんだろうと訝りました。ですが、じめ太郎のお父さんは興奮した口調でありがとうございますと頭を下げ、椅子に座ったので、じめ太郎も渋々同じように椅子に腰掛けました。


「鶏様はこの世界、そして人間を産み落としました。つまり、私たちは人という生き物の姿形をしていますが、我々は鶏様の化身でもあり、本質的な部分では鶏様と同じ性質を持っているのです。今から私があなたたちのうちなる鶏様を呼び起こして差し上げましょう」


 教祖は二人に対して目を閉じるようにいいました。そして、教祖は二人の頭に手をおきながらぶつぶつと何かを呟き始めます。一体、何をしているんだろう。そうじめ太郎が思っていたその時、隣に座っていたじめ太郎のお父さんがいきなり大声で「こけこっこー」と叫びました。驚いたじめ太郎が目を開け、隣を見ると、じめ太郎のお父さんは椅子から立ち上がり、頭を前後に動かしながら、鶏のように部屋を歩いていました。


 じめ太郎はお父さんを見て、それから教祖を見ました。教祖はお父さんを優しい目で見つめながら、満足げに微笑んでいました。


「すでにお聞きになっているかもしれませんが、あなたのお父様は離婚で家族と離れ離れになった後、自暴自棄になってお酒に走り、仕事も失ってしまいました。私が彼を救ったなんておこがましいことは言いません。それでも『世界鶏平和信教』が彼にとって、生き続ける理由になれたのであれば、それでいいのです」


 教祖の横顔は穏やかで、じめ太郎には彼が本心でそう言っているように思えました。それから教祖はじめ太郎の方を見ました。じめ太郎はその表情にぐっと引き込まれるような感覚がして、思わず唾を飲み込んでしまいます。


「あなたはどうして『世界鶏平和信教』という宗教を作ろうと思ったんですか?」


 じめ太郎は取り込まれそうになる感覚を紛らわすかのようにそう尋ねます。


「あなたのためです。この宗教はあなたのために作られたのです」

「私のような人のためですか?」

「違います。あなたの()()()人ではなく、あなたのために作られたんです。ただ、これはこの宗教に限った話ではありません。キリスト教や仏教や新興宗教全て、あなたを救うために作られ、存在しているのです。そのことをどうか忘れずにいてください」


 じめ太郎はその言葉の意味がイマイチわかりませんでした。それにじめ太郎は宗教というものに対して、どこか怖かったり、うさんくさいというイメージを持っていました。目の前の穏やかな教祖を前にして、そのイメージが少し和らいだとはいえ、じめ太郎は宗教を信じる気持ちにはあまりなりませんでした。


 それでも、目の前の人物に対して、どこか救いを求めるような気持ちになっていたのは事実でした。じめ太郎は教祖をじっと見つめながら。心の中にずっと抱えていた苦しみを吐き出します。自分のお母さんについて、そして死の間際、お母さんが言った最期の言葉について。教祖は頷きながら、じっとじめ太郎の言葉に耳を傾けました。そして、じめ太郎の説明を全て聞き終えると、胸の前で十字架を切り、じめ太郎に優しく語りかけます。


「鶏様は人間を産み落とした時、同時に我々のためにあらゆる試練も産み落としました。私たちを苦しめるためではなく、私たちが苦難を受け入れ、立ち上がり、強くなるために。鶏様が与える試練は一人一人に固有で、特別なものです。あなたにはあなたの試練があるように、お母様にはお母様の試練があります。ただ、その試練を受け入れ、克服するのはお母様自身であり、あなたがあなたのお母様に与えられた試練の責任を負う必要はありません」


 ただ、それでもあなたが心を痛める気持ちはわかります。教祖はじめ太郎の気持ちを決して否定することなく言葉を続けます。


「『世界鶏平和信教』では、苦しい試練に耐え抜いた人間は来世で高貴な鶏に生まれ変わると信じています。鶏に生まれ変わり、そして我々の食卓へ鶏肉としてやってきて、私たちの血肉となってくれるのです。私の直感では、あなたのお母様も同じように鶏に生まれ変わっているはずです。もしあなたがお母様を弔いたいと思うのであれば、近所のスーパーに行って、鶏肉を買い、それを丁寧に埋葬すればいいでしょう」


 それからじめ太郎と教祖は無言のまま見つめ合います。そして、その二人の横で、じめ太郎のお父さんが大きな鳴き声をあげるのでした。


「こけこっこー!」


 じめ太郎とじめ太郎のお父さんは教会を出て、二人が待ち合わせをした駅まで歩きました。駅まで着くと、二人は改札の前で立ち止まり、じめ太郎のお父さんは「元気でな」と別れの挨拶を投げかけました。


 じめ太郎も別れを言い、改札に入って行きました。ちょうど平日のラッシュ帯で、じめ太郎は人混みに紛れながら駅の構内を進み、途中で後ろを振り返りました。改札の前にはまだじめ太郎のお父さんが立っていて、じめ太郎を見送っていました。そして、じめ太郎のお父さんはじめ太郎がこちらを振り向いたことに気がつくと、両手に口を当てて、大きな声で叫びました。


「元気でな!」


 じめ太郎はぺこりと頭を下げ、そのままホームへあがり、電車に乗って自分の街へと帰って行きました。じめ太郎は電車に揺られながら、色んなことを考え、そして考えたことは左から右へと過ぎ去り、忘れて行きました。


 最寄駅に着いた時、じめ太郎は教祖のことを考えていました。じめ太郎はまだ教祖のことを信じてはいませんでしたし、別に彼の言っていることに納得しているわけではありませんでした。ですが、じめ太郎は気がつくと駅前のスーパーへとふらっと入って行き、精肉売り場へと向かっていました。そして、棚に陳列された安い鶏胸肉を眺め、直感のままそのうちの一つを手に取りました。そしてスーパーを出たじめ太郎は自分の家ではなく、小学生の時にいつも遊んでいた公園へと向かいました。


 ずっと近所に住み続けていましたが、公園に行くのは十何年ぶりでした。昔はいつも子供でいっぱいだった賑わっていた公園は、夕暮れ時であるにもかかわらず誰もいませんでした。誰にも乗ってもらえない遊具や錆だらけのベンチは夕日を浴びて、オレンジ色に照っています。子供時代はとても広く、どんな遊びだってできた公園は、大人になってみるとどこにでもある小さな公園でしかありませんでした。じめ太郎は公園をざっと見渡し、かつて自分がお母さんに踏み潰されたクワ太郎を埋葬した場所へと向かいました。


 クワ太郎のお墓の目印となっていた立木は今も残っていました。じめ太郎はしゃがみ込み、クワ太郎のお墓だった場所の横に両手で大きな穴を掘り始めました。そして、穴を掘り終えると、そこにスーパーで買ってきた鶏胸肉を放り込み、上から土を被せて行きました。


 そして、じめ太郎はクワ太郎と鶏胸肉を埋葬した場所の前で、手を合わせました。じめ太郎が目を閉じていたのは1分にも満たない時間でしたが、その間、じめ太郎の頭にはこの公園で遊んでいた子供時代から今までの人生の記憶が走馬灯のように駆け巡っていました。そして自分の人生を一通り思い起こした後、じめ太郎は、安らかにお眠りくださいと呟き、じめ太郎は汚れた手と膝をパンパンと叩きながら立ち上がります。


 最後にもう一度並んだ二つのお墓を見下ろしながら、じめ太郎は喫茶店でじめ太郎のお父さんが言っていた言葉を思い出しました。じめ太郎のお母さんと離婚してからどういう生活を送ってきたかを話し終えた後で、じめ太郎のお父さんはコーヒーに口をつけながら、こんなことを言っていました。


「失敗ばかりの人生だったし、今振り返ったら、あの時ああしていればよかったと思うこともある。でも、その時その時は必死に考えて、そうしていたんだから今更後悔しても仕方ない」


 そしてじめ太郎のお父さんはコーヒーをおき、言葉を続けました。


「一生懸命生きてきた。結果がどうであれ、それだけで十分。十分だと思う」


 じめ太郎はお墓に背を向け、自分の家へと歩き出します。じめ太郎は歩きながら、そろそろ働かないとなと思いました。きっとまた仕事ができずに怒られるかもしれません。それでも生きていくためには歩き続けないといけないということを、じめ太郎はちゃんと理解していました。


 そうです。惨めジメジメじめ太郎は一生懸命生きてますし、一生懸命生きてきました。そして、多分これからも、一生懸命生きていくと思います。

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