金木犀の庭で
彼は庭の手入れを一通り終わってリビングに戻った。
テーブルの上には4枚の写真と一通の招待状が置いてある。
「今日の仕事はおしまいなの?」
私は彼に声をかけた。夫のタロさんに。
「庭はね。これから木を彫る」
タロさんが庭に面した縁側で木彫りの道具を取り出して、作業を始める。
「式に間に合うようにしたいから」
「喜ぶわよ、きっと」
私が微笑むと、タロさんは遠い目をする。
「彫刻家にならなくても、木を掘り続けることは出来たんだよな、その気さえあれば」
私たちの家は地方都市の郊外、その庭付きの一軒家に今日も穏やかな時間が過ぎていく。
私は麦茶を出しながら、庭の金木犀を見た。
「大きくなったわね」
「もう28だったか」
タロさんは私の入れた麦茶を一口飲んで、ハアと息を吐いた。
私は吹き出す。
「栞のことじゃないわよ。庭の金木犀のことよ」
「…そうか。まあ、どっちも大きくなったな」
しばらく黙って、それからボソリと言う。
「こまめに剪定しているから解りにくいが」
庭の金木犀は娘が誕生した年にタロさんが挿し木で植えた。あれから28年、その木はすでに3メートルを超える高木となって庭にいい日陰を作ってくれている。
「去年の同じ頃は3メートルに数センチ及ばなかったけど、今は3メートル7センチというところだ」
タロさんが真面目な顔で言うので笑ってしまった。
「ハハハ、大きくなったわね。金木犀も確かにあの娘も。…あなたからも連絡してね、今夜にでも」
私の念押しに彼は少しだけ面倒くさそうな顔をした。
「出席することはわかってるんだから、いいじゃないか。衣装のこととか駐車場のこととかは久実ちゃんに任せるさ」
「栞は待ってると思うわよ」
私の言葉に返事はなかった。
夜更けにタロさんがベッドに行ってから私はテーブルの上を片付ける。
招待状は娘の栞からのもの。栞は9月に結婚を控えている。
娘から「会わせたい人がいる」と私のスマホに連絡が入ったのは去年の冬のことだった。
「母さん、父さんに何となく匂わせてくれない?」
娘の唐突な注文に私は目を瞬く。
「父さんさ。うーん、何ていうか…私のこと大好きじゃん。怒ったりしないかな?」
「お父さんは反対はしないと思うわよ」
娘の心配事はタロさんの親バカぶりと紹介したい人の身の上だった。
「彼は私より13歳上、再婚で4歳の娘がいるわ」
あらあら、私にだって多少抵抗のある内容の話だわ。頷きながら聞いて、私は苦笑いする。タロさんが聞いたら反対しないまでも、やり方次第ではヘソを曲げる可能性がある。
「さてさて…ちょっと時間をくださいな」
それが半年前のことだ。
タロさんはホントは芸術家になりたかったヒトだ。
美大を卒業はしたけれど、彫刻家になる夢には挫折した。帰郷後、地元の市役所に勤めて土木課で37年働き、昨年退職した。
「私に出会えたんだから、市役所勤めは間違いではなかったでしょう」
私が定年の日の夕方、彼を後ろから抱きしめて「お疲れ様」のことばと一緒に言ってみたら、タロさんは真面目な顔で考え始めた。私が怒ってしばらく口を利かなかったので、定年退職祝いは台無しになった。
タロさんの実家は田舎の宮大工さんの家系だ。三男坊のタロさんは自分をお金のかかる美大に送り出してくれた両親と二人のお兄ちゃんに今でも頭が上がらない。お義父さんは一昨年亡くなったけど。
だから娘が美大を志望したとき、もちろん反対できなかったし、ちょっと嬉しくも感じたようだ。
テーブルの上の写真はその娘の大学時代の写真だ。
タロさんが大学での制作中の写真を送るよう言い、ほどなく栞からメールで『作業中なう』と送られてきた。
それを見たタロさんの笑顔は急に複雑なものとなった。
娘はいつのまにか『彫刻科』に転科していたのだった。
写真には脚立に乗って大きな木彫を制作中の娘の笑顔が写っていた。
タロさんがその転科自体を咎めることはなかったけれど、気持ちは不安と困惑が混じったものとなったはずだ。彫刻で食べていくことは限りなく難しい。転科前のデザイン科とは『つぶしの効き方が違う』のだそうだ。『プロの彫刻家』はタロさん本人が大学時代に目指し、諦めた夢だったから。
テーブルの上、残りの3枚の写真は昨晩彼が見せてくれたものだ。
一枚目の白黒写真は梯子にのった大工さんがお祭りで引き回す山車の欄干に彫刻を彫っているところ、これがタロさんのお祖父ちゃんだ。仕事の手を止めて誇らしい顔でカメラの方を見下ろしている。
二枚目はやっぱり宮大工のタロさんのお父さん。こちらも梯子に乗った大工さんがどこかのお寺の山門修理作業中に下を見て笑っている。
何ともよく似た写真だが、タロさん曰く「まったく両者とも意識せず撮った写真らしい」とのこと。
三枚目、これはタロさん自身だ。大学時代の彫刻制作中だろうか。脚立にのったタロさんがノミとトンカチを両手に笑顔でこちらを見ている。
私は吹きだした。娘の写真を含めて4枚の写真がそっくりだ。構図も同じなら顔もよく似ている。何より木を彫りながらみんな満面の笑みだ。50年間に渡る打ち合わせがあったとしか思えない。
「何というか…面白すぎるわ。DNAというものの存在をこんなに感じたことはないわ」
私の正直な感想に彼は真面目な顔で呟いた。
「呪われた血みたいだ。木彫りに魅入られた一族が何かにとりつかれているかのようだ」
そしてもう一言。
「しかもみんな高いところが好きみたいだし」
とうとう私は爆笑してしまった。タロさんは冗談のつもりではなかったらしいけれど。
私が娘の結婚についてタロさんに話したのは、電話を受けてから3日後のことだった。
「あのね、栞から連絡があったの」
私は寝床で並んで灯りを消してから、隣のタロさんに話しかけた。
「何かあったのか」
タロさんが不安げに訊く。私を仲介して連絡、というのは逆に不安なのかもしれない。まあ、タロさんは栞のことだと何でもすぐに大事にしてしまうのだけれど。
「私たちに会わせたい人がいるらしいの」
闇の中で彼のハアアというため息が聞こえる。
「それはつまり、アレかな」
「そう、それです」
「そうかあ。それかあ」
栞ももう20代の後半だ。タロさんだって覚悟はしていただろう。
「でもさ」
「はい、何でしょうか」
「何で栞は俺には直接連絡してこないんだ」
でも娘は大概のことは私を通して連絡してくる。今回に限ってタロさんは因縁をつけた。娘の予想通りではある。
「お相手はバツイチで子連れで10歳以上歳上よ」
私はわざと平坦なトーンで一気に全部言ってみた。
「え」
冷淡な私の口調にタロさんが戸惑う。
「私が反対すると思って、先に伝えてきたみたい。お父さんならきっと判ってくれるから、後回しなんだって」
私は不満そうなトーンを崩さない。
「条件が悪すぎるでしょ、そんな相手」
そしてとどめの一言。
「『タロさんは私の一番の理解者』とかあの娘は言うのよ。こんなお相手、私は気が乗らないんだけど、タロさん、どう思う?」
しばらく黙った後、タロさんがボソボソと言葉を絞り出した。
「なあ。生き方は本人達が決めることだろう。栞を信じてやったらどうだ」
私は闇の中でほくそ笑む。何でこんなに扱いやすい人と結婚できたのだろうか。自分の目を信じてよかった。
春になって、栞が彼を連れて我が家にやって来た。
真面目そうで優しそうな男性だったが、タロさんの顔はちょっと複雑だった。
娘がちょっと困った顔で父親に言った。
「お父さん、そんな顔しないで」
タロさんは例によって真面目な顔で私を振り返る。
「なあ、母さん。俺は今どんな顔をしているんだ」
タロさんは娘の前では私を『母さん』と呼ぶ。私も『お父さん』呼びだ。娘や他人の前ではさすがに『タロさん』『久実ちゃん』呼びはできないね。
そう言えば娘も幼い頃は私を真似して『タロちゃん、タロちゃん』と呼んで追いかけていた。娘もタロさんが大好きだったのだ。
「初めまして。柳井正樹といいます」
東京でシステムエンジニアをやっているという。娘とは仕事の関係で会ったとのこと。
栞は彫刻科を卒業した後、やはり彫刻の仕事はなくウェブのデザインを専門に行うデザイン会社で不定期に働いていた。下請けの下請けということだ。正樹さんはそんな娘のデザインが気に入ってくれて、何回か発注をした後、交際が始まったと…二人が交替で馴れ初めを話す。
私は娘のこととはいえ、そんな一種の恋バナが楽しくて笑顔で聞いていたが、タロさんをチラリと見るとやっぱり作り笑いだとわかる固い固い笑顔だった。
「今日はチビちゃんは?」
私が訊くと、正樹さんは柔和な笑顔を浮かべた。
「実家に預かって貰っています。両親とも健在ですので」
「まあ、そうでしたか。次は会ってみたいわ。息子と一緒に孫まで出来るなんて素敵ね」
私が言うと、タロさんはビクッと身体を動かした。
「ま、孫?」
「そうでしょう?次は私たちが上京して、先方にも孫にもあいさつしましょうね。じいじ」
「うー、うー」
タロさんが唸るばかりで何も言わないので、その話はそれでおしまい。栞は笑い転げ、正樹さんはどういう顔をしていいのかわからないという、まあそういう顔だった。
タロさんはまだ現実に対応できていないわけだ。こういう人なんだな。
あいさつも無事に終わって二人が正樹さんの車で帰るちょっと前、タロさんと栞は庭でしばらく金木犀を見ていた。二人とも黙って並んで見ていた。
金木犀が1メートル位の高さになった時、娘は保育園で鼓笛隊の隊長になった。マーチングが終わった後、タロさんは赤い隊長服と隊長帽子で扮装した栞を金木犀の前に立たせて、何枚も写真を撮った。
あの時は見ているこちらが恥ずかしくなるくらい、とろけそうな顔をしていた。
そういえば、あの娘が『タロちゃんとはもう一緒にお風呂に入らない』と宣言したのはあの木が1メートル40センチを越えた頃、確か小学校4年生だった。
タロさんは「そういうのは徐々にそうなっていくものじゃないのか。まさか『ある日、急に』ってことあるのか」と嘆いた。
後で娘に話を聞いたら『金木犀の高さが自分の身長を越える頃』って決めてたらしい。不思議なこと言う子だとは思っていたけれど。
それを聞いたタロさんは『1メートル42センチを越えたということか』…と何だか細かいサイズを出しながら、なおも嘆き続けた。
娘が高校を卒業して上京する日の朝、タロさんは栞を駅まで送る役を仰せつかった。
車に手荷物を積むと、庭先に見送りに来た私も含めて三人で写真を撮った。バックはやっぱり金木犀だった。2メートルと3メートルの間くらいだっただろうか。タロさんに訊くと2メートル58センチだと教えてくれた。どうでも良かったんだけれど。
車に乗る前に栞が私たちの前に立つ。
「お父さん、そんな顔しないで」
タロさんは例によって怒っているのか寂しいのか、よくわからない表情で口を結んでいた。
「美術大学に行かせてくれてありがとう。また連休には帰ってくるね」
私は喋ると涙が出そうだったので、微笑んで頷くだけだったが、固い表情のタロさんが口を開く。
「いつでも会える。改まってあいさつとかしなくていい。行くぞ」
照れ隠しだということは解っていても、このデリカシーのないセリフに私はガッカリだった。
タロさんは市役所の土木課で働いていたが、妙な特殊技能があった。もののサイズが見ただけでわかるのだ。それも相当の精度で。
私は結婚した当時、冗談だとばかり思っていた。だって新居に入れる家具や電化製品、一目で『この食器棚は幅が2センチ入らない』『こっちの冷蔵庫は高さがピッタリだ。5センチくらいゆとりがあるから搬入しやすい』…などと言うのだもの。メジャーも何も使ってないのに。
タロさんに言わせると、彫刻科の授業で素材を選定するとき、この技能が育ったらしい。
木材を見て、『ここからここまでで1メートル25センチくらい?』などと想定し、実際に測ってみると3センチの誤差がある。次はその経験を元に別の木材を…とやっているうちに磨かれたという。
「背の高いもの、例えばビルの高さなんかはどうなの?」
私が訊くとタロさんは考え込んだ。
「やはり難しい。あのビルの2階の手すりまで、とかは判る。でも高層ビルの真下に来てこのビルの高さは?って言われても厳しい」
「ねえ、それは例えばあの木の周囲とか」
「それは簡単、丸太の周囲なんかを散々見極めてきたから、よっぽど変形のものでなければ、一目でわかる」
タロさんが初めて自慢げに言う。私が殊更に尊敬の眼差しで見てあげたら、こんなことを付け足す。
「久実ちゃんのスリーサイズだって初対面ですぐに判った。あ、でも女の子は秘密が多いって言うから、正確かは」
話が終わる前に私がタロさんのお腹にパンチを入れたので、その後はただ身体を丸めて呻くだけだったけど。このデリカシーの無さが30年も続くとはねえ。
夏になって私たち夫婦は先方へのあいさつも兼ねて、横浜にあるホテルへ打ち合わせに行くことになった。
正樹さんのご両親は茨城在住、当然だが私たちよりだいぶ歳上だった。
お二人とも温和な物腰で、息子さんがバツイチ子連れということに随分恐縮していた。
だが驚くべきは正樹さんの娘、華ちゃん3歳が恐るべきスピードでタロさんと仲良しになってしまったことだ。タロさんは決して子供受けするような人ではない。むしろムッツリとした表情と私以外への口数の少なさで、今まで親戚の子供達からは「おっかない叔父ちゃん」枠に入っている筈だ。
いつの間にかキャッキャッとタロさんの膝の上で笑う華ちゃんを見て、私も栞も柳井さん一家の3人も唖然とする。
「あんまり大人の人に懐いたのを見たことないんだけど」
正樹さんの言葉に、ご両親が頷く。自分たちにさえもこんな笑顔を見せないという。
「ふむ。やはり曇りのない眼にはホントの人格者がわかるのだな」
タロさんは私の方を向いてドヤ顔で先方のご両親に失礼なことを言うが、もちろん本人に自覚はない。
私は申し訳ないという顔をして軽く頭を下げたが、柳井さん夫妻は眼で気にするな、と言ってくれた…ような気がする。
「やはり栞ちゃんのお父さんだから」
肉親以外で大人の膝に乗ったのは栞についで二番目だそうだ。
このチビちゃんもちょっと変なのかも。
それからみんなで結婚式場のある横浜まで正樹さんと私たちの車で移動だ。横浜は正樹さんの会社があって、知人も多いことからそちらを式場にするという。
なかなか歴史のありそうな古いホテルの式場に案内された。
「タロさん、見て。豪華な待合室、歴史物っていう感じのカーペットよ」
私がそのフカフカぶりに足下を何度か踏みしめると、彼は廊下の向こうを見ながら無表情に言った。
「防火扉の大きさの割にはくぐり戸がない。ギリギリの大きさだが、3平方メートルを超えるサイズだ」
私は呆れる。
「タロさん、他の人に言わないでよ。気を悪くする人もいるだろうし」
「わかってるけれど。だが」
彼は言葉を飲み込んだ。
中庭にプールがあるというので、忙しそうな新郎や新婦をおいて、両家の親と華ちゃんはブラブラと散歩に行った。柳井さん夫妻と華ちゃんが芝生の広場に手をつないで歩いて行った。
私たちは小さなブランコがあったので並んで座った。
「ねえ、優しそうで頼りがいがあって、いい人を選んだわね、うちの娘は」
彼はブランコをゆっくりと揺する。
「むしろ先方にお礼を言いたいよ。もれなく待望の孫が付いてくるとは」
私はプッと吹き出す。
「華ちゃんを雑誌の付録みたいに」
すっかり華ちゃんが可愛くなってしまったタロさんは上機嫌だ。
その時、中庭の向こう側で柳井さん夫妻の声が聞こえる。
「華、華?」
「華ちゃん、どこ?」
口調がただ事で無くて、私はブランコから立ち上がる。
「タロさん、何かあったのかしら」
「華ちゃんの姿が見えないらしい…ん?」
タロさんは上着を脱ぎ捨て、プールの方向に駆け出す。私もそれを追いかけた。
「タロさん?」
プールには誰もいないのに、水面がさざめいている。
タロさんはキョロキョロと見回し、何かを見つける。
「華ちゃん!」
彼が叫ぶのと飛び込むのは同時だった。プールの真ん中に女の子の影が見える。
プールサイドに引き上げられた華ちゃんはグッタリしていた。呼吸はしているが、どこか打ったのか気を失っている。
柳井さんのお母さんがオロオロして華ちゃんにとりつく。
「華!華ちゃん!」
タロさんが柳井さんのご両親と私に指示を出す。
「落ち着いて。息はあります。大丈夫です。ホテルから毛布を貰ってきてくれますか」
柳井さんのお父さんがサッと動いた。
「わかりました」
「久実ちゃん、一応救急車を」
「はい」
私が救急車のコールをすると同時に、正樹さんと栞が駆けつけた。
「華!」
「華ちゃん!」
二人とも真っ青になっている。
「はい。意識はあります。場所は市内の○○ホテル、そうです。プールに落ちて…。えーと、式場の中庭ですね」
私は電話をしながら、漸くやって来たホテルマンに確認する。
「あの中庭のゲートは救急車が通れるサイズですか?」
ホテルマンは戸惑う。
「えっ?ええと。結構狭いですが…普通の車は通れるんですけど」
後ろからマネージャーのような人が来て、眉にしわを寄せる。
「すみません。芝が痛むのでゲートの外までお子さんを運んでもらっていいですか」
タロさんの顔に明らかにイラッという記号が浮かぶ。
「頭を打っていたりしたら動かすと危ないので、救急車を入れさせてください」
マネージャーはもう一度やんわり拒んだ。
「呼吸はしているようですし、大丈夫でしょう?芝は植え替えたばかりなんです」
「ふざけんな!」
タロさんがキレたのかと思ったら、そう言ってマネージャーの胸ぐらを掴んだのは栞の方だった。
思わぬところから思わぬ強烈なクレームを受けて、マネージャーの顔色が青くなった。
「ヒイッ」
「し、栞さん、落ち着いて」
正樹さんが栞の腕を後ろから抱えて止めにかかった。
「大丈夫です。ゲートから入ってください。こちらで誘導します」
私は構わず電話口で言った。
「ゲートの幅は…ええと」
マネージャーの胸ぐらを掴み、正樹さんがそれを後ろから抱えるという姿勢のまま、栞は数十メートル先のゲートを見つめた。
「…ええと、あのゲートは1メートル92か3。タロさん、救急車の車幅ってどれくらい?」
「うん?えっと通常なら1メートル89だ。ミラーを倒せば通れる、と言ってくれ」
何だ、この二人。私は消防署員に普通の救急車なら通れます、大丈夫ですと請け合った。
病院で両家全員が胸をなで下ろす。華ちゃんはビックリしていたのと、ほんの少しだけ水を飲んでしまっていただけだった。
「でも、タロさん。何でプールに真っ先に行ったの?」
私は不思議に思って、あの時の行動について尋ねる。
「華ちゃんが行方不明で、最悪なところはどこかと思って」
タロさんも心からホッとした顔で答えた。
「華ちゃんは101センチ、あのプールの深いところが110センチ。あのホテルは防火扉に不備があって、プールに監視員もいなかった。信用できないよ」
ホオッと柳井さんのご主人が息を吐き、私たちに頭を下げる。
「本当にありがとうございました。ほんの少しでも眼を離した私たちの責任です。申し訳ありません」
奥さんも続いて深々と頭を下げて言う。
「申し訳ありませんでした。それにしても」
「それにしてもご主人も栞さんも何だか凄いですね。90センチ!とか101センチとか」
よく理解できない人間を前にした不安な態度も混じっている。
「あの…心配されないでください。この人も娘もちょっと変ですけど、大した技能ではありませんので」
正樹さんがようやく笑顔になった。
「役に立ちませんか」
「はい。これまで30年で特に役に立ったと思うことは…ああ、新婚当時、家具を入れるときくらいで、以降30年、まったく役に立ってませんので」
タロさんと栞が同じように頬を膨らませ、笑いが漏れる。
柳井さんのお父さんはさらに栞を見て、しみじみと言った。
「それにしても驚きました。『ふざけんな』とホテルのマネージャーに」
「あああ、忘れてください」
栞が真っ赤になって手をふりまわす。
「うちの娘はすごいでしょう。それが原因で高校時代の彼も、うっ」
タロさんが何か要らないことを言おうとしたが、栞が笑顔でお腹に肘打ちをして防いだ。
9月の終わりに栞と正樹さん、娘の華ちゃんが揃って私たちの家に来てくれた。
結局、式は10月に延期となった。
式場を変更してあちこちに連絡して…と大忙しだったのが、少しだけ落ち着いたらしい。
件の結婚式場…駆けつけた救急車の隊員にタロさんはボソリと『3.2平方メートルの防火扉にくぐり戸がない。プールは監視員がいない』などとチクったのだった。消防署から監査が入り、しばらく営業停止となったとのこと。
金木犀が咲く時期、たくさんの金色の小さな花から独特の甘い香りがしている。
みんなで庭に出て、記念撮影ということになった。
「いい香りだよね」
4人で木の下に並び、栞がそう言って、手をつないだ華ちゃんもウンウンと頷く。
「トイレの芳香剤の香りだけどな」
またタロさんが身も蓋も無いことを言うので、私はお尻に膝蹴りを入れた。
「痛っ」
タロさんが顔をしかめて中腰になる。
正樹さんは苦笑いし、栞と華ちゃんが爆笑する。自動シャッターがおりた。
4人の後ろには栞と同い歳の金木犀と、小さな木がもう一本、可愛らしく写っていた。
タロさんが華ちゃんの為に植えた同じく金木犀の挿し木だった。
夕食の後、華ちゃんは正樹さんとお風呂に。タロさんと栞が庭に面した縁側に座る。私はリビングの片付けをしながら、二人の会話を聞いていた。
「タロさん、いろいろありがとう」
栞がタロさんの顔を見る。
タロさんは何も言わない。
「あのね、私、彫刻は止めないよ。木を彫るのは好きだからね」
栞がそう言って、小さな紙包みをタロさんに差し出した。
「…?」
タロさんは怪訝な顔でそれを受け取り、自分も横の作業棚から同じくらいの大きさの紙袋を持ち出して、娘に手渡した。
「開けていい?」
タロさんが頷くと、娘は袋を開けて中のものを取り出した。
「これって…」
出てきたのは木彫りの髪飾り、可憐な金木犀が何輪も散りばめられたバレッタだ。
タロさんずっと彫ってたの、出来てたんだね。素敵な仕上がりじゃない?
栞は呆然として、自分の渡した紙包みを指さして、開封を促す。
タロさんが紙包みをパリパリと開けると、中からは2個のブローチが出てきた。
タロさんの分と私の分、ほんの少しだけ黄色く彩色も施された木彫りの金木犀のブローチだった。
栞が涙を浮かべてタロさんに抱きついた。
「タロさん、ありがとう。これ、結婚式につけるね」
タロさんは何も言わない。何も言わないけど、栞の背中でブローチを大事に紙に包み直し、作業台に丁寧に置いてから、娘を抱き返す。
それからしばらくして、小さな声で言った。
「幸せになるんだぞ。俺も母さんもお前の作ってくれたブローチをつけて、必ず笑顔で式に行くから」
式は10月予定通り行われた。コロナ禍の中でもあり、家族とほんの一部の友人だけという小さな式だったが、逆に温かいいい式だと私は思った。
花嫁と両親だけの時間が式の前にあって、私たちが待つ部屋に白いウェディングドレスの栞が入室したとき、私はそっとタロさんの顔を見た。あれほど言ったのに満面の笑顔とはほど遠い、難しい顔してるのに私は呆れた。
栞はそんなタロさんの顔に微笑んで言った。
「お父さん…タロさん。そんな顔しないで」
金木犀のバレッタがチラリと見えた。
栞が家族の部屋から、もう一度花嫁の控え室に戻っていく。
タロさんは思わず栞の手を取ろうとして、引っ込める。
「じゃあ、後でな」
「うん、タロさん。エスコート頼むね」
娘の去った部屋に残されたタロさんが私を振り返る。
「…久実ちゃん、俺は今、どんな顔をしているんだ。ちゃんと笑えているのか」
「大丈夫よ。あなたはこれ以上無いほど幸せな顔で笑えているわ」
私はそう言って、何だかびっくりするくらいとめどなく流れているタロさんの涙をハンカチで拭った。
読んでいただきありがとうございます。
だいたい半分くらいがフィクションでしょうか。書いてて涙ぐんだりして…お恥ずかしい。