第一話 教会なら嘘はつけない
※このお話は、ごく一部、現実にあった出来事をベースにして書かれています。どのあたりが現実かは最終話(第四話)の最後にネタばらしをします。
ですが、特にどこが該当するか等を考えず、ゆるっと通常の異世界恋愛・婚約破棄モノとしてお読み頂くことも可能です。
その時まで私は油断していたのです。彼女は私に悪意を持っているとわかっていたのに。
……いいえ。未熟な私は本当の「悪意」という物を理解していなかったのでしょう。
「あっ」
彼女に強く背中を押され、私はよろけました。身体が宙に投げ出され階段が眼前に迫った時、私は無意識に顔を庇い、そのまま階段を転げ落ちました。
「誰か!誰かー!! ミアお嬢様が!!」
侍女のヒステリックな叫びがどこか遠くに聞こえます。身体の中で何かが暴れるかのようにあちこちがじんじんと痛むのを感じながら、私はゆっくりと身を起こしました。
(……まさか。まさか、偶然よ。いくら彼女でもわざと私を突き飛ばしたりは……)
そう思い、私は階段を下から見上げました。きっと真っ青になって固まるか、泣いて詫びながら駆け下りてくる彼女の姿を想像して。
「あはははは! 面白い顔!」
踊り場の上に存在していたのは、勝ち誇って笑う残酷な彼女の表情でした。
私はその時、生まれて初めて確りと他人の「悪意」という物を理解したのです。
直後、私の心の中にも燃え上がる何かが初めて湧き出しました。それは「悪意」かどうかはわかりません。
ただ、私は心に決めたのです。彼女に必ず復讐をする。この痛みをわからせてやる、と。
◇◆◇◆◇
『アリシア、君との婚約は無かったことにしてほしい。いずれ正式に家を通じて申し入れをする』
アリーの婚約者であるウィルからの私的な手紙には、只それだけの事が素っ気なく綴られていました。
アリーはふうと小さくため息をつき、なんと返事をしたものかと思案します。
昔はきらきらと光る青い瞳でアリーを見つめ、互いを愛称で呼びあい、どこに行くにも彼女に着いてこようとしたウィル。
いつからでしょう。その彼が婚約者であるアリーに何かと突っかかり、険悪な仲となってしまったのは。
もはやウィルは共通の友人達のように気軽に"アリー"とは呼んでくれません。それどころか彼が度々ある女性と親密にしている、という噂を聞いていた彼女はずっと心を痛めていました。
しかしこうなってしまったのには自分にも責任の一端がある……とアリーは自覚しているが故に、この手紙にどう応えるべきか迷ってしまったのです。
(いずれ正式に家を通じて……ね。破棄だけならともかく、その先はラブキン伯爵や……特に伯爵夫人が許すとは思えないけれど)
二人の家は婚約を交わしている事もあってとても親しく、互いの状況など情報を常に交わしています。今回の私的な手紙はその裏を縫って出されたのが明確であり、また一方的で不躾な内容でもあることからアリーは余計に悩み、結局ウィルへ返事を出せずにいました。
後々考えるとそれが彼に対しては更に良くない態度であったのかもしれません。
せめて「何故婚約破棄をしたいのか」について、よく話をしておけば――――――。
◇◆◇◆◇
アリーの両親であるグレンジャー侯爵夫妻や、彼らと親交のある貴族達は年齢の近い子供達を会わせたり遊ばせたりして交流を深める事に積極的でした。月に一度は持ち回りでどこかの邸宅でお茶会を開いたり庭園で遊んだりしていたのです。
故に三歳の頃から彼女は多くの遊び友達に恵まれました。中でもそのうちの一人であるウィルは、幼少期は身体が少し弱い事もあり、女の子のようにほっそりして小さくかわいらしい子供でした。
光を弾く淡い銀の髪に、色の濃いサファイアを嵌め込んだかの様な瞳。雪のような肌なのに頬だけは淡い薔薇色。初めて会った時からアリーはその人形の様なかわいらしさに心を奪われたのです。
様々な貴族令息、令嬢がいるにも関わらず、アリーはいつもウィルにベッタリで体調を崩さないか見守り、彼が熱を出せば家を通じてお見舞いを贈るよう父に懇願し、悪戯や意地悪をする乱暴な子どもからウィルを守る盾となり、甲斐甲斐しく世話をしていました。
また、ウィルもアリーの後ろをいつもついて回り、アリーが席を外すと不安がるほど彼女を信頼し好いていました。
そんな二人を見て、双方の両親は早期から将来二人が夫婦となる事を期待し、10歳を迎えた時には正式に婚約を交わしていました。
この国の貴族の婚約式は独自の方法を取っています。
国教である「聖水晶教」の教会で、司教立ち会いのもと、聖なるクリスタルに将来夫婦となることを誓うのです。婚約式だけではなく、結婚式でも同様にクリスタルに誓います。
何故なら神の恩恵を持つ聖なるクリスタルには嘘を見抜く力があるからです。
普段は無色透明で時折キラリと光るだけのクリスタルは、人が触れたまま嘘をついた瞬間だけ赤く変色します。
その為、この国では大事な契約や約束事をする時には聖なるクリスタルに手を置いて誓うことが通例となっているのです。
勿論、10歳の二人が「将来夫婦となることを誓います」と宣言した時にはクリスタルは全く変色しませんでした。
アリーは7年前と同じ教会の礼拝堂にある神の像を見て、今との違いに暗い気持ちになりました。
彼女は今日、母に用事を言いつけられ、かつて婚約式を執り行った教会を訪れています。
その瞳には陰がかかり、薔薇の花弁のような唇からは憂鬱の吐息が漏れだしました。
「アリー、駄目よ。ため息をつくと幸せが逃げちゃうわ」
小さな頃からの友人の一人、リズが彼女に寄り添い、優しく話しかけます。
「でも、こんなこと……罠を仕掛けるようでよくないわ!」
アリーが反論すると友人の一人で騎士団員でもあるルーパートが笑い飛ばします。彼が訓練で常日頃から鍛えている大きな体躯から発せられる声は、銅鑼の様に礼拝堂の高い天井にまで響き渡りました。
「罠? どこが? 相変わらずアリーはクソ真面目なヤツだな!」
リズも呆れたように言います。
「アリー、貴女は正しくて賢くて素敵よ。だけど時々言い方が悪いのよ。罠なんて人聞きが悪いったら!」
「君は親のお使いで教会に来ただけだろ。罠というなら、むしろウィルの方が……」
同じく友人の一人であるショーンが諭すように言った言葉は途中で遮られました。
「アリシア! ようやく見つけたぞ!」
その声にアリーはゆっくりと振り返りました。
礼拝堂の入口そばには若く美しい男女の姿が見て取れます。男の方はたった今大声をあげた婚約者のウィルです。
淡い銀色の髪を乱し、濃い青の瞳に焦りとイラつきを滲ませてひどく険悪な表情になっている事と、少し線が細い事に目をつぶれば、絵画から抜け出した様な美男子である事に疑いはありません。
その横にはほっそりとした肩に金の波が散らされたかの様な巻き毛をおろし、大きな緑の目を更に大きく見開いて、怯えた表情でこちらを見る華やかで美しい女性。
(ああ、マキンリー伯爵令嬢まで連れてきたのね……)
傷心のアリーの元へウィルは真っ直ぐに大股でずんずんと向かってきながら大声で話を続けます。
「今まで手紙の返事も寄越さず、黙りだったが今日こそハッキリとさせて貰う。俺はお前との婚約を破棄……」
彼は、古くからの友人が全員集まっているのを見て、言葉と足を一瞬止めます。
「ルーパート! ショーン、エリザベスまで! なんでお前らがいるんだ! ……アリシア、お前の仕業か!?」
リズが冷たい目でウィルとその連れを見て言います。
「『仕業』って酷い言いぐさね。私とルーは半年後の結婚式の打ち合わせだったのよ。ちょうどアリーの用件があったからこの後一緒にランチをするつもりなの。ショーンも今日はお勤めが非番だというからここで待ち合わせたのよ」
リズの恋人で、半年後には夫になる予定のルーパートがニヤリとして言いました。
「俺たちが居たらマズい話でもあるのかい? ああ、俺は何度もウィルに『悪い事は言わないからやめておけ』って忠告したっけな?」
からかうようなルーパートの横で彼とは対照的に、冷ややかさの下に怒りを沈めて話すショーン。
「ウィル、お前はアリーが今日、グレンジャー侯爵夫人の代理としてバザーの話を教会と相談すると家づてに聞いたから急いで追いかけてきたのだろう。ここで話すのに俺達が居ても問題はあるまい?」
「……」
ショーンの形相と正論にややたじろぎ、無言になるウィルの元へマキンリー伯爵令嬢が近寄り、長い睫を震わせ、不安を声に滲ませて話しかけます。
「ウィル、今日はやめておきましょう。またの機会に……」
「何故だミア、この好機を逃す手はない筈だ! ここは教会だぞ。アリーも嘘はつけない!」
「……久しぶりに会った婚約者を嘘つき呼ばわりは酷いんじゃなくて? ウィル」
ここまで様子を見守っていたアリーがやっと口を開きました。しかし緊張を悟られまいとしたのか、思ったよりも強い声と言葉が出てしまい、すぐに内心で悔やみます。
(嗚呼、どうして私はこんな言い方しかできないのかしら。だから可愛げが無いと言われるのだわ)
「ふん、それならば俺の質問に嘘偽り無く答えてみろ。それで俺達の婚約は破棄できる!」
自信満々で言うウィルの言葉に、思わず悲しげに瞼を伏せて心の中で呟くアリー。
(やはり……きっとマキンリー伯爵令嬢はウィルに「あの事」を話してしまったのね。それだけはウィルの耳に入れたくなかった……)
アリーが珍しく悲観的な表情をしたのを見て、ウィルは自分の考えが正しいのだと誤解をし、すっかり調子に乗りました。
「では今から教会に写しを取って貰う!」
「写しを!? 正気なの?」
吃驚した勢いで、その小柄な身体に似合わぬ大声を出すリズ。
しかし無理もありません。この国で『教会に写しを取って貰う』という事は、特別な意味を持ちます。
対立する二つの勢力が話し合いで事態の解決を試みる時に、聖なるクリスタルの力を使って話す内容に嘘偽りの無い事を互いに確認しつつ、教会の人間が中立の立場から一連の会話内容を書面に写し取り、保管するのです。
そして教会は写し取った記録を保管するだけでなく、その内容は一切口外しません。
貴重な聖なるクリスタルを使用する事、そして記録の保管と漏洩防止の徹底から、教会の写しには多大な信用が寄せられています。と同時に、利用する場合はそれなりの金額を教会に寄進する必要があります。
「おいおいやめとけよ。恥をかくのはお前だぞ。話し合うだけにしておけ」
「ウィル、アリーはいつも正しいし嘘などつかなかっただろう。大体、教会に払う金だって安くはないぞ」
ルーパートとショーンが口々に反対しますが、ウィルはそれを無視して教会の人間を捕まえ、写しを取る準備をするよう依頼しました。