魔神の襲来とルドーの考え方
魔神は何の前兆もなくやってくる。
その日もまた、いつもと変わらぬはずの日常が、唐突に終わりを告げた。
「街の北の方で火の手が上がっているぞ!」
「火事か!?」
「いや、様子がおかしい」
オルトレイドの街は東西南北と中央の五つの区画で区切られ、中央には長や魔術師団が住む建物が用意されている。
悪魔や魔神の襲来を受けていち早く動けるようにと、自然とこの形になったのだ。
今回異変が起きたのは北の区域であった。
最も外れにある建物から煙が立ち上り、燃えている。
当然、警戒していたリリーたちはこの異変の噂にいち早く気づいた。
「ラスティ、もしかしたら……」
「うん、魔神が出たのかもしれない。向かおう!」
データがあるとは言え、次元の門の出現タイミングには誤差がある。
リリーたちだけで常に警戒し続けることは不可能なので、今は二人で買い物をしていたところだった。
周囲の人達の話から北の方で異変が起きていることは分かったが、今の位置からは少し時間がかかる。
リリーとラスティは目を合わせて買い物したものを仕方なく置いていく。
少しでも早くたどり着かなくては救えるはずの命が失われるかもしれないからだ。
しかし、走り始めたリリーたちの目の前に……
「壁!?」
突如、地面からせり上がってきたのは岩の壁であった。
急な出来事に足を止める。
「何をしておられるのですか?」
後ろから声をかけられて振り返る二人。
その瞬間、二人の右手首に地面からせり上がってきた岩がまとわりついた。
縦に長い直方形の形で現れた岩は、リリーとラスティの右手首を完全に覆っており、手錠のように機能している。
「ルドーさん……これは……!」
「まずは、あなたがたが何をしようとしていたのか教えてください」
ルドーは相変わらず優しい笑みを浮かべていたが、纏うオーラからは完全に敵意のようなものを感じられた。
周囲を見れば道に沿って同じような壁がすでに完成しており、完全にリリーとラスティとルドーだけが隔離されている。
「魔神が現れたかもしれないんです。勘違いかもしれないけど、手遅れになる前に助けに行かないと!」
「いいえ、あなたがたには以前も言いましたよ。手出しは無用だと」
ルドーが杖で地面を突くと、今度はリリーとラスティの左手にも同じような岩の手錠が装着された。
「どうしてこんなことを!」
「ですから、手出しをするようなら拘束するしかない」
「でも、魔神が来ているかもしれないんですよ! こんなことをしている場合じゃ!」
「私の魔術で探知しましたが、魔神はほぼ確実に現れているでしょう。しかし、あなたがたは、統治というものが分かっていない。統治に必要なのは最小限のリスクで最大限のリターンを取ることだ」
リリーたちに、ルドーの言っていることは理解できなかった。
一体、何の話をしているというのか。
「どういうこと……?」
「ですから、北区域に住む人々には犠牲になってもらいます。下手に魔神を刺激するよりも、そのほうが安全なのですから」
「……!!」
ここまで言えば、リリーたちにもルドーの言いたいことは分かった。
以前ルドーが言った魔神に対抗する方法があるとは、決して「すべての人を救う手段がある」という意味ではなかった。
むしろその逆……「必要な犠牲は切り捨てる」という意味だったのだ。
「あなたほどの力があって、魔神との戦いから逃げるっていうの!?」
「好きに言ってください。当然、私は魔神に負けるなんて思ってませんよ。しかし、必ず勝てる保証もない。これでもし私が戦って死んだとしたら、一体誰がこのオルトレイドを統治し導くと言うのです? 統治者には統治者としての役目があります。私はそれを果たしているだけです」
これでもなお、ルドーの笑みが崩れることはなかった。
ここまで来ると、もはや不気味な領域だ。
リリーはそのルドーの態度に少し気圧されつつも、まだ諦めてはいない。
「こうしている間にも、誰かにとって大切なものが失われているかもしれない! もしかしたら、あなたの大切な人が脅威に晒されているかもしれないんですよ!? 私たちは手を取って魔神と戦うべきじゃないですか!!」
リリーはルドーに必死に訴えかけたが、それを聞いたルドーは不意に笑い出したのだった。
「ははは、面白いことを言いますね。私にとって大切な人でも、必要な犠牲なら仕方のないことですよ。以前に魔神が現れたときに私の友人が死にましたが、それは必要な犠牲でした。悲しくは思いますが、それだけですよ」
「…………!」
リリーは最初、もしかしたらルドーが権力者だから大切なものを失う痛みがわからないのかもしれない……と、そう思った。
しかし、これを聞いてそれが間違いだと悟る。
……ルドーは大切なものでも切り捨てる覚悟があるんだ。
これはリリーにとって信じがたい考え方だった。
そして、リリーは自分の思いがルドーに届くことはないと理解してしまった。
リリーはうつむき、下唇を噛んだ。
「それに、遥か昔のオルトレイドの長は魔神と契約をしたそうです」
「契約……?」
「ええ、魔神に生贄を捧げる代わりに、魔神はオルトレイドの民を全滅はさせないと。ですから、オルトレイドの長はその契約に基づいて魔神に生贄を捧げるのですよ。今回、それが北区の人間だったというだけの話です」
「そんなこと……」
リリーは言い返す事ができなかった。
オルトレイドにとって自分が部外者であることも確かである。
ルドーとは決して相容れぬ考えを持っているが、ルドーを否定する材料も持ち合わせていなかったのだ。
「そのまま大人しくしていてください。大人しくしていれば危害を加えるつもりはありません」
だが……
こうしている間にも、魔神は破壊を振りまいているのだろう。
こうしている間にも、救えたかもしれない命が失われているのだろう。
そう考えたら、リリーは居ても立っても居られなかった。
――この拘束はそこまで強いものじゃない。私なら破壊はできる。
しかし、ここでルドーとことを構えるのは最良の選択とは思えない。
だったら……
リリーはラスティに視線を向け、自らのやりたいことをアイコンタクトで伝える。
ラスティがそれに対して、首を横に降った。
珍しいラスティからの拒絶……
しかし、リリーはそれでもラスティを強い視線で見つめる。
その瞳を見たラスティは不安そうな顔をしていたが、やがて、ゆっくりと頷いた。
長らく共に過ごしてきた二人であれば、相手が何を言いたいのかを知るには目を合わせるだけで十分だ。
「……"魂の開放”」
ルドーに聞こえないようにリリーは小さく呟くと、地面から伸びている岩の手錠に触れることで地面に魔力を流し込む。
不自由な体勢からの使用なのでそこまで威力はないかもしれないが、この岩を破壊するだけなら十分だ。
地面から放出された霊魂が、岩を砕いていく。
ただし、霊魂は衝撃波として使用しているとは言えど黒と紫のように見える特性があるため、ルドーの目から見てもリリーが魔術を唱えたことは一目瞭然だった。
「歯向かうというのですか? 無駄な真似を」
ルドーはいち早くそれに気づくと、杖で地面を一突きする。
その瞬間、リリーの足元から、リリーの下半身を覆うように岩がせり出す。
そのまま岩はリリーの身体に沿って広がると、リリーの首から下を完全に覆ってしまった。
これではリリーは手も動かせないだろう。
「その状態ではさすがに岩を破壊することは不可能でしょう。完全に自由を奪いましたから。大人しくしていれば危害を加える気はないのですから、無駄な抵抗はよしてください」
完全にルドーの魔術がリリーを覆っていて、リリーはもはや動くことはままならない。
だが、これがリリーの作戦であった。
「ラスティ、できる限り多くの人を助けて!」
「……うん」
ラスティが強化術による身体能力を活かして、囲われた壁の外へと跳んでいった!
見れば、ラスティを拘束していたはずの岩の内部が破壊されている。
「ふむ……私の目の前で岩を破壊したのはカモフラージュでしたか。まさか、あなたがここまで精密に魔術を扱えるとは」
リリーは霊魂を召喚する魔術をあえてルドーに見える形で使用した。
だが、実はラスティの手錠も一緒に破壊していたのだ。
ルドーから見えないように、岩の内部だけを削り取る形で。
住民の救助であればリリーよりもラスティのほうが適任であるし、リリーが残ればルドーはラスティを追いかけられないはずだ。
つまり、これが二人にとって最良の選択だったというわけである。
「全く、何故そこまでして見ず知らずの人を助けようとするのです? 私には理解が出来ない。もし、あなたが住民を助けたことで魔神が満足せず、被害が拡大したらどう責任を取るつもりですか?」
「私にとって、私の責任っていうのは皆の命を助けること! 犠牲を受け入れて見捨てることなんて出来ない!」
「魔神相手に全くの犠牲を出さないことが可能だとでも?」
ルドーの言っていることは正論だ。
ルドーは統治者としては正しいことをしているのかもしれない。
しかし、リリーの言っていることも間違ってはいないのだ。
リリーはこれまで失ってきた者として、これ以上失わないための努力を重ねてきた。
「できないかもしれない……けれど、それでもできる可能性があるなら、私は決して諦めたりしない!」
「あなたは現実が見えていない。残念です。あなたを殺すような真似はしませんが、魔神の脅威が去るまであなたにはそのままでいてもらいます」
そう言って、ルドーは固く口を閉ざした。
リリーは脱出を試みたが、自由に動かせるのは首から上だけ。
いくらリリーでも、この状況から脱出は不可能だ。
リリーはラスティに思いを託し、静かにルドーの隙を伺うほかなかった。