抜け出した一人は二人になる(完)
月日は流れ、エイミ・ノヴリスは第二子を妊娠中。
パン屋フラフィーグはより盛況で、何と王都への展開まであるのではと予想されている。
実際は、二号店の店長が両親と相談して、まだ時期尚早ではと結論を出して先送りにしている状態だ。
「需要はあるのだけどね」
さすがに、供給が追い付いていないなんて事は無いが、王都でも取り寄せたい、という声が二号店やドロッセア商会に届いているくらいだ。
まだ目立たないお腹をさすって、エイミは夫のフランツと共にキッチンに並ぶ。彼が朝一で購入したフラフィーグのパンを使って朝食だ。
「時期を見たいって気持ちも分かるんだよな。現状このパンを焼けるのが店主親子と数名の職人だけってのが」
「今はもう少し従業員の育成に力を入れたいってことね。あの子、若いのに本当しっかりしてるわ。パシバルも言ってたけれど」
「パシバルか」
フランツが妙に思わせぶりに呟くものだから、エイミも乗った。
「ねえ、やっぱりパシバルといい感じよね」
「ああ。パシバルも……幸せになってほしいな」
友人と幼馴染の仲を喜ぶ明るいエイミとは裏腹に、フランツは彼の心の内を知っているのだ。彼の長年の想いが、そう簡単に昇華できるものでもない事を。
そのせいで。
確実に新たに芽吹くものを自覚しながら、罪悪感を感じている事も。
(エイミはエイミ、あの子はあの子なのにな。あいつも中々真面目というか)
フランツは、まだベッドでぬくぬく眠っている幼い長男を想い、胸が温かくなった。そして、隣にいる愛する妻の中に宿る、もう一人の子も。
背を押し、気付かせてくれた幼馴染にも、どうか望外の幸せを。
そう、意外と不器用な彼を案じた。
フラフィーグ二号店の若い女性店長は、リントン区でも広く知られつつあった。看板娘、として雑誌等に掲載されるくらいに、彼女は密かに注目されている。
客に対する笑顔、従業員と真剣に思考する顔、時折見せるむくれた少々幼い表情。
そして、最近特に一人でいる時に見せる、誰かを想う憂い顔。
パシバルは、そんなくるくる変わる表情に惹かれる感覚に、罪悪感を覚えていた。まるで、代わりを探しているようで。
(何年経ってんだよ。いつまでも……我ながら未練がましい)
長年幼馴染を想ってきた彼は、その感情が、新たな恋の芽生えであるとは気付かない。
他人の機微に敏感な青年は、肝心な自分と気になる女性の気持ちには、気付かない。
だが、ある日、転機が訪れる。
「おいちゃん」
「おー。デリー。おにいさん、だ。間違えるなよ」
とてとてと歩いてきた幼児を抱え上げるパシバル。買い物袋を片手に抱えたエイミが、その光景を微笑ましそうに見ながら歩み寄る。
「久しぶり、パシバル。買い付け?」
「ああ。お前は……予定日いつだっけ」
膨れた腹をさするエイミは、すっかり母親の顔をしつつも、伏せた目は未だ恋する少女のようでもあり。変わらないな、と、パシバルは感慨深く、微笑ましく見た。
そこに、かつての胸を掻き毟られるような焦燥は、ない。あるのは少しの寂しさと、二人の幸せが垣間見える事への安堵。
「再来月よ。どうしたの、パシバル」
どこか茫然としている幼馴染を訝しむエイミ。
「あ、ああ。いや。お前たちがくっついてからもうそんなに経ったんだなって」
「何だか年寄り臭いわよ」
「ほっとけ」
「おいちゃん!」
「おにいさん、だ。デリー。どうした、遊ぶか?」
エイミとフランツの第一子、デリーの振り回す腕を甘んじて受け止めるパシバルは、笑った。
「おー。このやんちゃ具合。やっぱエイミ似だな、こりゃ」
「どういう意味よ」
笑う子につられて母親も無邪気に笑う。
そんな和やかな雰囲気が、硬化した。
「ねえ、あれ」
エイミが顔を強張らせてパシバルの背後、少し遠くを見た。振り返ったパシバルも、同じような表情を作る。
そして、胸中がざわりと騒ぐ、不快感。
「パシバル、早く」
エイミが我が子を受け取り、剣呑な顔の幼馴染の、背を押した。
そのまま振り返る事なく、パシバルは駆ける。数人の男に絡まれているパン屋の看板娘の元へ。
(い、いまさらイベント!? ゲームの事とかすっかり忘れてた!)
三人の男に絡まれたフラフィーグ二号店店長。
「雑誌で見た!」
「俺も。えー、実物の方がめっちゃ可愛いじゃん」
絡まれるとは言っても、こうして軽く和やかにナンパされる程度であったので、彼女自身はあまり困ってはいなかったが。
問題なのは、そこではない。
(確か雑誌に特集されるのがフラグ……それから街で絡まれて、それから……)
これが、彼の恋愛イベントであるのが、彼女の内心を波立たせたのだ。
彼女の予想では、この後、彼が。
「なあ、俺の連れに何か用?」
振り返る男たちの顔がひきつる。
「げ、ユニグの……」
「いや、その。あんたの連れだって知らなくて……」
「す、すんませんっした」
三人の男は、そそくさと愛想笑いをしながら去って行った。
(……本当にイベントそのまんま)
彼女は、少しばかり落ち込んだ。
「大丈夫だったか?」
「別に何もされてないよ。雑誌に載ってた、って話を少ししただけ」
割って入った彼、パシバルは、見上げる笑顔に安堵の息を漏らした。
「ありがたい事だよね」
「有名になったもんな。それでなくてもあんた可愛いんだから……っと」
目を逸らして誤魔化すが、しっかりと彼女には聞こえた。
店の外で会う時は、こんな風に二人は自然体で話すようになった。
客としてではないパシバルの顔も、知った。
彼は大層人気があり軽薄そうではあるが、それ故に、多方面に良い顔をしない主義である。思わせぶりな態度などしない、実は真面目で誠実な男である事を。
例え世辞でも、恋人でもない年頃の女性に「可愛い」などと簡単に言えない性格である事を。
彼女は、もう知っている。
(……本当に? 強制力、とかじゃなくて?)
彼女は顔が火照ってしかたがない。
「今からどっか行くのか?」
視線は少し虚空を彷徨いながら、パシバルは探る。
「うん。今日は休み。最近新しいパンの開発でずっとこもりっきりだったし、気分転換にね」
彼女の方も、赤い顔を冷ますようにあらぬ方向を見る。
「俺、今から休憩に入るから。ちょっと歩かねぇ?」
「うん、いいよ」
二人は、リントン区の中心地を歩く。
「なあ、あんたは多分気付いてたと思うけど、俺、少し前失恋したんだ」
「うん」
ゆっくりと、少しの距離を空けて並ぶ二人。
「ずっと引きずるもんだと思ってたのに、意外と、もう大丈夫だったんだって分かって」
「……うん」
「現金な奴、って自分で吃驚した」
「そうかな。パシバルのそれは、いつの間にか愛に変わって、妬むよりも優しい気持ちになれる恋だったって……だけ、かも」
「ああ、そうか……」
パシバルは確かに、恋が始まってから終わるまで、一度も恋敵である幼馴染を妬んだ事などなかったと気付いた。
でなければ、幼馴染に発破をかけるような真似など出来なかった。
妬みは、後を引いて残る。
幸せは、願い続けるものなのだと。
「あんたじゃそうはいかないな」
「え?」
見上げた先、その端正な色男の横顔は様々な色が見てとれた。
「さっき……もの凄い、腹がたった。それ以上近寄るな、触るなって」
俯く赤い顔の彼女の手に、戸惑いがちな男の手が触れた。