プロローグ「彼女が死んでしまった日」
「ああ、くそ!」
それだけ何度も口にして、俺は森の中を駆け抜ける。罪悪感が俺を押しとどめ、しかし脳裏でこだまする悲鳴が俺の背中を押してくる。
――そう、俺は逃げ出した。
夜の森は少し先も見えないほどに暗い。何度も転びそうになりながら、走る。木々の枝葉が頬を切りつけるも、気にせずに走る。暗闇に向かって、走る。その不安感を恐怖で覆い隠して。
みんな死んだ。俺の集落の人間は皆、突然襲撃してきたあいつらに殺された。俺は武器を捨て、無様にも逃げ出した。誇りも正義もすべてを投げ捨てて、ただ生きるために。
だってしょうがないじゃないか。俺だって死にそうだったんだ。目の前で母さんが、父さんが、友達が、顔見知りが、喰らわれた。
「――ッ!」
思い出したとたん腹の奥から酸がせりあがってくるのを感じた。大きく頭を振る。血の匂い、人間の獣のような叫び声、悲鳴。あれらが鼻から、耳からついて離れないのだ。
一瞬だった。俺が戦うのをやめ、逃げ出すのに一瞬だけかかった。ためらったのはその一瞬だけだった。
強く、強く拳を握りしめる。あのとき幼馴染と一緒に誓ったはずなのに。自分たちでこの集落をあいつらから守ると。俺たちがあいつらと戦うと、殺してみせると。
なら、今のお前はなんだ。無様に逃げ出して、あいつらの恐怖に身を屈して。
悔しさが胸の内に湧き上がる。情けなさが俺の心を削る。しかし足だけは生き残るために動き続ける。そして俺自身でさえ、それを止めることもしない。
それがなによりも悔しくて、情けなかった。
「はっはっ……くっ――っ!」
遠く、背後でかすかだが木が折れる音がした。ガラスをひっかいたような不快な音が鼓膜をなでる。その瞬間背筋に悪寒が走り、ただでさえ早かった鼓動が痛いほどに。忙しなく動く足に力がこもり、どこからか血の匂いまでする気がした。
ああ、来た。ついに来た。あいつらが――やってきた。
さっきまでの葛藤はどこへ行ったのか。一瞬にして恐怖がすべてを塗りつぶした。
武器もない今あいつらと出会えば終わりだ。ただ必死に走る。背後から迫る気配に気が付いたのはその時だった。
「――ッ!!」
俺は迷うことなく真横に飛びのく。ついさっきまで俺のいた場所に何かがたたきつけられた。地面の破片が飛び散って、数瞬後に少し後ろで木が倒れる。
地面を転がるようにしながらそいつを見た。一言で言えば黒。もう一言付け足せば、異形。四足歩行で俺二人分はくだらないその体躯は夜に紛れて。機嫌が悪そうに細い尾を揺らし、暗闇色の中二つの紅色の瞳がまっすぐ俺を捉える。
カカカと、そいつは楽しそうに喉を鳴らす。醜い顔を嬉しそうにゆがめた。
途端に脳裏をよぎるのは、俺に向かって助けを求めながら食われていった人たち。瞬間、足が固まった。地面に縫い付けられたかのように。
一歩、星噛みが近づく。
いやだ。死にたくない死にたくない死にたくない!!
「くそ!」
そう吐き捨て再び走りだす。その背後から聞こえる、岩をひっかいたような鳴き声に背を押されるように、ただひたすら足を動かす。
すべてから逃げ出すために。星噛みから、家族から、集落から、そして――死から。
何も考えず、何も考えられず。ただ必死に前へ前へ。そしてついに視界から木々が消えた。
「――っ!!」
足を地面に突き立てるようにして急にスピードを落とす。
そこは崖だった。地面はそこで途切れ、草木も姿を消し、俺の不安感を煽るように乾いた風が吹く。
「そんな……」
拳を強く握る。いや、ここで足を止めるわけにもいかない。ここは崖があるだけで視界を遮るものが何もない。なにより、逃げ道がない。ただ必死に逃げ道を求め、俺は振り返る。
そして森に戻ろうとした時だった。ちょうど俺がでてきた部分の木が針金を曲げるかのように簡単に折れる。森の闇の隙間から、二つの瞳がきらめいた。
また聞こえたあいつらの鳴き声。ギャリギャリとした甲高い金切声。
そしてやつは森の暗闇から這い出てくる。
「星噛み……!!」
こいつらが人類の敵であり、俺の棲む集落を襲い皆を殺したバケモノ。命を喰らう――星噛み。
皆こいつらに殺された。恐怖で足が震える。自分に待っている未来が勝手に頭に浮かんで、眼の奥が熱くなった。口が自然にガチガチと震える。
でもそれが当たり前だった。この場で星噛みは捕食者で、俺はただの餌だ。星噛みは動じない。
一歩、星噛みが俺に向かって近づいた。俺もそれから逃げるように一歩後ろへ。しかし背後は崖。目の前には星噛み。もはや逃げ場はなかった。俺をあざ笑うかのように、乾いた風が吹く。
そしてついに俺は崖の端まで下がってしまった。星噛みがコロコロと喉を鳴らす。なんとなく奇妙なくらい人に似ているその顔が笑った気がした。
まさか、楽しんでいるのか。そう錯覚してしまいそうだった。
「ぎやああぁぁぁぁああ!!!」
「ひっ!」
まるで歓喜の叫びだった。星噛みの咆哮は空気を揺らし、俺はまた一歩下がりそうになる。しかしそこには何もない。今度こそ恐怖で俺は動けなくなっていた。
星噛みはそんな俺の思いをあざ笑うかのようにグッと体制を低くし。そして俺にとびかかろうとした――その時だった。
「ユルト――下がってください」
凛とした、鈴の鳴ったようなきれいな声が待ったをかける。それが俺の鼓膜を揺らしたその瞬間、ズガン!! と星噛みに何かが突き刺さる。それはまるで雷のようだった。衝撃音の隙間に星噛みの断末魔。土煙が舞い上がり、衝撃で俺はしりもちをついた。
「うわっ!」
背後に地面は存在しない。危うく体が後ろに傾きかけたところで腹に力を入れてなんとか堪える。
もう少しで落ちるところだった。背筋に嫌な汗が流れるのを感じながら、薄れつつあった砂埃を眺めた。
そこから姿を現したのは、漆黒の少女だった。
黒い髪、黒い瞳、黒いローブ、黒い斧槍。全身を黒に統一させたその少女は闇夜に紛れ。俺は呆然としたまま、彼女を見つめる。そこにいたのは他でもない幼馴染のクロナだった。
一六歳の割には小さな体。華奢なはずなのに、溢れ出る自信のようなものがか弱い印象は感じさせない。
星噛みに突き刺したなにかの棒に寄りかかるように膝をつき。そして妖魔のようにゆらりと立ち上がって、それを引き抜いた。星噛み特有の黒い血が吹き出で、少女の白い肌を汚す。彼女は自身の袖で気にする様子もなくそれを拭ってこちらを見た。その左目は、長い前髪で隠されている。
なぜかキョトンとした表情。肩辺りまで伸びた黒髪が夜風で揺れ、彼女は意地悪そうに笑う。
「ふふふ。どうしたんです? そんな間抜けな格好して」
「……え……あ……」
「おや、ずいぶんと参っているようですね?」
「クロナ……? 本当に、クロナか……?」
「ほかに誰に見えるんです? わたしは正真正銘のクロナですそんな目をわたしに向けるものじゃありませんよ」
「あ、ああ……すまん」
俺がそう言えば俺の幼馴染であり憧れの少女――クロナは、「しかたないですねー」と目を細めた。そして先に斧がついたような槍――斧槍に付着した血を、また服が汚れるのを気にする様子もなく拭う。
こんな状況でも冷静でいつも通り。それがどこまでも彼女らしかった。だが嬉しいかといえばそんなこともなく、でも頼もしくはある。
しかし、本当にクロナだろうか。つい信じられず、彼女に視線を向けた。
もうみんな死んでしまったと思っていた。クロナも含めてだ。だからこそこの状況が変に非現実じみて思えてしまって。しかしそこにいるのは他でもない、確かにクロナだった。
かすかにクロナの息が荒い。小さな肩が呼吸に合わせて上下していた。よく見てみれば全身に黒い染みがある。あれはおそらく星噛みの血だ。
つまりクロナは今の今まで戦っていたのだ。逃げ出した俺とは違って。
「…………」
クロナが生きていてよかったと、そう口にしそうになって慌てて飲み込んだ。逃げ出した俺が何を言おうとしているんだ。罪悪感に浸っているようだった。彼女のほうをまっすぐ見れない。
「どうしました? どこかケガでも?」
しかし彼女は星噛みの死体から飛び降りると、遠慮なく近づいてくる。下から俺の顔を覗き込み、クスリと笑ったかと思うと手を俺に向かって差し出した。
俺はその手を見つめるだけ。恐る恐る手を伸ばしても、彼女の手をつかむ直前でためらってしまう。
逃げ出して俺に彼女の手を取る資格はあるのか。一緒に誓っておきながら無碍にした俺に、彼女はどんな感情をもっているのだろうか。そんなことばかり考えてしまう。
「ほら、行きますよ。こんなところで座り込んでいる暇はないんですから」
クロナは無理やり俺の手を取ると、そのまま引いて見せる。その小さな体に合わず意外と力はあるようで、俺はつい立ち上がった。
「しっかりしてください。行きましょう、わたしとユルトの二人で」
「――ッ」
彼女は正面から俺を見つめながらそう言う。クロナは正面から俺を見つめながら言ったのだ、二人で行こうと。
ああ、やっぱりクロナにはかなわない。
こわばった体の力が抜けるようだった。黒い感情がじわじわと溶けていく。そうだ、俺はクロナのこういうとことに憧れたんだ。クロナのこういうところに救われたんだ。
「それにしても、クロナが生きててよかった」
だからだろうか。つい直前ためらったその言葉を俺は簡単に口にしていた。一瞬意外そうな顔をして、かと思えば「何言ってるんですか」とまた軽く笑う。
「バカですねー。ユルトが生きてるんですから、わたしは死にませんよ」
「そうだな。お前は……強いもんな」
集落が星噛みの集団に襲撃され、集落の人々は全滅。そんな状況でも冷静な彼女の態度が全てを物語っている。
彼女は天才だ。集落の長であり、自分にも他人にも厳しい父ですら彼女をそう呼んだ。俺と同じ時期に戦いを学び始めたはずが、俺を突き放して強くなって。そんな彼女に俺はずっと憧れていた。
俺が生きているんだ。俺より強い彼女が死ぬわけがない。きっとほかの星噛みも彼女が殺したんだろう。
しかし彼女は不満げに俺を見つめていた。
「どうかしたのか?」
「……いえ、なんでもないですよ」
相変わらずよくわからない。でもそんな彼女が心地いい。
気がつけばあんなに激しかった動悸も、おかしくなりそうな不安感もどこかにいっていた。両親も知り合いもみんな死んで、気が狂ってもおかしくないのに。不思議と体が軽くなったような気すらしてくるから不思議だ。それほど彼女は俺にとって大きな存在だった。
それこそ、彼女が一緒ならなんでもできると思えるくらいに。
落ち着けば、自然と思考もまとまってくる。
今はここからなるべく遠くまで逃げるのが先決だ。うちの集落は排他主義で、大きな街とほとんど関係もたなかったから援軍は期待できない。そもそも星噛みの襲撃は短時間で行われるから援軍は不可能。
なら、生き残るためにすることはひたすら逃げること。
「クロナ、一番近くの街、どこにあるかわかるか?」
「たしかここから西にいったところですね。結構な距離ありますけど――」
ふと。そこまで口にしたところで、彼女の空気が変わった。いつものように、いっそ不自然なくらいにニコニコしていたものから、触れるものすべてを切り裂くようなものへと。骨すら断ちそうなほど鋭利な視線を彼女は横に向けた。
対して俺は首をかしげるだけだ。彼女と同じ方向を見るが、そこにあるのは相変わらず月明かりの届かない薄暗闇の森だけ。
なにがあったのか。クロナに尋ねようとしたところで、彼女は大きく息を吐く。
「クロナ?」
「……やっぱりやめましょう。ユルトだけで逃げてください」
「は!?」
俺はつい今の状況も考えず、そう叫んだ。
「いや、なんでだよ。いっしょに逃げればいいだろ!」
「まだ星噛みはいますからね。わたしはそれを引きつけます」
「それなら俺が――」
「わたしは、強いですから。わたしがやったほうが確実です」
「そういうことじゃなくて……!」
彼女のいうことは正しい。彼女が他の星噛みがいるというなら、確かにいるのだろう。それなら誰かが囮にならないといけないし、彼女のほうが強いのだから引き付けるのも適任だ。
でも、そういうことじゃない。なんなんだ、この感じ。胸の奥に焦燥感が湧き上がって、背後から何かが迫ってくるかのような。いってしまえば、嫌な予感がする。
だが彼女は彼女できっと意見を変えることはない。本来クロナは理屈で動く。彼女の中で筋が通ってるのだから、それを変えることはほとんどない。
でも、そういうことじゃないんだ。
「クロナ!」
俺は彼女に詰め寄った。感情に任せて掴んだ両二の腕は力を入れれば折れてしまいそうなくらいに華奢で。そこに一切の震えがないのが悔しかった。こんな感情を持っているのが自分だけな気がして。恐怖で今すぐにでも逃げ出したいのが俺だけのようで。すべてを捨てて集落から逃げ出した俺を責めているかのようで。
「お願いだから、いっしょに逃げてくれ……!!」
また彼女は驚いたような顔をした。
「お願いだから――死なないでくれ……!!」
ああそうだ。結局俺は、また一人になるのが怖いんだ。彼女がいればなんでもできる気がする。でも逆に、彼女がいなければただただ逃げるだけの自分になる。
クロナがいないのが、不安で、怖くて。彼女の背が見えなくなるのが恐ろしい。
なんて情けない。しかしクロナは、ふわりと笑った。いつものように意地の悪い笑みじゃない。時折見せる、慈しむような、そんな笑顔。
クロナは手を伸ばした。そっと俺の頬に触れ、
「大丈夫ですよ」
そう、いつものように紡ぐ。体温がいつも低い彼女の手のひらは、相変わらず冷たい。
「死なないかどうかはわかりません。でも、あなたが忘れないでいてくれればわたしは生きてゆける。ほら、よくいうじゃないですか。あなたの胸の中で生きているんですって」
「そんなの! そんなの屁理屈だ!」
ピクリと俺の頬に触れた手が震えた。しかし顔にはおくびにも出さない。ただ、その笑みがどこか泣きそうな表情に見えた。
向こうで木の葉が揺れ、彼女の黒髪が波打ち。普段隠れた黒い左目が長い前髪の向こう側からこちらを見つめてくる。
「屁理屈は嫌いですか?」
俺はついなにも言えなくなった。
クロナがこの言葉を口にするときは大概決まっている。総じて、俺を説得するときだ。
理屈で動くクロナは、説得するときだって同じだ。論理立てて、順序よく。自分の意見を相手に刷り込むかのように。
だが彼女が屁理屈――つまりねじ曲がった理屈を口にするときは、理屈じゃ説得できないと感じたとき。
そんなときは必ず俺が折れてしまう。こんな彼女がいうことだから正しいかもと思ってしまうのはもちろん、それだけクロナが必死ということが伝わってきてしまって。納得するかどうかはとにかく、俺は結局首を縦に振ってしまうんだ。
だけど。だけど今だけは、そうなるわけにはいかなかった。
クロナも屁理屈を言ってしまうくらいに必死なんだ。クロナだって本気で俺のことを思ってくれている。
でも、これだけは認めるわけにはいかない。屁理屈なんて大嫌いだ。彼女を連れ去っていく屁理屈なんて、糞食らえ。彼女を苦しめる屁理屈なんて、消えてしまえばいい。
ギリと奥歯を噛み締めた。睨みつけるようにクロナへと視線を向ける。
認めない。認めてやるものか。これだけはいくらクロナでも譲れない。
ふうと短く息を吐く。自然に彼女の二の腕をつかんでいた手から力が抜けた。
そして口を開けた。
『大嫌いだ』と、そういうために。なにがなんでも彼女を連れていくために。
しかしそのときだった。
――トン、と。
「――あ」
それはあまりにも軽い衝撃。クロナが俺の体を押したんだと気がついたのは、俺が後ろへと倒れ始めたときだった。
世界の時間が遅くなったような感覚。地面へ倒れこむまでが永遠のように感じる。
そんな俺を見下ろしながら、クロナは「約束です」といった。相変わらずの笑みを貼り付けながら、そういった。
「わたしが死んでも――絶対にわたしのことを忘れないでくださいね」
その瞬間、目の前を横から何かが通り過ぎた。
いったい何が……。そう考える暇もなく、俺はしりもちをついて、尻の鈍い痛みに渋い表情を浮かべる。
クロナの手から離れた斧槍が岩肌に落ちて、カランとむなしい音を奏でた。
そこに、クロナの姿はない。
「え……」
ポツリと溢れたそれは言葉にしては弱々しすぎる。ただ呆然と、目をめいいっぱいに大きく開いてクロナがいたはずの場所を見つめた。
なにがあった。なにがおこった。クロナはどこだ。ついさっきまでそこにいたはずだ。確かにそこにいたはずなんだ。あいつを連れていくんだ。いっしょに逃げるんだ。そこにいなかったらそれもできないじゃないか。
そのとき、ふと気がついた。
そこにあったはずの森がない。俺が通ってきたはずの森が消えていた。
いや、違う。消えたんじゃない、見えなくなっただけだ。
「星……噛み……」
震える声で何とか口にする。そこにいたのは星噛みだった。基本普通の星噛みとなにも変わらない。だが大きさが異常だった。森が見えなくなったのは、普通の星噛みの何倍もある巨躯のせい。その体表はほのかに赤く輝く。
俺も初めて見た星噛みだった。
振り抜いたような体勢だった。そしてやつの手にはぐったりとしたクロナが握られていて。俺が声を上げる間も無く、星噛みはクロナを口に入れて。
そのとき、星噛みの喉が波打った。
それがなにを示すかわからないほど、俺もバカじゃない。
突然消えたクロナ。なにかを飲み込むような動きをした星噛みの喉。
つまりは、クロナが食われた。
星噛みの真っ赤な、光のない瞳が俺を捉える。にぃと、嬉しそうに笑った気がした。
「クロ……ナ……クロ、ナ……」
掠れた声で彼女の名を呼んでも答えるのは星噛みのつぶやきだけ。
全く整理ができない。何が起こってたのかはわかるはずなのに、感情がそれを受け付けない。しかし現実は俺のことなんて待ってくれない。
クロナを喰らった星噛みは俺に背を向けた。
それは星噛みにしてはあり得ない行動だ。星噛みとは命を喰らうもの。人がいるなら人を喰らい。そのあとは次の人を喰らい。いなくなったら動物を、そのあとは草木を。その場に命がある限り喰らい続ける。それが星噛みだ。
そんな星噛みが、人間の俺を前にして背を向けた。明らかにおかしな行動。しかし俺の中でそんな疑問はすぐに霧散する。
「待て」
ゆらりとふらつきながら幽鬼のように立ち上がる。足元に転がっていたクロナの斧槍を気が付けば手にしていた。
ああ、頭が熱い。脳みそが沸騰しているようだ。何も見えない。クロナを殺した、あの星噛み以外なにも目に入らない。
「返せ。クロナを……返せ!」
俺は星噛みに向かって駆けだした。
こいつはきっとクロナをもってさえ勝てないと思わせたバケモノだ。俺自身もすぐに逃げ出した弱虫野郎だ。俺が勝てるわけがない。
でもそれがどうした。勝てないからってなんだ。俺が弱虫だからってなんだ。このままいかせてたまるか。こいつだけは殺す。クロナを飲み込んだ。だから何としても殺す。
それにこいつはクロナを丸のみにした。ならまだあいつの腹の中で生きているかもしれない。
星噛みは相変わらず俺に興味を示さない。好都合だ。俺は星噛みがズルズル引きずる、その尾を駆け上がる。そのまま背を駆け、やつのうなじにまで到達し、斧槍を突き刺した。
「ぎゃあああああ!!」
星噛みがやけに人間じみた叫び声をあげる。やつの体が大きく揺れ、危うく転げ落ちそうになった。しかし俺は突き刺す。何度も何度も。
そしてすぐに星噛みは動きを止めた。しかしかすかに揺れている。死んだわけじゃない。でも今が千載一遇のチャンスであることには変わりない。
「クロナ……! クロナ……!」
星噛みの肉を割き、彼女の名を何度も口にした。そのきれいな黒髪を、雪のように白い肌を、いつも俺に向けていた笑みを。渇望するかのようにその傷口を凝視して。
しかし現れたのは、一層強い真っ赤な光。
「うわっ!」
次の瞬間、視界が赤く染まった。強い衝撃が俺を襲い、耐えきれずに俺は吹き飛ぶ。次の瞬間俺の両目が映したのは、いつも通りの星空。
俺の体が宙に浮いていた。
落ちている。崖から落ちている。そう自覚したのはすぐのこと。でもそんなことすらどうでもよかった。
俺の体を風が撫で、崖の端がどんどん遠ざかっていく。俺はそこに向かって思い切り右手を伸ばした。
待ってくれ。行かないでくれ、クロナ。
待ってくれ。待ってくれ。
彼女のハルバードを左手に握りしめながら何度も繰り返す。目の奥が熱い。視界もなぜか滲み出した。
おかしな話だ。落ちているのは、彼女から離れているのは俺のほうなのに。
でも待ってくれと思わずにはいられない。
ふとその時。俺の右手の甲までもが赤く光り熱をもった。そしてそこに浮かび上がる、見たこともないなにかの紋章。
だがそれにもかかわらず俺は遠ざかる崖の端に、そしてそこからかすかに見える赤い光に向かって訴えかけていた。
待ってくれ、待ってくれと。