本屋で暇を潰す彼女
結局あれは恋人だったんだろうか。
高校生の頃の話だ。
僕は図書委員で、彼女も図書委員だった。
今時珍しく読書が趣味だった僕と彼女は自然引かれ合った。ここで言うのはお互いの魅力に惹かれ合ったというよりも、むしろ性質的なものに近い。砂場に置いた磁石が、砂鉄まみれになるようなものだ。
どっちが磁石だったかというと、彼女の方だろう。
強烈な人だった。
すっきりした、清涼感のある容姿の人だった。
ただ、基本的に何に対しても淡白な態度を取る人でもあった。喜んでる場面と楽しんでいる場面はかろうじて見たことがあるけれど、結局怒りや悲しみの表情はついぞ目にすることがなかった。
時間が空けばずっと本を読んでいるような人で、その割に勉強も運動も、その他僕らが一般的に苦戦しそうなことすべてを何食わぬ顔でこなした。それを誇るでもなく紙面を黙々と追い続ける様は浮世離れした印象があって――、さっきの引かれ合いは一部訂正、少なくとも僕の方は彼女の魅力に惹かれていた。砂鉄と磁石の例は、かえってぴったりイメージに当てはまるから、訂正しない。
じゃあどうしてそんな魅力的な彼女のことを過去形で思い出さなくちゃいけないのかというと、やっぱりあの本屋の暇潰しの一件が原因になるんだろう。
数えて七回目のデートのときだった(向こうがどう認識してたかは知らないけど)。
十五時からの映画を約束した土曜日。
僕は十三時には駅に着いていて、フードコートで昼食を取り終えたのが十四時。残りの一時間をどう潰そうか考えていた。
そして読書が趣味の人間であればおよそ九割は同じ選択をすると思うのだけど、本屋に向かった。特にそのとき買いたいものがあるわけではなかったけれど、駅ビルの本屋へと、僕は向かった。
そこで、じっと本棚を眺める彼女の姿を見つけた。
向こうも一時間早く着いている。
その事実に嬉しくなってつい話しかけてしまったのが、強いて言うなら間違いらしい間違いだったのかもしれない。
僕が名前を呼んでも、彼女は最初、振り返らなかった。
二度目は遠慮がちに、三度目は不安げに。四度目の勇気が絞り出せるかは怪しかったけれど、彼女は三度目で反応してくれた。
あら、と彼女は僕に目線を向けた。
「早いね」
「そうね」
「何か面白そうなのある?」
僕としては軽い話題振りのつもりだったんだけど、思ったより強いストレートが返ってくる。
「全部」
全部。
ぜんぶ、ゼンブ、全部……。頭の中でその言葉がエコーしたのを覚えている。本棚を目の前にして、全部面白そうと言える日は、たぶん僕の人生には訪れない。
やっぱり本が好きなんだね、と返せば、そうね、と言われて会話が終わってしまう。それは予想できたので、僕は違う言葉で切り出した。
「ここ、よく来るの?」
「週五、六」
来すぎである。
たぶんこのあたりから、僕は不穏なものを感じていた。
「本屋、好きなんだ」
「好きよ。書店で時間を潰すのが一番好き。死ぬまで時間を潰していたいわ」
何気ない日常会話の中でやけにスケールの大きな言葉が混じってくるのは、たぶん物語を好む人全般に起こりうる傾向だと思う。
思うけど、彼女は何食わぬ顔のまま、何の前兆もなくそういうことを言うのでぎょっとする。
驚きを隠すように、おどけてみたのが悪かった。
慣れないことはするものじゃない。
「そっか。じゃあ映画よりも、ここでの暇潰しの方が楽しかったり?」
「そうね」
ハハハ、と笑いは出せた。尻すぼみになった。
お前とのデートより、本屋で暇潰してた方が楽しい。
残念ながら思春期の僕はこの言葉に完全にノックアウトを食らってしまって、その後の映画も気もそぞろ。喫茶店で二、三杯飲み干したはずの紅茶の味はまるで思い出せない。
じゃあ、と別れたとき、また、と付け足さなかったのが決定的になったわけではないと思う。
だけど、それで自然と彼女との縁は途切れていった。
僕はメンタルが弱かった。
で、なぜそんなことを急に思い出したのかというと。
「あら」
目の前にその彼女がいるからである。
本屋で。
偶々。
正月休みということで、久しぶりに地元に戻ってきた。
姉貴にこたつを追い出されて使い走りにされ、訪れた本屋に彼女はいた。
じっと本棚を見つめている背筋のぴんと張った様に誰かを思い出すな、と眺めていたら目が合ってしまった。
高校生の頃にはつけていなかったフチなし眼鏡のためにか、すぐにはわからなかったけれど、あら、の声音で気付いた。
「久しぶり」
「ええ」
トラウマが刺激された、ということは特にはなかった。
さすがにもう五年も六年も前のできごとだ。傷跡は薄くなるどころか、初めから傷だったのかも怪しいほどに些細なものになっていた。
懐かしさが込み上げた。
彼女は同窓会に顔を出すようなタイプでもないので、正真正銘、高校以来の対面だったのだ。
「時間潰し?」
と聞くと、
「ええ」
と返ってくる。
変わってないんだな、と不思議な感傷に浸っていると、彼女が僕の手元を見ていることに気付いた。
僕も自分の手元を見る。
姉に頼まれた雑誌が握られている。
「ああ、これは、」
「ちょっと待ってて」
言葉の途中で、その雑誌をもぎ取られた。
ぽかん、としていると彼女は本棚から本を五冊抜き取って、レジへと向かう。
会計を済ませて戻ってきた彼女は、僕の前に紙袋を差し出した。
「奢ってあげる」
訳も分からず、「ど、どうも……?」と返すと、彼女は昔と変わらない、淡白な表情で頷いた。
しばらく僕は手持ち無沙汰に、何か言った方がいいのか悩みつつそこに突っ立っていたけれど、彼女は彼女でそれで終わり、と言わんばかりにまた本棚とにらめっこを始めてしまったものだから、結局、いたたまれなくなって書店を後にしてしまった。
家に帰って、袋を開いた。
彼女に奢ってもらった五つの本は、次の通り。
『桜桃』
『明暗』
『D坂の殺人事件』
『トロッコ』
『浮雲』
さて、これには一体どんな意味があるのだろう。
僕はこたつで蜜柑を剥きながら、その意味をじっと考えていた。
昔ほど読書はしなくなったし、高校生当時だってほとんど流行を追っていただけだった。だからこの手の本の内容には明るくないし、ひょっとしたら読めばわかるかも、と手を付けてみたりする。
しかし、思ったよりあっさりその意味はわかった。
姉がふらりと現れて、紙袋の中に残った六冊目を取っていく。
旅行雑誌だ。
そして、その表紙にはこう書いてある。
『新婚旅行特集』
こういう小技、意外と好きなんだ。とか。
でも折句とかあるわけだし、案外好む方がそれらしいのかも。とか。
それより早とちりしたりする方が意外か。とか。
それにしてもなんでこのチョイスなんだろう。とか。
案外、結構好かれていたのかも。とか。
そんなことをにやにやしながら考えていた僕だったけれど、数日後に顔を出した同窓会で彼女の近況を耳にして、さらなる謎に悩まされることになる。
もうずっと昔の話だからあんまり自信がなくなってしまったのだけれど。
あのとき、彼女は確かに『死ぬまで時間を潰したい』と言ったのだったか。
ひょっとして、『死んでも時間を潰したい』と言ったのではなかったか。
たぶんこれから、どこの本屋に寄っても、本棚の前で彼女の姿を探してしまうんじゃないかと思う。
そんなことないか。