チューニングが必要だ
人は何かを作ることが出来る。
言葉で概念を、手で物を、頭でifを作り出す。
同時に、人は何かを壊すことが出来る。
今までに作った物を、今まで積み上げてきたものを、割と簡単に壊して見せる。
しかし、そんな人にもできないことがある。
無から有を作り出すことと、有を無に帰すことだ。
前者に関しては言わずもがな。全ては既知に少しの個性や遊び心を加えて作られる。
しかし後者はどうだ。人は自分で作り出したものに、縛られ、囚われ、蝕まれ、弄ばれて、擦り切れる。
そうなっても、無に帰すことは出来ない。無くすことも、なかったことにも出来はしない。
出来る抵抗は、蓋をして見なかったことにするか、気づかなかったことにしてやり過ごすのが精々だ。
人が作った物を無に帰すことが出来るのは、自然の神秘と時間の営みだけなのだから。
そう、僕らは決して、なかったことにはできないし、無くすことも、いなくなる事も出来はしない。
何があっても、どうなっても、決してそれは誰でもない、僕ら人間が許さない。
さて、前置きはこれくらいにして、本題に入ろう。
音には周波数が存在する。
光にはルクス、気圧にはヘクトパスカルだったか。
人は目に見えない筈のものを、しかし確かに存在させ、認識するために、単位を設定した。
まぁ、目には見えないが、多くの人が感じているし、知覚しているわけだから、それを表現しやすいように枠を作る理由は分かる。そこに否は無い。
しかしだ。
光には、可視光という見える範囲の光と、非可視光という目には見えない範囲の光が存在する。
音にも、超音波と低周波という、人の耳には捉えられない領域が存在する。
これらに関しては、例外なく万人が知覚できない筈にも拘らず、表現するために設定された枠の中に納まっている。
誰にも捉えられない筈のものを、しかし、確かに存在すると疑いなく言ってのける。
なんという自信だ。
その自信の裏には、途方もない血と汗と涙、そして全人類の歴史自伝が圧縮されて詰まっているのだろう。だからこその自信。
僕はその自信に口を挟もう。
超音波や赤外線が存在しないのではないか、なんていう狭量なことを言うつもりはさらさらない。低周波、紫外線大いに結構。面白いじゃないか。
目には見えないが確かに存在する何か。結構結構、ワクワクするよ。
何故信じられるのかは分からないけども、信じて見たくなるというものだ。
しかしだ。
何故、「誰にも知覚できないモノ」をあると言ってのけるのに、全人類と相対すると少数に属する人達が証言するものは否定するのか。
科学的根拠がない?
どこぞの宗教に端を発した、どこの馬の骨とも知らない神様の、あるかもわからない尻尾の付けた跡を探す学問に何の根拠を求めるというのか。
確かに科学は便利さ。
世界を分解し解き明かしたことで多くの理論が日の目を浴びた。
出来るようになったことも多くある。
しかし同時に、人間に対して有毒だ。
理由に理屈、説明のための理論、論理でもって現象を解き明かす。
全くもってつまらない。
科学のせいで、人の持つ最も有力な力が疑われる。
即ち、直観。
大体だ。科学の歴史を歌ってみろ。たかが数千年にも満たないものだ。
それに比べて、人の直感は動物時代から培い磨いてきたものだ。
歴史に直すと数万年くらいはあるんじゃないか?
別にダーウィンを称えるわけじゃない。
人間の歴史よりも、動物の歴史が長いってだけの話だ。
しかし、人は動物の歴史を否定する。
全く、なんて奢りだ。
人間の言う科学なんていうものは、猫が猫じゃらしにじゃれつくようなものなのに、それを誇るなんて、滑稽すぎて苦笑も漏れない。
そう、そんな児戯にも等しいものを縋って、誰かの目に映る現象を、誰かが感じる直感を「ありえない」と切り捨てる。
なんてことだ。
本当に、それこそ「ありえない」
いや、ありえない以上にナンセンスだ。
科学的根拠があるから信じると。
科学的根拠がないから信じないと。
等しく目に見えないという事実は同じにも拘らず、一方を信じて、他方を切り捨てる。
君の目には何が映っている?
何も映っていないだろう。そうさ。何も映ってなんかいやしない。
肯定の材料はおろか、否定の材料さえも映っちゃいない。
そもそもだ、科学的根拠なんてものも、誰かが紙に叫んだ児戯だろう。
それを信じて、他を信じないなんて、君は児戯も出来ないと、他でもない自分自身を卑下するつもりかい?
NOだろう。
僕の問いに対する答えは、きっとNOだ。
なら、考えてみよう。あわよくば信じてみよう。まぁ、百歩譲って笑って見よう。
そちらの方が面白い。
そして何より興味深い。
僕や君、はたまた世界の誰かの世間が少しは広がるかもって話だ。
否定して切り捨てるよりも、随分生産的で魅力的だろう?
さて、この世界には目に見えない、どうやっても知覚できないものでも存在するって話だろう?
だったら、きっと存在するはずだ。
ならばなぜ触れられないのか、それはきっとチューニングがあっていないからだ。
「それ」はきっと可視光と非可視光と似たようなもので、「それ」の持つ周波数みたいなものに合うように、人の感覚をチューニングしなければならないのだと思う。
どうやってチューニングするのかは皆目見当もつかないが、それでも言おう、チューニングが必要だ。
もともと見える人は、きっと、そのチューニングがされているのか、もしくはその人の持つ感覚が他の人よりも「それ」寄りに設定されているだけだろう。
まぁ、感覚が「それ」によるっていうことは、言ってしまえば人間離れするってことだから、人間社会では生きにくくなるだろうね。
そりゃそうだ。
なんてったって「幽霊」ってものは、少なくとも僕や君よりも先に人間社会を卒業した先人・偉人たちに他ならない。
そんなお歴々に近い感覚を持っているなんて、人間社会を卒業する一歩手前ってことだろう?
人の社会でうまくやっていけるわけがない。必ず何らかの齟齬が出る。
え?
幽霊について話しているのかって?
当たり前だろう。今頃気が付いたのかい?
全くなんて勘の悪い。
幽霊っていうのは、多くの者たちが信用しない。
超音波や紫外線は人には見えないが信用されているのに、幽霊は一部の人たちは感じていても存在を認められない。
科学の産物である歴史の浅い機械の表示を信じて、昔からいる人の言を信じない。
まったくもって度し難い。
そして何より、くだらない。
何もないよりも、何かがある方が、大抵のことは面白いっていうのにさ。
夢や希望、浪漫に幻想。そんな子供すらも持っているものを信じられないなんて、本当に児戯すらも出来ない可能性が出て来たね。
こればっかりは予想外だよ。
ん?
なんだい、拍子抜けして。
なんだい、気の抜けた顔をして。
色々言っておいて結局ってか?
それは違う。
人間は、何を隠そう人間に生み出されたものだ。
そして冒頭で言っただろう?
人は何かを壊すだけで、何も無には返せないのだと。
人が死ぬのは時間の営みか、自然の神秘か?
違う、人が人を殺すんだ。
時間も自然も、人を「動かないようにする」だけだ。
人を壊すのは、人を殺すのはいつだって、どこだって、なんだって人間だった。
だったら、この世界にまだ「彼ら」が残っていても不思議じゃない。
そうだろう?
なんたって、これまでの人類史を紐解いたところで、有を無に帰せたものの名前は出てこないのだから。
さて、ならば問いかけよう。
さて、だから問いかけよう。
さて、幾度と言わず問いかけよう。
『君は、幽霊を信じるかい?』