第62話『転調』
週明けから僕は仕事に戻った。
仕事を休んだ本当の事情を知らない人には、有紗さんが事前に言ってくれたように、ひどい風邪を引いたとごまかしておいた。4日間いなかったけど、特に問題はなく仕事を再開できている。
果歩さんからの連絡や報道などによって、いじめ調査の進捗具合がどうなっているのかを知る。また、美来は月曜日に病院に行って、診断書を発行してもらったとのこと。
クラスでのいじめを隠蔽しようとした教職員には懲戒解雇の処分が決定し、生徒についてはアンケートや個別面談で実態調査を行なっているとのこと。
いじめの件については着々と事が進んでいる。これで、僕は美来と有紗さんのどちらと付き合うかを真剣に考えることができる。
そう思っていたんだ。
6月1日、水曜日。
今日から夏が始まる。6月は梅雨の時期でもあり、雨の日が多くでジメジメとした日が多いのであまり好きではない。
「おはよう、智也君」
「おはようございます、有紗さん」
夏になったからか、有紗さんの服装も昨日までのスーツから変わっていた。入館証を首に提げていなかったら、真面目な大学生なのかなと思ってしまう。
「何よ、私のことをじっと見て」
「いや、職場でスーツ以外の姿を見るのは初めてなので、新鮮だなと思って。とても似合っていますよ」
「……あ、ありがとね」
有紗さんはほんのりと頬を赤くしながら、嬉しそうな笑顔を見せた。
「智也君はジャケットを脱いだだけなの?」
「まあ、そうなりますかね。一応、これ……去年のボーナスで買った夏用のスーツなんですよ。昨日までとは違うんです」
季節の変わり目だし、新鮮な気持ちで仕事に臨めるようにと、今日から夏用のスーツを着始めたというわけだ。
「智也君も涼しそうな服を着ればいいのに。たまに見かけるよ、デニムパンツとかの人」
「それはきっとSKTTの方でしょう。僕らみたいに協力会社の社員が、そこまでカジュアルな恰好にはなれませんよ。空気的に」
ここの現場のルールでは5月からクールビズを導入しており、ノーネクタイで出勤する人が出てくる。
また、今日から9月の終わりまでは、スーパークールビズという名目で、カジュアルな恰好で仕事をするのを許されているはずだ。
「真面目ね、智也君は」
「そうですかね。それに、スーツを着ている方が気持ち的にいいんで」
「それならスーツでいいかもね」
そんなことを話していたら、午前9時になり、今日も仕事が始まった。メールチェックをするけど、特に問題は起きていない。
「今日も勉強ですかね」
「そうね。ただ、必要な資料が来るのが遅すぎるから、どんな状況になっているのかあたしからメールを送っておくから」
「分かりました」
僕はロッカーから情報処理関連の本を出して、勉強を始める。
すると、メール送信が終わったからか、有紗さんが僕のすぐ側まで近づいてきた。仕事を再開してからも勉強のときは、こうして有紗さんは僕にベッタリとくっついている。もう周りの目とかを気にするのは止めた。どう思われたっていい。
「智也君、ここなんだけど……」
「ああ、そこはですね……」
今日も。いつもと同じように平穏な時間が過ぎると思っていた。
しかし、今日の仕事が始まってから2時間ほど。午前11時が過ぎた頃だった。突然、フロアが騒がしくなったのだ。
「何でしょうね」
「……あれ? 入口にいるの羽賀さんじゃない?」
「えっ?」
有紗さんにそう言われたので、僕も入口の方を見てみると、スーツを着た人が数人ほどいて、その中心に羽賀がいたのだ。今日から夏だというのに、彼はジャケットまでしっかりと着ていて、涼しそうな表情を浮かべている。
「確かに羽賀ですね」
「何かあったのかしら。彼って警察官なんでしょう?」
「ええ、そうです。何か事件があって、このフロアにいる誰かに話を聞きに来たのでしょうかね。それとも……もしかして?」
誰かを逮捕しに来たとか? うわあ、そんな光景……生で見たくないんだけど。
「ねえ、智也君。羽賀さん達がこっちに来るけど?」
「えっ?」
再び入口の方を見ると、羽賀達がこちらに向かって歩いてきているのが分かった。むしろ、僕らを目当てに来ているようにも思える。
その予想は見事に当たってしまい、羽賀達は僕と有紗さんの目の前で立ち止まったのだ。
「羽賀、どうしたんだよ。こんなところで……」
思わず僕は立ち上がってしまう。
羽賀はいつもと同じように冷静沈着に見えるけど、何か思い詰めているように思えた。
「……氷室。まさか、こういう形で君と会ってしまうとは思わなかった」
「ど、どういうことだ?」
すると、羽賀はスーツの内ポケットから、折りたたまれた白い紙を取り出し、その紙を広げて僕に見せてきた。
「氷室智也。児童福祉法違反の疑いで逮捕する」
そう言われると、僕は羽賀に手錠を掛けられてしまうのであった。




