第116話『Hypnosis』
何だかとっても気持ちがいい。全身が優しい何かで包まれている感覚があって。
ああ、そういえば、美来が昨日言っていたっけ。ちょうどいい湯加減のお風呂に入っている感覚だと。ずっとこのままでいたいというか。
何だろう、とっても温かくて、柔らかくて、甘い匂いもして。凄く気持ちがいい。
このままでいられるなら、ずっとこのままで。
「うん……」
ゆっくりと目を覚ますと、家の白い天井がはっきりと見えた。スマートフォンで時刻を確認すると、今は午後4時前か。あれから更に8時間くらい寝てしまったのか。
「お、おはよう……智也君」
「えっ」
テーブルの方に振り向くと、そこには桃色のワンピースを着た有紗さんがいた。顔を赤くして僕の方を見ている。
そんな有紗さんとは対照的に美来はいつもの可愛らしい笑みを浮かべている。二度寝をする前は寝間着だったけれど、いつものメイド服姿だ。
「おはようございます、智也さん」
「おはよう、美来、有紗さん。……あれ、どうして服脱いでいるんだろう。暑くて、寝ている間に脱いじゃったのかな。ごめんなさい、有紗さん。こんな恰好で」
「う、ううん……いいんだよ、智也君。いいから……」
有紗さん、顔の赤みが引くどころか更に増しているような。視線をちらつかせているのは……やっぱり、僕が寝間着や下着が脱げちゃっていることだよな。体がちょっと熱っぽいし脱いだのはそのせいかな。
そういえば、さっきスマートフォンを確認したらランプが緑色に点滅していたので、SNSを通じて僕にメッセージが来ているのか。確認しよう。
僕、美来、有紗さんのグループにメッセージがあるな。昼過ぎに来たのか。
『今からそっちに行ってもいい?』
『いいですよ。ただ、智也さんはぐっすり眠っているので、あとは私の方にメッセージを送ってください』
『分かった』
なるほど。美来はお昼頃には起きていたんだな。有紗さんが来るんだったら、僕を起こしてくれても良かったのに。
でも、昨日……僕がこの一連の出来事によって疲れが結構あると口にしたので、僕を気遣って寝かせてくれたのかな。確かに眠気や疲れはある程度取れた。節々の痛みはまだあるけれど。
「シャワーを浴びて着替えてきますね。さすがに裸のままではまずいですから」
「う、うん……」
僕が裸だからなのか、有紗さんはずっと顔が赤いぞ。このままだと熱中症で倒れるんじゃないか? まさか……僕が寝ている間に変なことをしていたりして。裸を眺めていたとか。この様子ではあり得そうな気がする。
でも、まあいいか。そのことについては触れないでおこう。美来が嬉しそうな笑みを見せているから。
「美来、すまないけど、僕がシャワーで汗を流している間に、コーヒーを淹れておいてくれるかな。ブラックのアイスコーヒーをお願いできる?」
「分かりました!」
「うん、ありがとう。じゃあ、よろしくね」
僕はベッドの引き出しから適当な下着や衣服を引っ張り出して、素早く脱衣所まで向かう。
浴室でシャワーを浴びて汗を流す。寝汗は掻くこともあるけれど、服も脱いでしまうことは今日が初めてだ。美来と一緒に寝たからかな。それで、起きたときに暑くて服を脱ぎたいようにしていた僕の服を脱がせた……とか。美来ならあり得そうだ。そのときに僕の色々な部分を見てしまって、有紗さんは顔を赤くしていたのかも。
汗を流し終わった僕は、部屋着を着て部屋へと戻る。
「智也さん、アイスコーヒーです」
「ありがとう、美来」
美来の淹れてくれたアイスコーヒーを一口飲む。
「うん、美味しいね」
「ふふっ、良かったです。夫に美味しいコーヒーを淹れるのが妻の役目ですから」
「……そういうものなのかな?」
コーヒーを淹れてくれることはともかく、メイド服を着ている奥さんというのは結構珍しいんじゃないかと思う。
コーヒーを飲みながら2人のことを見ると、有紗さんの後ろに大きなバッグが見える。
「そういえば、有紗さん。大きなバッグを持ってきてどうしたんですか?」
「ここに置いてあった服を家に持って帰ろうと思って。智也君と美来ちゃんがこういう関係になったし、いつまでも智也君の家にあたしの服があったらまずいよ」
「そうですか……」
「私は別に置いたままでもいいと言ったんですけどね」
美来は有紗さんと3人で一緒に過ごしたいと言っていたからな。それでも、有紗さんはいつまでも僕の家に自分のものを置いておけないと思ったのだろう。ここは僕と美来の空間だと思っているのかも。
「じゃあ、これからもたまに遊びに来てもいいかな。泊まっちゃうときもあるかもしれないけれど。美来ちゃんからは許可はもらっているから」
「それなら、僕はかまわないですよ」
「うん、ありがとう」
何だかんだで、今後も3人でこうした時間を過ごすことになりそうだ。頻度は減るかもしれないけれど、無くならないことは嬉しい。
「話は変わるけれど、智也君はニュース見た? 諸澄君の名前は伏せられているけれど、黒幕も逮捕されたことをしっかりと伝えているから。智也君が無実であることをまた伝えることができた」
「そうだったんですか。今まで寝ていたので知りませんでしたね。事実をきちんと報道されたのは良かったです」
まあ、これで僕が無実だと思ってくれる人が多くなるだろう。
黒幕が諸澄君であることはテレビや新聞では報じられないだろうから、SNSなどを中心に広がっていくんだろうな。起訴されたり、裁判が行なわれたりしたら、その度に彼の名前がネット上に出てきてしまうことだろう。
「このことで、智也君の懲戒解雇の撤回が決まればいいけど」
「まあ、そうですね。以前も言いましたが、結構大きく報道されて会社側にも影響を与えてしまったので、どのような結果になっても会社の判断に任せたいと思います」
「……そう。また、智也君と一緒に仕事がしたいね。うちのチームのメンバーみんながそう思っているよ」
「近くにいる人がそう言ってくれるのは嬉しいことです」
「もし、復帰したらそのときはみんなで呑みましょう。復帰祝いで。智也君の分はチームリーダーに払わせるから」
「ははっ、そうですか」
そういう名目での呑み会なら行こう。今の現場にいるメンバーだけなら、ゆっくりとお酒が呑めるだろうし。
できれば、復帰したいな。いずれは美来と一緒に生活をしていくし、彼女のことを守っていくためにも。
「どうしたんですか? 智也さん。私の顔をじっと見て……」
「……将来の僕の妻は、メイド服がとてもよく似合っていて可愛いなって」
「もう、智也さんったら」
そう、今のような美来の笑顔を守っていかないと。自身が受けたいじめのことを話してくれたときや、逮捕された僕と面会しに来てくれたときのような、悲しい表情になってしまうことは二度とさせたくない。
「さっそく、あたしの前で幸せな夫婦の感じを見せつけてくれちゃって。絶対に幸せになりなさいよね。応援してる」
そう言うと、有紗さんはコーヒーを飲む。コーヒーの苦味のおかげなのか、恥ずかしそうな様子はすっかりとなくなって、いつもの爽やかな笑みに戻っている。
「10年越しの恋が成就したんです。智也さんとの愛はちょっとのことでは崩れません!」
「それに、再会してからも色々ありましたからね」
いじめのこともあって、ストーカーもあって、さらには僕の逮捕もあって。多くの方の協力があったからこそだけれど、これらのことを乗り越えることができたんだから、美来の言うとおり……ちょっとのことでは僕と美来の関係は崩れないだろう。きっと。




