21 その石に想いを込めて
いつの間にか、自分よりだいぶ小さくなってしまった彼女の華奢な肩が震えていた。
エリの長いプラチナブロンドの髪をゆっくりと梳きながら、俺は穏やかな声で問いかけた。
「俺が帰ってきたらジェニー嬢の手に堕ちると思った?」
彼女は質問には答えなかった。
けど、俺の服の掴む力が強くなった。それだけで十分分かった。
「1人で全部、乗り切るつもりだったの?」
その言葉にエリはパッと顔を上げる。彼女の左耳に付いた俺の瞳の色をしたサファイアが大きく揺れた。
「だって、だって。アルはリーゼンバイスに居たままの方が安全だったもの!」
「エリにとっての俺は、守るべき存在?」
エリは少し赤くなった目を見開いて、首を緩く横に振る。まるで迷子になってしまった、幼い少女のように拙い動きで。
そして、ポツリと本音をこぼした。
「怖かった。アルの事は信じてたけど、怖かったの」
俺の服を掴むエリの指先が小刻みに震える。
俺は宥めるように背中をトントンと優しく叩いた。
「王城で仲良しだった人達が、どんどん私から離れて行くの。私は何もしていないのに。私が何もしていないって知っててくれて、私を励ましてくれた人達も1人ずついなくなってしまった。皆、私が悪いって、ジェニー嬢を虐めるなって、口を揃えて言って、私を蔑むような目で見て」
ずっと、ずっと溜め込んできたのだろう。
ベルンハルト王国の、祖国で起きてる事を知らなかった俺は、ただただ自分の無力さを噛み締めた。
「それ位なら、まだ耐えられた。でも、ジェニー嬢と貴方のお友達がお喋りしている所を偶然聞いてしまったの」
エリはそして、自嘲的な笑みを浮かべる。
それはとても綺麗で皮肉気で、幼さが完全に抜けた、大人の女の顔をしていた。
「アルから沢山お手紙貰うの。あの人、態度からはあまり分からないけど、文章では愛してるってちゃんと書いてくれるのよ。ふふっ、いつも恥ずかしくって顔が熱くなっちゃうんだけどね、愛されてるなあって実感するの。ーーって。私、そんな言葉に惑わされるなんて、馬鹿でしょう?」
「いや……、そんなことはない」
だって、あそこはもう狂ってしまっているから。
1人、また1人と周りの人がいなくなってしまって、その全てがジェニー嬢の為に動いてる世界の中にひとりぼっちで放り出されてしまったら。
何を信じて、何に縋ればいい?
「アルの事は信じていたけれど、アルの事をあの子が愛称で呼んだのがショックだったの。私の所に手紙は1通も届かなかったし」
「それは、すまない。俺は結構書いたんだけど」
「ええ。きっと、全部あの子の元へ行ってたんだわ」
諦めたように微苦笑して、彼女はふうと溜め息をつく。
「分かってる?私と婚約破棄した上に殺したとなったら、リーゼンバイスが黙ってないわよ」
「分かってる」
まだ実行すらされていなかった男爵令嬢殺害計画。
婚約破棄の理由にはなるかもしれないが、力を持たない未成年の公爵令嬢を王命まで出して死刑にする程の事かと問われれば、微妙な所だ。
それにエリの一族であるエリアとその母親にはほぼお咎めなし。それならば、公爵令嬢は修道院送りが妥当である。
内情を知らないリーゼンバイス王国からしたら、リーゼンバイスの血を引く公爵令嬢だけ処刑なんて面白くないだろう。
「なら、貴方はやっぱりリーゼンバイスに居ておくべきだったわ。だって、その方が貴方がこの件とは無関係だと言えるじゃない。あの女の所為で狂ってるの。ここはおかしくなってしまってるの。普通じゃない。段々と、皆変わってしまった。常識が、成り立っていないのよ……!」
きっと彼女は、彼女なりの最善を尽くそうとしたのだろう。
ここに居たら、俺も狂うと思って。
もしかしたら、エリは俺が留学している間中に、この狂った世界を終わらせようとしていたのかもしれない。
あの女を殺して。
きっとエリもあの世界の影響を受けて、狂いかけていたのかもしれない。
眉をぎゅっと寄せた彼女に、俺は静かに告げた。
「うん。でも俺は、ベルンハルト王国の王太子だ。この地ではない所に骨を埋める事は出来ない。俺は、逃げられないんだよ」
そうして安心させるように、エリに微笑みかける。
心は不思議な程に、凪いでいた。
「俺が逃げてしまったら、誰が立ち向かう?誰が民衆を守る?誰がこの国を動かす?ーーだから、俺は最後の最後まで、諦めずにこの国の未来を切り拓いていかなければならない」
あの世界の狂気を取り払うまで。
「エリは知っていた筈だろう?俺の命が、俺だけのものじゃないという事を」
それだけ俺の中に流れる血と俺の命は価値のあるものだから。
行けないんだ。どんなに裸足で逃げ出したくても、俺は永遠にベルンハルト王国に縛られ続けるから。
この王国の国民の生活の為に、この王国を俺達の代で終わらせてはいけない。
「……酷い人」
俯いたエリに、ごめんと言葉を返した。
確かに俺は酷い奴だ。
エリの俺を助けたい想いを、踏み躙ってまでここにいる。
婚約破棄も全部、俺の考えた作戦だ。
ーー全ては、俺に何かあっても、エリが安全に暮らせるようにする為の。
手段は違えど、多分俺達は同じ事をしているのだろうと思う。
エリがその想いを俺に向けてくれているだけで、十分だ。
いつもエリの存在が、俺の原動力になっているから。
そっと彼女の両頬を軽く撫でてから、緩く摘む。
少しの間柔らかい彼女の頬を遊んでいたが、抗議するような視線を受けてパッと離す。
彼女の瞳に涙はもう残っていない。
安堵しながら、彼女と真っ向から視線を合わせた。
そろそろ、時間か。
「国境を越えてリーゼンバイス王国に向かって。通行証と護衛は俺が用意しておいた。前もって王妃様にはエリを匿ってもらえるように連絡してある。上手く取り計らってくれると返事があった」
自分自身が千切られるような痛みだった。
彼女の手を握ったまま、ずっと離したくはなかった。
でも、彼女の泣き顔も辛そうな顔も見たくなかった。
例え2度と会えなくなっても、彼女には幸せでいて欲しいと願ってる。
きっとこれは、俺の自己犠牲の上に成り立つ自己満足なんだろう。
「……アルは、全部終わったら、ちゃんと迎えに来てくれる?」
「ああ」
「嘘だ!」
「なんで疑うのさ……」
脱力した俺に彼女は鋭く指摘した。
「だって、今のアルは死ぬ前のお母様みたいな目をしてるもの!」
最悪の覚悟はしていた。
ここで命を落とすかもしれないと。
命を落とさなくとも、俺が俺じゃなくなってしまうかもという覚悟もあった。
まさかそれを、見透かされるなんて。
「……絶対に、迎えに行くよ」
出来ないかもしれない約束をするのは、正直避けていた。
王太子だから、約束は全て守らなければならなかったから、守れる約束だけしてきた。
守れないかもしれない約束は、初めてだなと内心苦笑する。
「絶対よ。忘れないで。貴方だけが、私自身を必要としてくれたから私は私で居られるのよ」
「俺も……、俺も同じだよ」
仕組まれた出会いだった。計算だらけの婚約だった。
でも、俺達はきっとお互いがお互いでなければならなかったのだろう。
俺と彼女が同じ想いを抱いている事に、仄暗い喜びが心を満たした。
彼女が俺を必要としてくれている安心感に、浸っていたかった。
この先へ続く未来の中で、エリの隣に俺以外の誰かが立つなんて考えたくもない。
エリが他の男と微笑み合ってる姿も見たくない。
この後ろ暗い想いも何もかも全て合わせて、この気持ちを表すのに1番近い言葉は。
「エリ、愛してる」
彼女と俺の独占欲を示すように、彼女の左耳で煌めく青色のサファイアに触れた。
逆に彼女は、俺の左耳に触れる。
「絶対に外さないでね。無くしちゃ駄目よ」
そうして、嘗ての言葉をそっくりなぞった。
「私も愛してるわ」
彼女はとびきりの笑顔を見せて、俺の頬にキスを1つ落とした。
難産だった……。




