【三題噺】魔女、ディストピア恍惚症候群
お題 黒色 魔女 魅惑的な高校
友人たちの言う魅惑の高校生活は隣の青い芝である。けれども僕は知ってしまった。我らの黒く腐った沼地には踏み入れるものを掴んで離さぬ魔力があると。
思い描いた理想と現実の差異から落胆が生まれる。こう言ったのは隣の席の岡田だったが、岡田は次の日牛蛙になって、その次の日ぴょんぴょん跳ねて通学している途中、国道でトラックに轢殺された。魔女の怒りに触れたからである。
岡田の轢かれた交差点を通る度、僕は歩きながらほんの少し手を合わせる。その合掌は冥福を祈るためのものではない。どちらかと言えば、「何か、スマン」というとき手を合わせるのと似ている。僕が彼に何を申し訳なく思っているのか、それはわからない。
魔女の話をしようと思う。けれどもその前に、僕の入学した高校について一言二言の説明がいるだろう。僕の通う高校は私立で、海辺にある。男女共学であるが、僕のクラスに女子はいない。教師と男子と魔女がいるだけである。従って、教室の主な色彩の配分は黒色である。黒色の生活に身を置く僕から言わせれば、鈍色や藍色やこげ茶色や灰色だってまだ色があるだけ俄然マシである。
高校に入学してまもない時期から安井が頻繁に僕の住む部屋を訪れるようになった。安井は同じ中学で、僕の通う私立と同じ地区にある公立高校へ進学していた。
安井は中学の時の部活が同じで、共に灰色の中学時代を駆け抜けた友であったが、会話から彼の高校生活に仄かながら女子という朱の色が混じり始めたのを感じ取り、僕は少なからず嫉妬を禁じ得なかった。彼の学校には自動販売機があり、週に二度の購買があり、文化祭さえあるのだという。
僕はプライドから己が苦境を彼にしらしめることをしないことにした。だから表面上は全然それらに対して憧れを抱いていない風を巧妙に装った。
「別に高校に自販機があったとしても、俺は利用しないね。金の無駄だ。日本の水道水は飲めるんだ。その事実を鑑みず己の体裁ばかりに気を取られて無駄な浪費をする事こそ愚かしい。それに焼きそばを食べたり下らない高校生の自慰そのものの聞くに堪えない楽器の演奏を聞くのが文化だとは笑わせる」
そう言うと安井は僕を憐れみの目で見た。
「お前は変わらないね。いや、寧ろ悪くなっている」
この話で僕と彼は袂を分かつかのように思われたが、それからも安井はちょくちょく僕の部屋を訪れた。
不思議なことに、人間というのは自分より不利な境遇にいる人間に対しては何を言われようと腹を立てないものだ。
まったく他人の不幸は蜜のように甘いらしい。
あるとき僕は魔女と話したことがある。
それは科学の授業があるときだった。実験室まで来てから、筆箱を忘れていたことに気がついて教室に引き返したとき、魔女が廊下に座っていた。
そのことは今でも克明に思い起こすことができた。
廊下の窓から緑づいた桜の木に遮られて、窓からの光が斑に踊るように彼女に落ちていた。金色に照らされた長く艶やかな黒髪に彼女の横顔は隠されている。
その神秘的な光景に、僕は自分がどこにいるのかを一瞬忘れかけたほどだった。周りの教室からは不思議と音が消えて、ただ窓の外で風が桜の葉を揺らすさざめきだけが妙にはっきりと聞こえた。
彼女は行儀悪く足を寝かせながら、一生懸命に手を動かしていた。どうやらそれは折り紙を作っているようだった。
彼女があまり一生懸命だったので、僕は興味を惹かれて、つい彼女に声をかけた。
「それは何を作っているんだ」
彼女が驚いたふうにして、こちらを振り向いた。僕はどきりとした。
それから魔女は手招きした。近づいて見ると、彼女が折り紙で折っていたものが何なのかわかった。それは蛙だった。彼女の足元に色とりどりの色紙で作られた折り紙の蛙が何匹も座っている。それから魔女が指をタクトのように振るうと、蛙達は可愛らしく飛び跳ねて、窓の外に飛んでいった。
「明日はあなたの前の席の人を蛙にするわ」
ふと急に思いついたような様子で、彼女が言った。
「なんで」
「蛙占いの結果ですので」
冗談めかして彼女は笑った。
次の日、前の席の石坂は学校に来なかった。恐らく蛙にされたんだろう。
魔女の気まぐれで蛙にされたことをクラスメイトは恐怖した。けれど不思議なことに、誰も隣の青い芝を羨ましがらない。
我らが黒い沼地にはそれ以上に人を掴んで離さぬ魔力がある。
まったく他人の不幸は蜜のように甘い。