第七話的なもの
「改めて見ると戦力差は絶望的だな」
たった一つの灯で紙の資料を目に映しながら呟いた。
勝てない数ではないが、勝てそうにない数だ。矛盾しているようだが、相手の戦力を最低限と考えるならギリギリで勝てるというだけで、実際勝てる見込みなど皆無に等しい。
無理難題にも程がある。それでも逃げ出さないのは恩があるからか、ただの女好きだからか、そんなことを考えながら背を伸ばした。
どうしてこうなったのか、何故か隣で寝ている少女の髪を眺めながら、ふっと考えた。
ただ、ただ楽をしたかっただけだった。実家には仲の悪い兄弟だらけで、随分と居心地が悪かったから、自前の知識だけで飛び出したはずなのに、こんな厄介事に首を突っ込んでいるのだから、溜息も止まらなくなって当然だ。
しかし、実家から飛び出してみても、別にいいことなどなかった。色々なところを転々として、結局こうして面倒なことに巻き込まれている。
がりがりと頭を掻き毟って、寝ている少女を起こさないように部屋の外へと音も立てずに出て行く。
「どうするかね……」
どうしようもない、というのが本音だった。これ以上の戦力増強は見込めないのに、下手をするとまだ相手の戦力は増える可能性がある。
今回ばかりは、あのお嬢様のところにいた時の"どうにかなる"、はどうやっても通用しないのは明白だ。むしろ、あのお嬢様が同じ数を指揮するのならば、対処は簡単だったのに。
「公孫賛、劉備、孫策、曹操……更には天の御遣いときたか」
袁術と袁紹は問題ない。しかし、その下にいる者、集まっている人間たちが問題だった。
「白馬長史に劉と御遣い、虎の仔に"アイツ"か」
始まる前から終わりそうな組み合わせだ。唯一の救いが虎の仔がまだ袁術の下だということくらいか。本当にそれぐらいしか救いが見つからない辺りが問題なわけだが。
全てが袁紹の軍ならいい、楽だ。今回の進軍の中に袁紹がいないならいい、それも楽だ。しかし、その楽が二つ合わさると兵力差としても、将の数としてもこちらの勝てる要素が全て摘まれてしまう。
(いや―――)
勝てるには勝てる。厳密に言えば、戦には負けるがこちらの目的を果たすこと自体は容易い。実際、最終的にはその目的だけ果たされることになるはずだ。
「寝ないの……?アンタ、明日出立でしょ?」
「ん?あぁ、悪い、もしかして起こしたか?まぁ、着いてからも休めるから、大丈夫だ」
いつの間に目を覚ましたのか、先程まで確かに隣で寝ていた少女が目を擦りながら司馬懿を見つめていた。
「珍しいじゃない、こんな時間まで真面目に机と向かい合っているなんて」
「おいおい、俺だってやるときはやるんだぞ」
「……ふーん、そう」
「まるで信じてない、みたいな返事だな」
信じていないのか―――?信じているに決まっている。そんなこと、とっくの昔に知っている。いつも飄々としているくせに、こうして机に向かっている時が多いことくらい。それに、ここ最近はその時間が増えていることも。
原因はわかっている。既に決まってしまっている戦のせいだ。
―――董卓が不正に洛陽を占拠し、悪政を敷いている。
中身を知っている人間からすれば、なんと馬鹿な話だろうか。不正などしていないし、占拠もしていない。無論のこと悪政もしいていない、どころか民からの評判は良い方だ。それなのに、戦は起こる。
「嫌な世界だ。働きたくないのに」
そう愚痴を言う割には、竹簡から視線を外すことはなく、顎に手を当てて思考を巡らせているのが、賈駆から見てもわかった。
昼間もそうだった。何をしていても、どこか別のことを考えているような、そんな様子を見せていた。しかも、よく注意していなければわからない程度の差異を持って、思考を飛ばしていたと思う。
賈駆も、司馬懿のその様子に気づいたのは、ほんの僅かな違和感からだった。いつもより少しだけ返事が遅い。いつもよりも少しだけ軽口が少ない。そんな僅かな違いから、漸く予測をたてることが出来た。
「本当、嫌な世界ね」
今日だけ、隣にいない親友のことを想う。
本当なら、こんな所になんていたくない。ただ、彼女と一緒に平和に暮らしていたかっただけだったのに。
元々、彼女は戦いに向いていない。単純な腕力が足りない、というのもそうだが、根本的に戦自体に向いていないのだ。人の上に立つには、人の生き死にに関わるには、董卓は優しすぎる。
こんな時代でなければ、それは美点だったはずだ。否、今の時代でもそれは美点ではあるが、それは同時に欠点にもなってしまっている。過ぎた優しさは自分だけでなく、周りも滅ぼしかねい。
(嫌な世界だ)
準備はしてきた。しかし、それは戦わない為の準備ではなく、戦うための準備。結局彼女を危険に晒してしまう。
「俺もな、戦いは嫌いだよ。兵法だって嫌いだ。戦に関わること自体好きになれない」
それはまるで、幼子のような突然の独白だった。司馬懿としても、特に理由があったわけでもなく、賈駆に向けた言葉でもなかった。
「孫氏だって何度踏みつぶしたか覚えてない。それでも、気づけば俺はいつでも戦のことばかり、勝つことばかり考えてる」
それが賈駆にもわかったため、一切の相槌も打たず、ただ目の前の男を見つめた。
後ろからのため、表情は確認出来ず、その顔がどのような形を作っているのか、想像することしか出来ない。
「そらそうだ。死にたくないからな。生きるためには勝たなきゃならない。平和なんて幻想的な時に生まれていれば違ったんだろう。でもこの時代だ、生きる為には戦わなきゃならない。生かすためには勝たなきゃならない。しなければならないことばっかだ」
小さい頃から読んできた書物も、知識もそればかりだった。司馬家を如何にして生かすか、どのようにすれば自分が生きていけるのかを考え続けた。その結果が、今の立場だ。
「袁紹の所だったら、俺だけでもう逃げてるくらいだ」
怖くて怖くて堪らない―――如何にして相手を効率良く殺すかを考えてしまう自分が。
きっと、それだけを考え続けるようになったのなら、司馬懿という存在は死ぬのだろう。
「それでも、俺はちょっと賭けたくなる戦を見つけた。初めてだ」
自分が死んでもいいと思えるのは。彼女達のためなら死ねる―――そんな格好の良いことを思っているわけではない。ただ、自分を賭けるくらいならできるかなと、そう思えただけだ。
生きたいが、死んでもいい。中途半端な覚悟だと、きっと将も兵も笑うだろう。だが、そう思える事自体が初めての経験なのだから仕方ない。
「まぁ、見とけよ。ちょっとくらいは、見直すことの出来る戦運びをしてみせるさ」
そうして、振り向いたその顔は、少しだけ笑っていて、少しだけ格好良いと見直せる物だった―――と気がした。
※
「間違いなく、あの男は天賦の才を持っている」
少女が確信を持った声で、自分の前に立つ将達へと静かに告げた。
「それを理解していない人間は、この中にはいないと思うけれど、あの男の才は本物。錆びた鞘の中に隠されているソレは、鎧を意図も簡単に貫く」
思い浮かぶのは、常にあの男のことばかり。斥候から男の所在を聞いてから、その影がチラついて仕方がない。
幼い頃に、何度も相対した。喧嘩では常に自分が上だった。しかし、学術では一度も勝てたことがない難敵。
昔から変わっていたが、それでも自分が負けたと認められる母以外の相手だった。
「名声は手に入れるわ。そして、名声と共にあの男を、私の下に引きずって来なさい」