第五話的なもの
空に上がった月は、ただ男と死体を照らしていた。
男は何も言わず、死体は何も言えず、月はただ高くから見下ろすだけで、そこで音を発する物はなかった。
鎮圧の名目で殺された黄色の山。そのそれぞれを見下ろし、見下し、男は退屈そうに流れ、すっかり凝固した赤へと手を付けた。
それは男の手を濡らすことはなく、ただ少しだけ柔らかい氷のような感触だけを男へと与える。
異臭と哀愁を放つ死体は、誰に看取られることもなく、地面へと帰り、誰に覚えられるわけでもなく、姿を消す。今までもそうだったし、きっとこれからはその機会がもっと増える。
「戦乱、動乱。化かし合いに殺し合い。好きにやってくれて構わないけどな」
ばしゃりばしゃりと、荒野には似合わない音がこだまする。それを行なっているのはたった一人残った男であり、その行為を行われているのは黄色の塊だった。
「殺された人間は自らの害など考えないさ。でも、だ。殺した人間はその行為で発生した害を考えるべきだ」
ぬるりと滑った桶を死体の山へと放り投げるその姿に、死者への弔いの感情など含まれていない。ただ、作業を終えたという疲労感を表情へと浮かべるだけで、それ以外の感情を見受けることは出来なかった。
否、少しはそういった表情も浮かべていたのかもしれないが、男の手に握られる僅かな松明に照らされる男の顔を、読み取ることは出来なかった。
「燃えろ死者達。死んだのならば人はただの物だ、肉塊だ。恨んでもいい、お前らに恨むということが出来るのなら」
そうして、男の手から投げられた松明は勢い良く燃え上がり、辺りを明るく照らす。それと同時に上がる肉の焦げる酷い臭いを吸い込みながらも、男はそれから目を離すことも、鼻を覆うこともなかった。
それを行ったのは己であり、それを行われたのが彼らなのだから、その行為で作られた害を、男は自ら受け止めた。
別に、哀愁を感じたわけでも、死体如きに同情をしたわけでもない。ただ、それを行ったのは己だからという理由だけで、男はその火が収まるまで、肉の焦げる姿を眺め続けていた。
※
「俺は大反対だね」
眠そうに左目を擦りながら、それでも、はっきりと聞こえるようにそう言ったのは司馬懿だった。
「感情論とかそういうわけじゃない。別に董卓ちゃんが帝様に持っていかれるから大反対!ってわけじゃないぞ。ただ、割に合わないって意味だ」
ふざけたように言っているが、その言葉は真実であり、本音であった。
出来れば、有無を言わさずに"こんな"馬鹿な話は叩き返してやりたい所なのだが、それが出来ない理由も存在している。
「この時期にこの要請。別に賊の討伐に反対するわけじゃない。でも、それに付随してくる条件が最低で最悪だ」
そんな司馬懿の言葉を、机を挟むようにして聞くのは、現在その主である董卓と、同僚の賈駆だ。董卓はアワアワと狼狽して、賈駆はウンウンと頷いていた。
「信頼されてる、確かにそうだ。董卓ちゃんは信用に足る領主だろうさ。でも、それとこれとは話が違う」
「そうよ。洛陽への上洛?ありえないわ」
司馬懿の話を賈駆が引き継げば、董卓が泣きそうな表情へと変わった。それもそのはずだ。絶対に賛成してくれると思っていた二人が揃えて首を振ったのだから。
「人助け帝助け、大いに結構、董卓ちゃんらしいからな。だけども、だ。後者をやるべきは董卓ちゃんじゃない。それこそ、袁紹やら袁術にやらせればいい」
本心から言っているのはわかった。普段は飄々とふざけているのが、こういう時、特に自分や賈駆が行軍などに関わる時には意地悪などで反対することはなかった。
それがわかっているからこそ、董卓としても言い返すことが出来なかった。確かに、自分は二人のように口が達者ではないという理由もあったが、それ以上に二人が真剣な表情で反対をしてきていたからだ。
(愛されてるなぁ……)
故に、反対されながらもそんなことを考えてしまう。本気で、本当に心配してくれることがわかるからこそ、そう思わずにはいられなかった。
「ボクは断固反対よ!こんなことに月が関わる必要はない!この男の隣にいるよりも命の危険があるの!」
その言い方は失礼じゃないかな、などと思いながら司馬懿に視線を向けてみたが、素知らぬ顔で視線をまだ暗い外へと移していた。
「とにかく、ボクは反対だから!さっきこいつが言ったようにボク達が動かなくても袁紹が動くだろうから、ボク達はここを治めることに意識を向けてればいいの!」
その通りだ、と理解することは簡単だった。賈駆や司馬懿が言うのなら、きっと袁紹は都へと自ら出向くのだろう。だが、納得することは出来ずにいた。
袁紹に任せたほうがきっと確実だ。自分の所よりも軍の人数だって多い。それは董卓自信わかっている。しかし、それを差し置いてでも、力になれるのなら洛陽に行ってもいいと思っていた。
理由は単純なもので、帝が自分をあてににしてくれたという喜びだった。
袁紹や袁術にも同じような手紙を送っているのかも知れない。しかし、それを自分にも送ってきてくれているという歓喜が存在した。
数回会った程度の間柄でしかないが、それでもこんな自分を頼ってくれているのだから、力になりたいと素直に思っているが、二人の言うことが正しいためにそんなことを言う勇気を持つことは出来ずに、口を閉ざすしかなかった。
(助けたい……でも……)
上洛すれば助けられる。しかし、二人の言う危険が確実に伴ってしまうし、この街の人々を置いていってしまうことにもなる。
勿論、そうなれば後任を立てることになるのだろうけれど、それはそれで不安が消えることはない。赴くことになれば、それまでこの街を、州を支えてくれていた賈駆もいなくなってしまう。
(司馬懿さんも……)
最近はとても頑張ってくれていることを知っている。賈駆が頼る所をたまに見ることを考えると、最早、いなければ困る存在となっていることも想像するのは容易かった。
二人を置いていくか?と問われればそれは出来ないと断言が出来る。賈駆と司馬懿の力を借りない自分がどれほどわい小な存在だと知っているのだから、もしも都へ向かうと決めたのなら、二人の協力は不可欠だ。しかし、その二人の意見はもう先ほどから何度も言われているのだから、実質的にそれをこなすことはもう出来ない。
「董卓ちゃんはどうしたい?」
しかし、それは思わぬ人物から機会を与えられた。いつの間にか俯いた顔を上げてみれば、少しだけ優しげな笑みを浮かべた司馬懿の端正な顔が目に入った。
「ちょっと!」
「いいじゃないか。俺らの意見は言ったけど、董卓ちゃんの意見は聞いてないだろ?第一、俺らは何だ?」
その笑みを崩さないまま、司馬懿は賈駆の言葉を遮った。
「俺らはあくまでも部下だろ?部下の意見を聞くのは上司。上司の命令を聞くのが部下なんだ。結局、俺らは董卓ちゃんの意見に従うんだ。友達とか、知り合いとか、幼馴染とかそんなことは関係ない。そこにある関係は上か下か。決定するのは全部、董卓ちゃんの決めることなのさ」
肩を竦めるその姿と言い様に怒鳴り声を上げようと口を開けたが、その正論に開いた口を噤んだ。
その悔しそうな姿にまた笑うように目尻を細めると、だけど、と言葉を続けた。
「この決断には必ず責任が伴う。どんなことになるのか、それとも何もならないのかはわからない。でも、それによって引き起こるかも知れない何かは、董卓ちゃんによって引き起こされたものだ。それだけ理解してほしい」
それは優しく、しかしそれ以上にしっかりと厳格な言霊を秘めた口調だった。場合によっては脅しと言われても否定することは出来ないような、そんな言葉だったがそれでも視線は逸らされることなく、董卓を射抜いていた。
(私は―――)
したいことはわかっている。しかし、それでいいのかと問いかけは止まらなかった。
※
「どうして余計なこと言ったのよ!」
日が上がり、明るくなってきた廊下を歩きながら、司馬懿の隣で賈駆が不満の声を上げた。
「んー?」
「あのままいけば押し切れてたのに!大体アンタね―――」
それに対して欠伸を噛み殺しながら、間の抜けた返事をすれば、更に怒り心頭といった風に朝に見合わない声量を発していく。
それらを全て聞き流すようにして先ほどの董卓を思い出す。
凛とした今まで見ることはなかった表情。覚悟を決めたおどおどしていない態度と口調。それに伴った普段の態度との差異。それらが酷く魅力的に見えた。
(そろそろ頂きたいんだがなぁ……)
隣でひたすら自分を罵倒する少女に視線を移しながら、そんなことを考えて、何かをひらめいたように一度真剣な表情へと変わった。
「大丈夫だよ」
そんな邪な考えを悟られないようにすぐに、いい笑顔を賈駆へと向けて、
「君たちは俺が守るから―――」
キザな台詞を、その体を抱きしめようと腕を伸ばせばその腕の中に―――
「死ね!この色欲魔!!」
「ぐはっ!?」
―――収まるはずもなく、そのいい笑顔へと拳が突き刺さった。
「守るも何もアンタ体力も何もないでしょ!?そもそもアンタが月に余計なことを言わなければよかったのよ!」
「い、痛いッ!悪かった!それは確かに俺が悪かったって!」
「悪かったで済めば警邏の人間はいらないのよ―――!」
「ごめんって!」
腹へと拳を叩きこまれ鈍痛に顔を歪めながらも、これから起こるであろう多くの苦労と、どうやればこの少女を落とせるのかを、その難題へと思いを馳せた。