第二話的なもの
「は?」
それは突然の出来事だった。突然、唐突、いきなり、どう言い換えても変わらないほど、それは急激に訪れた変化であった。
手持ちは稼いだ路銀と最低限必要な水と食料の入った鞄。それを持って司馬懿は城壁の外から門の中を眺めた。
見送りなどいるはずもなく、真上に上がっている太陽にジリジリと急かされながら溜息をつく。そしてその門の扉も音を立てて閉まっていく。
(まぁ、いずれ俺から言い出すつもりだったんだが……)
少しだけ予定が狂ってしまった。
何故こんな状況になってしまったのか、それを問われれば解雇、という一言で表せてしまう。
そもそも、この男自体にも幾つか自身に思い浮かぶ理由はあったので、そこまで驚きはしなかったのだが、まさか通告されたその日に追い出されるとは思ってもみなかった。
だが、過ぎたことをどうこう言っても進展を得る事は出来ず、仕方なしに馬の向きを変える。もはや門は完全に閉まっており、憐れむような視線を向けていた門番の姿も見えない。
何処へ向かおうかなどは、今のところは一切考えていない。が、出来るなら近い場所がいい。今の世だ、あまり遠くにしてしまうと盗賊や野盗に襲われてもおかしくない。
「并州……が近いか」
都を目指して南下して行っても良いのだが、それでは長い旅になりすぎてしまう。ならば事前に得た情報通り、治安が比較的に良く、それでいて近場である并州へ向かうのが最も効率的だ。
幸いなことにそこいら一帯で盗賊などが出たという話も聞かず、道中にいくつかの村があることもわかっている。目指すにはうってつけの目的地だ。
目的地が決まれば、行動も自然と早くなる。馬を一日ほど走らせ続ければ州内に入ることくらいは可能なはずであり、今から急げば日が沈む前に村か何か一夜を明かせる場所も見つかる。
そうして男は振り向くことなく、街を後にした。
※
「あのバカ!どういうつもりなのよ!」
朝議にも出てくることなく、昼過ぎになっても現れない男に対して少女は悪態をついた。
実のところ、男が朝議に出てこないのは常であり、おかしな所はなかった。朝議に出ないこと自体問題ではあるが、それ以上に少女を怒らせる理由となっているのは昼過ぎになっても姿を現さない、という点であった。
「約束もすっぽかして!だから男は鳥頭のグズなのよ!」
少女の怒りを買っているのはまさにそれであった。一昨日したばかりの約束を忘れるような無責任な男に酷く苛立ち、廊下をずんずんと歩き抜けていく。
「会議も出ない!約束も破る!仕事は……それなりにやってたけどそういう話じゃないのよ!」
途中すれ違う侍女たちの怪訝な目を受けながらも、その口から罵声は止むことなく溢れてきていた。
「本当に鳥頭で無礼よね!せっかく私が食事に誘ってあげてるのにそれを無下にするなんて、本当に人間なのかしら!いいえ、間違い無く違うわね!アレは鶏が化けてるに違いないわ!」
そうしている間についたのは男の部屋だ。
扉は閉まっているが、鍵はかかっていないらしく、薄く隙間が空いている。中から僅かだが物音もするので中に誰かいるのは確かのようだ。
「ちょっと仲達!アンタね―――」
勢い良く扉を開け放ち、中にいるはずのだらしのない男を怒鳴りつけようとして、止まった。
「……どういうこと?」
中には数人の女官たちがおり、各々がその部屋をまるで改装したかのような状態に変貌していた。
男の寝ていた寝具は取り払われ、男の持っていた蔵書の類も棚に収まっていない。その代わりとして新しい寝具と、空になった棚が部屋を圧迫している。
そしてその男の部屋だった部屋に男の姿はなく、むしろ男がいたという痕跡すら残っていなかった。
「ちょっとどういうことなの!?」
近くにいた女官の一人に詰め寄り、問いただしてみれば、それは唖然とするような内容であった。
今朝、司馬仲達には解雇の命が出された。
部屋などは改装をし、次の文官に明け渡すことになった。
簡潔に書けばその二つだけだったが、実際には即座に城から退去など様々な条件が付随されており、少女からしてみれば当然納得出来る話ではなかった。
「馬鹿なんじゃないの!」
男に、ではなく、現在自分が利用させてもらっている主に悪態をついた。
(どこまで考えなしなのよ!)
それは男のためではなく、一重にあの主が男の有用性に対して少し足りとも理解していなかった苛立ちから発せられるものであった。
あの男は確かに実務を疎かにすることがあった。だが、必要なことはこなし、害悪となるところを改善、改案出来るだけの能力を誇っていたことを知っている。
田豊が何故あの男を頼ることが多かったのか。それはあの男の案が田豊自身の考えよりも優れており、よりうまくこの州を統治し、経済を回すことが出来たからに他ならない。
(田豊は……)
己が今の今まで知らなかったくらいなのだから、きっとあの老人も知らないのだろう。全てはアレの独断で行われたと考えて間違いではないはずだ。
「潮時、かしらね」
呟くのは悪態ではなく、既に見限ったような言葉であった。
十二分に中央との繋がりも確保し、当初の目的は果たせていた。後は仕えるべき君主を探し出すだけ、となっていたのでここにいる意味はなかった。
だが、それでも自分がここにいたのはあの男をなんとか連れ出すという理由もあったためだ。
あの男は自分が間違いないと確信を持てるほどに優秀だ。私情などを挟めば、男が優秀なわけがない、と言いたいところだが、数年間一緒に働いており、それを間近で見ていれば認めざるを得ない。
出来ることなら、そう、出来ることならあの男を手土産としてあの方のところへ連れていきたかった、というのが本音であった。
(それなのに!)
計画は全ておしゃかになってしまった。なんのためにあんな変態色欲男と一緒にいたのかわからない。後ろ髪を掻きながら、原因となった男と高笑いをする金色に舌打ちをした。
そんな心を落ち着けるために、ずんずんと床を数回鳴らして、自室へと向かう。とりあえず考えるべきことは決まっている。
「あの男がどこに行ったのか確認しないと……」
既に大陸中に不穏な気配が漂っているのは身に染みて―――ではなく、今までの反乱や一揆などでわかっている。そんな世の中になれば、あの男の力は大いに役に立つ。
「大乱……」
そう遠くない未来起こる光景が、荀或の脳裏には鮮明に映っていた。