第一話:暴かれた真実
今年16歳で高校2年生になった桃香と、彼女の母親で48歳の紫苑は、彼女の高校の修学旅行が西欧圏の国々の幾つかの都市を巡るという行程に決まったので、未だに旅券と云う物を所持していなかった彼女の為に、夏休みという絶好の機会を活用し、パスポートを申請するのに必要となる書類を調達しに、住民票がある居住区の区役所へ訪れた。
当然の事ながら、国際的に通用する確固たる身分を証明する物である以上、パスポートの申請には、住所だけが記載された住民票の他に、本籍地から性別や生年月日、果ては血縁関係から結婚歴に至るまで、その人の来歴が細かく記述された戸籍謄本と云う物を役所から取り寄せなければならない。
無論、日本国籍を持つ歴とした日本人である以上、桃香だって戸籍謄本くらいは持っているし、必要があれば何時でも手に入れて見る事も可能だ。そして、こういう時位しか目を通さない代物である故に、たとえある程度は自分で把握しているにせよ、アイデンティティの再認識という意味で彼女が自分の戸籍謄本の記載内容に純粋に興味を持ったのも仕方がない事だった。
時に桃香は、仲の良い友人から、戸籍謄本の本籍地は自分の好きな所へ勝手に変えられて、そして大抵はその人の両親によって勝手に決められていると聞き、一体両親は自分の本籍地を何処だと申請したのか気になっていたのである。
ところが、紫苑は窓口の係の人から住民票の写しと戸籍謄本を受け取ると、目にも留まらぬ早業でそれらを二つ折りにし、桃香に見えないように黒色のクリアフォルダーに入れてハンドバッグの中へ突っ込んでしまった。
桃香は、そんな母親の不審な行動に心の奥底でモヤモヤとした、まるで凝りの如く据わりの悪い不鮮明で不定形な感情を抱きつつも、楽しみにしていただけに灰掛かった憂いに満ちた深い溜息を吐いてがっくりと肩を落とした。
そして一方、鮮やかな手捌きで書類を鞄へ仕舞い込んだ紫苑は、桃香が本当は自分達の実の子供ではなく、彼女の本当の両親が既に不帰の客である事がはっきりと明記された戸籍謄本の内容を当の本人に知られなかった事に、娘とは対照的に赤味が差した温かい一息を吐いた。
そうして、一先ず秘密は無事に守られたかのように思われた。
事態が急変したのは、数日後、最寄りの外務省事務所の申請窓口へ必要書類を提出する時だった。
紫苑自身は十分注意した心算ではあったが、申請書に戸籍謄本の本籍地等を記入する時、うっかり桃香の目の届く所に戸籍謄本を広げてしまった。
当たり前だが、ずっと隙を窺っていた桃香はこの時を見逃さなかった。たった1分程度の間だったが、ペラペラの紙に書かれた文字を隅々まで舐め回すように母親の右側から覗き込んだ。
最初、真っ先に見つけた本籍地が、母方の祖父母の屋敷、桐谷本家邸である事を初めて知って、
「へえ、そうだったんだ……!」
と感心して、今まで知るチャンスが無かった自分自身の様々な事実に興味を持って読んでいたが、ある項目へ視線を移した途端、彼女の頭の中は真っ白になった。
『家族:桐谷 雅彬(養父)・桐谷 紫苑(養母)』
え?何これ?どういう事?
巨大なハンマーで頭を強打されたかと思う程、目の前で唐突に突き付けられた衝撃的な事実に慄いたあまり、咄嗟に桃香は左隣にいる母親の顔を凝視した。
何かの間違いだと思ったが、やはり家族欄には、自分がこれまで実の両親だと信じていた人達と自分自身に直接的な血の繋がりが無い、と断言されている。
そして、その下には備考欄としてこう書き込まれていた。
『その他の血縁者:石蕗 達彦(備考:実父・亡)・石蕗 雅(備考:実母・同左)』
今度こそ、桃香は目の前が真っ白になった。
社員が全員帰った後、雅彬はオフィスの見回りをした後戸締りを確認してタイムカードをパスし、電気を消してから入り口の扉を施錠すると、階下の駐車場に降りてから車に乗って帰宅する為に、エレベーターホールでエレベーターが来るのを待っていた。
彼が今いる場所は、都内の一等地の中でも麻生の一丁目という、不動産の価値には疎い雅彬でも地価がべらぼうに高いとわかる、オフィス街に一際高く聳え立つ、桐谷家当主の権三郎が所有する110階建て桐谷グループの本社ビルの26階にあるオフィスだった。
桐谷グループの本社ビルには、グループの中核をなす、権三郎が会長職を務める桐谷ホールディングズを始めとしたグループの系列に連なる殆どの企業がこのビルの中に本社のオフィスなり事業所をこのビルの中に設けていた。
ただ、1フロア辺りの面積が広いとはいえ、他の企業が3~5フロアを占拠しているにも関わらず雅彬と紫苑の会社のオフィスはこのフロアだけであった。そういう点でも、萌えキャラをマスコットとして起用してキモオタ相手に商売をしている点でも、桐谷発酵素開発は他の企業から見下されがちな会社である。
しかし、彼自身はそうした中傷に耳を貸すつもりは毛頭も無かったし、本社が小さいとはいえ、権三郎に対して面目を少しでも立てるために一応ここにオフィスを構えて本社と銘打っているが、実際に本社として機能しているのは秋葉原にある支社の方であり、この他にも名古屋、大阪、広島、福岡、仙台、札幌にそれぞれ小さいながらも事業所や研究所があり、郊外に自社工場も完備した上で、基本的にアマゾンや楽天といった通販サイトと提携して、売上の殆どをネット通販に依存していたので、会社の営業形態の割には、まあ大きな方かなとも思っていたし、彼自身が自他共に認めるオタクだったので、外野の誹謗中傷くらい正直どうでも良かったのである。
ただ、それでもこのビルを彷徨すれば必然的に出会うことになる二人の義兄と義弟と顔を合わすたびに、自分や家族に対して罵詈雑言をふっかけてくる3人に対し、ムカつく以上にどこか申し訳なくなって居たたまれなくなってしまっていた。
別に彼の所為というわけでもないのだが、彼自身は義兄弟の3人とその家族の人生を間接的に滅茶苦茶にしてしまったと責任を感じて生きてきたのである。
15年前、義妹夫婦の葬式で娘の桃香が相続するはずだった義弟の遺産を巡って彼らが争っていた時、義妹夫婦の桃香に遺したベビー用品や子供服と一年分しかないアルバムと共に雅彬が桃香を引き取り、残りを義兄妹の家族で山分けさせる事で一旦は決着したかに思われた。が、今度は誰がどれだけ遺産を貰うのかという取り分で実の兄妹同士で大喧嘩になってしまった。
結局康一郎は裏口に必要な資金を集められず康文の中学入試の結果は惨敗。康文は公立中学へ行ったが、従来のプライドが邪魔して学校に馴染めずにすぐ不登校になって、今は部屋に引き篭って、もう27になるのにニートのような生活を送っているらしい。
司の会社は、取り分だけでは赤字を到底補えなかったので、結局彼の父である権三郎が赤字分を補填して経営を建てなおさせる代わりに、司を取締役から外して彼を課長待遇まで降格させた。さらに悪いことに取締役時代、司はワンマン社長な上に社員に対して横暴で、セクハラやパワハラを日常的に行なっていたので、降格されるやいなやかなり長い間社員から辛辣な復讐を受ける羽目になった。
小依と大毅は思っていたよりも取り分が少なく、すぐに使いきって生活が苦しくなったのを、未だに雅彬の所為だと事ある毎に吹聴していた。
本当にどれも考えなくても手前の自業自得だとわかる逆恨みだらけだったが、自分達が桜だけを引き取って遺産を放棄すれば若干ながらも義兄妹との関係がマシになるのではないかと期待していただけに、むしろ以前より悪くなっているような今の状況は彼にとって少々凹む現実だった。
エレベーターで地下3階の駐車場に降りて駐車スペースに停めていたシルバーメタリックの200クラウンのアスリートに乗りこみエンジンを掛ける。
エンジンが始動した途端、今朝車のエンジンを切るまではウォークマンに入れたアニソンが鳴っていたのに、オーディオがまた設定を勝手にTVに変更したのか、カーナビの画面に地デジの映像が映っている。このビルには携帯電話のそれと一緒に地デジの中継アンテナが設置されているので、地階にも関わらずテレビを視聴する事が可能なのだ。
雅彬は、やれやれまたかと思いながらもテレビを切ってオーディオをプレイヤーに切り替えようと手を伸ばした。しかしながらその刹那、目に飛び込んできたあるテレビのテロップの所為ですぐに彼は手を引っ込めざるを得なくなった。
『あれから早15年…日本航空1130便ハイジャックテロ墜落事件……激録!!番組独自取材で暴かれた新たなる真相!』
そんなテロップが画面の右上にでかでかと表示されている。それを見た雅彬は誰に向けるわけでもなく、こう呟いた。
「そうか……、もうあれから15年も経つのか……。早いものだな。僕も歳を取るわけだ。」
日本航空1130便ハイジャックテロ墜落事件……。ドイツのフランクフルトから成田に向けて飛んでいた日航のジェット機が日本上空を飛行中に、突如現れた数人のテロリストが機内を占拠し、成田から国旗議事堂へ突っ込めと機長を脅迫して操縦桿を奪おうとしたが、機長や副操縦士の抵抗にあって小競り合いをした際に誤ってテロリストが持っていた手榴弾が爆発し、そのまま静岡山中に墜落して320名の乗員乗客全員が死亡した痛ましい事件である。
それだけでも日本で起こったテロ未遂事件として多くの国民の記憶に残る事件となったが、それ以上に雅彬にとっては、1130便の乗客名簿の中に雅と達彦の夫婦の名前があったという意味で忘れようにも忘れられない事件だった。
当時雅と達彦はデキ婚だった上に、結婚して桃香が生まれてすぐ達彦の父親だった石蕗コンチェルンの前社長が突然心臓発作で倒れ、そのままその14年前に亡くなっていた達彦と孝彦の母親の元へ逝くかのように急逝し、達彦が社長に就任したり、雅も幼い桃香の世話に追われたりして忙しかったので、二人は結婚式を上げても新婚旅行に行く暇など毛頭も無かった。
そこで色んな事が落ち着いてきたある日、たまたま仕事で達彦に会った時に、
「達彦くん、君もお父さんの跡をついで社長になって大分落ち着いてきたようだね。」
と、雅彬が言うと達彦は、
「ええ、最初はきつかったですが今は慣れてきました。それに菫と桜がいるから、もうきついだなんて弱音、吐けませんからね!」
と答えた。
「そうか。偉いな、達彦くんは……。ところで、雅ちゃんと桃香ちゃんは元気にしているかい?」
「ええ、お陰さまで……。そうそう、この間初めて桃香が僕の事をパパって呼んだんですよ!」
「そうか、もう1歳になるもんなあ。そうか、そうか。言葉を喋る事が出来るようになったのか。」
「ええ、今度お義兄さんもお義姉さんも見に来てやって下さいよ。ご馳走しますよ。雅もお義姉さんに逢いたがっているし喜ぶと思います。」
「そりゃあいいな、今度時間が出来たら紫苑と二人で桃香ちゃんに会いにお邪魔させてもらうよ。」
「是非いらして下さい。」
「ところで、達彦くん。君は雅ちゃんと……、その……、新婚旅行のようなものに行く気はないのかい?」
その場で思いついた単なる気まぐれだったが、雅彬は達彦に提案した。
「新婚旅行か……。行けたらいいな、とは思うんですけどねえ……。」
したいのか、したくないのか、達彦は雅彬に対してかなり歯切れの悪い態度を取った。
「なら、行って来れば?子供を持った事がないから何とも言えないが、そろそろ桃香ちゃんもそれ程手間がかかるようになった訳ではないだろう?お義母さんとお義父さんに桃香ちゃんを預けて、雅ちゃんと二人だけでゆっくり何処か旅行へ行って来れば?」
「そうですね……。でも、やっぱり桃香を放って置くのはちょっと……。」
やはり幼児がいる事が、達彦が二の足を踏む大きな要因となっているようだ、と雅彦は感じ、義弟の背中を押してやろうと考えた。
「お義父さんとお義母さんなら大丈夫だろう。先日もそちらに伺った位、二人とも桃香ちゃんにメロメロじゃそうじゃないか。それに何かあったら僕達もフォローするから心配しないで行って来い!こういうのは行ける時に行っておいた方がいい。」
「そこまで言うなら……、今度休みを取れた時に雅を誘ってみます。」
「おう、行って来い。行って来い。」
良い笑顔を見せた達彦を見て上機嫌になった雅彬は、餞別の心算で義弟の背中を力強くパンパンと叩いた。
そしてそれからしばらく経ち、何とか休みを作った達彦は雅を連れ、ドイツとフランスとイタリアの三カ国を1週間かけて巡る、少し遅めの新婚旅行へ旅だった。
その間、雅彬と紫苑はほぼ交代で何かと理由をつけて本家へ訪ね、毎晩のように達彦や雅と国際電話で連絡をとりながら、その日その日の桃香の様子を逐一報告して二人を安心させ、また二人からその日あった旅行中の話を聞いてしばしの歓談を楽しんだ。
あれは、予定では達彦達がドイツから帰国するはずだった二日前の深夜の事だった。その日電話を取った雅彬は電話の向こうの達彦から、ある秘密の計画を持ち掛けられた。
「お義兄さん、僕達、帰国する予定の便を一つ早めて帰ろうと思うんです。」
「……?別にいいけど、どうして?折角の旅行なのだから、もっとゆっくりしていてもいいんだぜ。こっちは大丈夫なんだから。」
怪訝に思って雅彬がそう言うと、受話器の向こうから悪戯っぽい笑い声を上げる達彦の声が聞こえて来た。
「そうかも知れませんけど……、予定よりも早く帰ってお義父さん、お義母さん、桃香や皆を吃驚させてやろうと思って。だからお義姉さんにも黙っていて下さいよ。」
ほう、何か面白そうだな……。達彦の計画を耳にしてそう思った雅彬は、それに乗る事に決めた。
「成程……。それは少し楽しそうだな。わかった、紫苑にも黙っておくよ。そうだ、それなら帰国する便の名前と到着時刻を教えてくれないか?成田まで車を出して迎えに行くよ。」
「そう言ってくれると思ってお義兄さんだけにはお話することにしました。」
雅彬は、受話器の向こう側でにやにや笑っているだろう義弟の姿をありありと想像したが、不思議と悪い感じがせず、全く不愉快だとは思えなかった。
「こいつめ……。わかったから便と時間だけ教えてくれ。」
「こっちを明日の夜の9時半に経つJALの1130便で帰ります。到着するのは明後日の夜の10時40分になってしまうのですが……。」
「ルフトハンザじゃなくてJALで帰るのか?」
「そこしか取れなかったんですよ……。」
「そうか……。わかった。仕事が終わってから迎えに行くよ。」
「お願いします。あと毎度夜分にすみません。」
「気にするなよ。じゃあお休み。」
こうして本来この晩から数えて三日後の朝に帰国する予定だったのを強引に半日早めて翌々日の夜に到着する予定に変えたのである。
そして、二人がドイツから帰国するはずだった日の22時、愛車のシルバーメタリックの147アリストを成田空港の駐車場に止めた雅彬は、少し早かったかなと思いながら国際線の到着ロビーに向かって歩いていた。
達彦達のお願い通り、吃驚させてやろうと思って彼は紫苑にも予定が半日早まった事を話していなかった。その為この日の晩のために、適当にちょっとした接待をしなければいけないという架空の予定を捏ち上げて、達彦との約束通り紫苑には黙って、一人で義妹夫婦を迎えに来たのだった。
ところが、到着予定の時間を過ぎて23時を回っても、二人はロビーに姿を見せなかった。それどころかJAL1130便の乗客らしい人間が一人も出てこなかったのである。ひょっとしたら飛行機が何かの都合で遅れているのだろうか?……まあ、国際線の長距離便にはよくある話だ。
だが、23時半を回って到着予定時間を一時間以上過ぎても、飛行機が……、1130便が到着したというアナウンスは一切なされなかった。
その頃には、誰もが流石におかしいと思い始めたのか、自分と同じように1130便の乗客を迎えに来たらしい人達が、何かあったのだろうか?とざわつき始めていた。
雅彬は側にいた50位の男性に話しかけられた。
「何か、あったんでしょうか?」
「ええ。おかしいですね。もう一時間以上前に着いている筈なのですが……。」
「あなたも、1130便に乗っている方を迎に来られたんですか?」
「ええ。義弟と義妹がこの飛行機で帰国する予定だったのですが……。」
「わたしも……、ドイツ人の古い友人がこの飛行機で来るので迎に来たんですが……。一体どうしてしまったんでしょうね?」
気のせいか、空港全体が騒がしくなっているように感じて雅彬は物凄く不安になった。
取り敢えずこのままじゃ埒があかないと、さっきの男性を始め、迎えに来ていた人達十数人と共に、空港の中のJALのサービスカウンターに行くと、カウンターは1130便の事を尋ねているらしい乗客を迎えに来た人間と、その応対をする受付の中のJAL社員が、何か言い争っているのか知らぬが、かなりの喧騒になっていた。
目の前の年若いJALの女性社員の胸倉を掴んだ初老の男性が叫んでいる。
「だから、1130便は一体今どこで何をやっているんだ?!」
受付で応対する社員が悲鳴を上げる。
「い、今確認を取っているところですから、も……、もうしばらくお待ち下さい!」
「お待ちください、お待ちくださいって。こっちはそれ言われながら30分も待っているんだぞ!いつになったら1130便の消息はどうなっているんだ?まだ解らないのか?!」
それを聞いた雅彬は、言い知れぬ嫌な予感を感じて居ても立ってもいられなくなり、初老の男性の前に立って社員に噛み付いた。
「ちょっと待て!飛行機の消息がわからないってどういう事なんだ?!何か事故があったのか?」
「ですから、今……、社を上げて全力で調査をしていますから……。皆さん落ち着いて……。」
あまりのJAL社員の態度に怒り心頭に達した雅彬は、人目も憚らずに絶叫した。
「落ち着いていられるわけないだろ!飛んでいる飛行機の位置くらいなら管制塔のレーダーですぐ確認できるだろ?頼む。正直に言ってくれ!今一体どういう状況なんだ?」
「そ……、それは……。」
「こっちはその飛行機に身内や知り合いが乗っているんだよ!頼む。教えてくれ!今一体どういう状況になっているんだ?」
「そうだ!どうなってるんだ?」
「みんなは無事なの?」
迎えに来た人達が口々に叫ぶのに耐えられなかったのか、その社員はやっと重い口を開いた。
「1130便が……、静岡県上空で……、レーダーから機影が消えました……。」
その瞬間不安が絶望に変わった。
結局翌日の未明、静岡県の山中で殆ど機首が判別出来ないくらいペッシャンコなってバラバラになり、夜空を赤く染め上げる程に物凄い豪炎に包まれた1130便の無残な残骸が発見された。
地元や近隣の消防団や消防署の消防隊が何十隊も集結して懸命の消火活動で火災が沈下した後、レスキュー隊や自衛隊による救助活動によって助けだされた遺体は、一番現場から近い所にあった小学校の講堂の床の上に並べられ、身内や知り合いの遺体を確認するために、遺族が、友人が……、遺体の周りを目的の人を求めて生気が抜けた亡霊のように彷徨していた。
そんな中、やっとの想いで雅彬は、偶然にも二人仲良く並んで横たわっていた雅と達彦の遺骸を発見した。
最初、その遺体を見たとき、雅彬はそれが本当に人の死体なのか解らなかった。それは死体というよりもボロボロになった人型の黒い炭だった。もちろん服は全て燃え尽きて殆ど裸のような状態だったし、顔の判別はおろか男女の区別さえ不可能だった。
そんな状態でも、達彦の遺体の左手首に巻き付いていた、彼が彼の父親から貰って始終大切にしていた金色のロレックスの腕時計と、雅の遺体の首に掛けられた、以前雅の誕生日にプレゼントとして雅彬と紫苑が送った見覚えのある菫色のアメジストの石が付いたシルバーチェーンのネックレスが、雅彬にそれが二人の遺体であると教えてくれた。
墜落時の衝撃と熱に耐えられなかったのだろう、腕時計も首飾りも溶解し、ロレックスに至っては墜落した時間を差したまま針が止まっていた。そしてこの2つの事故の記憶は、二人が最後の瞬間まで身につけていた遺品として、彼の書斎の机の中に15年経った今でも、いつか来るであろう桃香に二人の話をする時の為に大切に保管してある。
15年前のあの時にはただの不可解な航空機の墜落事故として片付けられていたあの事故も、10年前に航空機に付けられていたブラックボックスの解析によって、航空機を占拠したテロリスト達によって引き起こされたものだと発覚した途端、毎年この時期になるとマスコミが面白おかしく報じているのだ。
信号待ちで止まったのでサイドブレーキを掛け、ナビの画面が地図からTVに切り替わると、墜落現場後に造られた慰霊塔に祈りを捧げに来た遺族たちの映像が映っていた。そう言えば今年は仕事が忙しくて慰霊祭に参加することが出来なかった。今度盆に墓参りをする時にでも二人に謝っておこう。
結局事故の後、二人の葬儀を終えて桃香を引きとってから今日まで、雅彬と紫苑は彼女に自分達こそ本当の両親だといい聞かせ、達彦と雅の存在は極力隠して育ててきた。
一つは、桃香の記憶に残っていない二人の存在を自分達夫婦が話す事によって、彼女が自分達夫婦と精神的な距離や、本当の親子じゃないと意識する事によって生じるある種の疎外感と寂しさを感じない為に。
もう一つは、桃香の母方の親戚達が、彼女が本来受け継ぐはずだった遺産を全て使い果たしてしまったという事実を彼女に知られない為に。
前者の理由は彼と彼の妻が娘を引き取るときに話しあって決めた事だが、後者の理由は、その遺産を使い果たした張本人の、妻の兄弟たちから押し付けられた事である。
勿論、雅彬だって何時迄も桃香に達彦と雅の事を隠しきれるとは思っていない。何時か話さなければならないと考えてはいる。
だが……、まだその時ではない、と話さなければならないと考える度に雅彬はそう思ってしまうのである。何故だか解らないが、話してしまうと取り返しのつかないことになりそうで怖いのだ。
車を駐車場に止めてから世田谷にある自宅まで徒歩で向かい、玄関のドアを開けて妻も娘も家にいることを玄関にある靴で確かめてからチェーンロックをして施錠し、廊下を通ってリビングに入ると、ちょうどキッチンで夕食の準備をしていた紫苑の姿が目に入った。
「ただいま。」
「あら、お帰りなさい。案外早かったのね?」
「最終確認の打ち合わせだけやったからな。思ったより早く帰れたよ。」
「もうすぐ夕食もできるけど……、先にお風呂に入る?」
「いや、飯にするよ。腹ペコだ。」
そうして雅彬は、一旦自分の書斎に行き、スーツからカジュアルな普段着に着替えると、リビングのテーブルの側、テレビの近くに置かれているソファーにどかっと座って、テーブルの上のリモコンに手を伸ばしてテレビを付けた。
たまたま雅彬のナビと家のテレビが同じチャンネルを映していたのか、それとも今日はどの局も事故の特集をやっているのか、また事故現場と特集テロップが大画面のテレビに大映しになった。しかも今度は、
『その時、1130便で何が起こったのか!?』
と銘打って、事件が起きた時の機内の様子を、役者を使った再現映像で流していた。
それを見てまた、
「もう15年も経つのか……。」
と呟くと、それに応えるかのように手を止めてリビングまで出てきた紫苑が、
「早いものですねえ……。もう15年も経つんですものねえ。」
「僕達も歳を取るわけだ。」
「桃香も16歳になりました。」
「そうか……。桃香も16歳か……。あと十年もすれば雅ちゃんと達彦くんの歳を追い越しちゃうのか……。なんか複雑だな……。ところで、桃香の奴は何処に行ったんだ?もうすぐ夕飯なのにあの娘がテレビの前に居ないなんて珍しい。」
「……その事なんだけど……。ねえ、あなた。」
「なんだ?紫苑。」
「桃香に、そろそろ本当の事を話した方がいいと思うの……。」
「……ああ、まあな……。でも、まだ少し早くないか?」
「……実は、今日あの娘のパスポートを申請しに行った時に、あの娘、わたし達があの娘の実の両親じゃない事を知ってしまったの。」
「……?…………っ!ええっ?!何だって?!!」
雅彬はあまりの事に驚いて、ガバッと妻の方を振り返った。そんな夫の形相を見ながら、紫苑は恐る恐るもう一度繰り返す。
「だから……、その……、知ってしまったのよ……。」
「何で桃香のパスポートを申請しに行ったんだ?!」
「え?そっち?」
予想外の雅彬の反応に、紫苑は不覚にも心の中で盛大にずっこけてしまった。
「すまん、冗談だ。そうか……。知っちゃったのか。」
そう言って今度はソファーに思い切り深く座り込むと、雅彬は深々と溜息を吐いた。
「で、今桃香はどうしているんだ?」
「やっぱり、ショックを受けているのでしょうね……。帰ってから、トイレに行く以外はずっと部屋に閉じこもっているわ。」
雅彬は、憂いて思い悩むようにそう口にする妻の横顔が、とても暗くて悲しい物に感じて、思わず目を伏せた。そして、何か他に話題がないかと考えた。
「……そうか。それならしばらくそっとしておいた方がいいかも知れないな……。ところで、何でまたパスポートなんかが必要になったんだ?」
「その、桃香からあなたには黙っていて欲しいと言われていたのだけど、今度学校の修学旅行で、あの娘、ヨーロッパに行くことになったのよ。」
「…………。」
ヨーロッパと聞いた途端、雅彬の顔が厳しく強張った。そんな顔を見て夫の心情を察した紫苑は雅彬を諭すようにこう言った。
「ねえ、雅彬。あなたはあまりいい気はしないでしょうけれど、わたしは桃香を修学旅行へ行かせてやりたいのよ。だって高校生活で一度きりの大イベントなんですもの。」
「う――む……。」
態々妻に言われなくても、雅彬だってそこの所はよく理解している。
「あなたの気持ちも解らないわけではないわ。でもわたしは、今はあの娘の気持ちを第一に考えてやりたいのよ。」
「いや、紫苑。僕だって好きで行かせたくないわけじゃないよ。出来るなら心置きなく行かせてやりたいと思うさ。」
「だったら…」
「だけど、何も考えずに送り出して……。もしも……、もしもあの娘があの二人のように手が届かんくらい遠くへ逝ってしまったら……。そう考えるとなあ……。」
「…………。」
紫苑は黙って夫の胸の内の告白に耳を傾けていた。
「まあ、なんだ。今はこの話題は保留させてくれないか……?今あの娘がああいう状態なら、とてもじゃないが修学旅行どころじゃないだろう。……そう言えばコンロの鍋大丈夫なのか?掛けっぱなしみたいだけど。」
「あ、いけない!」
と叫ぶと、紫苑は急いで火を消しにキッチンへ駆けていった。そして雅彬もソファーから立ち上がって紫苑の後を追うようにキッチンへ入ると、
「もう夕飯が出来るんだろ?手伝うよ。」
と、言って皿に盛られていく3人分の食事をテーブルに運んで並べていき、全て運び終えると、リビングから廊下へ出て行く扉を開けて部屋から出ていこうとしたので、
「あなた、どこへ行くの?」
と紫苑が問いかけると雅彬は、
「桃香を呼びに行く。」
と、平然と答えた。
「え、でも今桃香は……。」
さっき自分がそっとしておけと言ってたではないかと紫苑が不思議に思っていると、
「食事を摂らせないわけにはいかんだろ。それにあの娘が知ってしまった以上、僕はあの娘に話す……、いや、話さなければいけない事がある。」
そう言うと雅彬はリビングから出て行った。