特攻前夜
*
仲間の死体を置き去りにするなんて、慣れたことじゃないか。
殺された奴、発狂して自殺を図った奴、……死んでようが死にかけていようが、歩けないなら置き去りにするしかなかった。 ましてや琉は死んでるし。 実の弟じゃないか、って? そりゃそうだけど、ぼくらが敵として葬った人たちはみんな、誰かしらの兄か弟か姉か妹か父か母か息子か娘だ。 そんなことを今更言う権利はぼくにはない。
琉の言動、表情、思い起こせば感情の渦に呑まれる気がして、ぼくは後ろを振り返らないように努めた。 世界は流れ去るものと永遠に変わらないものとの組み合わせだ。 あいつを形作っていたものはまた離散して、次の命に注ぎ込まれる。 ぼくもそう、みひろちゃんだってそう。 その流れと、そのサイクルの根底にあるものは、ずっとずっと変わらない。 喜びだっていつか記憶のかなたに薄れていくように、悲しみだって。 琉の死を受け入れるためだけに、ぼくはどれだけ壮大な哲学観を持ち出すんだろう。 神に頼れないからか。 中途半端に心を捨てた報いか。
「……琉くんもなぁ……幻に殺されちゃ意味がないよ」
「え?」
耳を疑った。
意味がない、って?
「だってそうでしょ」
一種開き直ったように、みひろちゃんがこっちを見る。
「ここの軍に殺されてれば、あたし達の任務終わりだったんだから」
「……そんな」
「どうせ殺されるんなら、ね」
「……」
ここまで全体主義に染まった人間だったか? みひろちゃん。
みひろちゃんの表情から鋭い怒りは影を潜め、今はただ変わりばえのしない乾いた大地を疲れたように歩いていた。 疲れているはずだった。 目指す建物まであと数キロ……小学生の登下校と大して変わらないかもしれない。 でも目指す先に待ち構えているものを思えば、ため息しか出ない。 プロジェクトが一政府を相手取って国際裁判を起こせる程度の口実? ついでに国を潰して紛争を終わらせられるだけのきっかけ? それは学生2人の死で十分なのか?
陽も沈み、剥き出しの頭を焦がしていた熱は薄闇に溶けるように息を潜める。 熱の残滓は夕闇のまどろみに拡がり、重い足に執念深くまとわりついていた。 疲れと絶望が押し寄せてくる。 特攻に行く気分だった。 何を敵としているのかはよくわからないけど。 EA戦争のときはなんだかんだくだらないとか言いつつ、周辺アジアの国々を敵視することで自分の行為を正当化していた。 ……領土問題が発端だったっけ……そのうち妬み嫉み足の引っ張り合いとか、縦社会に特有のごたごたが複雑に混じりあって、収拾がつかなくなったんだろうけど。
日本のメディアは中国が日本を妬んでいる、みたいな報道をしてたけど、今でもそのきらいはあるけど、逆じゃないだろうか。 日本は確かに、資源もあって国土も広くて勢いもあった中国を妬んでいた。 中国の国民だって日本人から発展途上国なんて呼ばれるのは納得がいかないだろう。 お父さんが学生の頃は、高校入試で『日本がこれから中国にすべきこと』について小論文を書かされたそうだ。 内容を指定されているに等しいと思った。 学生時代のお父さんは400字詰めの原稿用紙にひとこと、こう書いたそうだ。
『4000年純粋であり続けた少年に、もうちょっと何か学ぶべきじゃないのか。』
もちろんその高校には入れなかった。 ……そりゃそうだろう。
高校入試を控えたぼくに笑い話として語っていたけど、当時はショックだったらしい。
世界大戦を再発しその反省を踏まえ、グローバル化が進んだ今、国益がどうの国民性がどうのと主張することはナンセンスという風潮がある。 確かに現状としては国益が衝突している場合ではない、こんな紛争みたいに人が人を殺すことはあってはならない……でも歴史の中で培われた文化の価値が計り知れないように、国境は境界線であり大切なものを護る砦でもある。 見境なく蔑ろにしていいものじゃないし、ましてや破壊していいものでもない。 狂信はもっといけないことだけど。
この紛争は少なくとも、人を傷つけるための紛争じゃない。
守るべきものを守るための戦いだ。 結果として、守るべきものを壊してしまっているけれども。
それは殺傷や環境破壊を正当化する理由にはならない、でもこの「国」の存在意義を保障することはできるだろう。
ただの悪政じゃないと――信じてる。
「……不安だよな、稜」
「ぼくはこんなことやりたくないよ」
「あたしだってやりたくないよ。 でも他に選択肢がある? この紛争が何に起因してようがそろそろ目を覚まさなきゃいけないんだ……この国は」
『血の防壁は汝とともにあり涙は行く道を潤す恵みとならんことを――あなた方が私達の友であるのなら、鋭き槍はいつもその手にあります』
血の防壁であって流血の防壁であっちゃいけない。 流血は防壁になりえない。
結局守ろうとしたもの全て、こうして無残にも戦火に消えているじゃないか。
「なんでプロジェクトなんだ」
「……」
「その役目が……プロジェクトなんだよ……」
「……プロジェクトがやんなかったら誰がやるんだ……First Penguinでしょう、あたし達は」
「食われるのは後に続くペンギンじゃないか」
高級住宅街に出た。 高級住宅街といっても、銃撃の跡は生々しい。 鉄さび色の血も弾痕も見慣れた。 ただ、景色がちょっと綺麗になっていた。 建材がいいのだろう、目立って崩れている建物が殆どない。
『日本はいいですね! 街が綺麗です!』
『そうか? ごみごみしてるけど』
『だってどのビルにも穴が開いてない』
街のいたるところで、夜の闇にたくましく梢を伸ばすヤシ科の木。 薄れていく死の匂い。 オアシスだった。 歪んだオアシスだった――
「官邸が近いから衛兵がいるんだ。 見つからないように寝よう」
ビル影に区切られて、満天の星空が見える。
月のない夜。
静かな鳥の鳴き声と、しっとりした夜風。
徴兵される前、ぼくらは……日本の本土というオアシスで、自衛隊の死者数を漠然と眺めていた。 画面の向こうでキャスターが淡々と読みあげる哀悼の言葉。 悲しかった。 憤ろしかった。 でもそんな感情は、日常の表面に弱い紙やすりを当てるみたいに、申し訳程度の擦り傷を残して、日々の忙しさの中で薄れていった……
深く同情すれば偽善。
涙は演技。
『戦争中は一度も泣かなかった。 近所の仲良かった兄貴が満州で死んでも、妹が空爆で頭吹き飛んじまっても……涙を流したのは一度きりだ。 焼け野原だった町で、終戦の翌年……海岸から上がる花火を見たとき』
地学科の友人が言っていた。
まだまだ復興したとは言えないけど、それでも少しずつ命をつなぎつつあった町で、町内会がなんとか打ち上げた花火。 なぜか涙が出て止まらなかったという。
戦争に行って、最後に竹島での陸上戦を乗り越えて、……ぼくは本土というオアシスの歪みを知った。
友人は何に涙したのか。
やっと心の均衡を取り戻して、こうして考えをめぐらす余裕が出来たとき、ぼくは……あのつらかった軍生活が空白の時間なんかじゃなかったことを、思い知ったんじゃないか。
町はほぼ元通りになった。
打ち壊された歪みは、昇華した。
数キロ歩けばそこにある、ここよりももっと悲惨な血の防壁を、この高級住宅に住む人々は知っているのだろうか。
疲れてるのに頭ははっきりと冴えている。 夜風の一筋一筋を耳でたどって、特攻の前夜、確かにぼくは、地の底を流れ風に溶ける唄を聴いた。
『血の防壁は汝とともにあり涙は行く道を潤す恵みとならんことを――あなた方が私達の友であるのなら、鋭き槍はいつもその手にあります』
この手に答えを。
心の内にある恒久不変の道徳律を。
無知の罪に斬りこむ槍を、この手に。
琉、お前は今――この星空を見てるのか?