捨象 意味のある章
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人が死んで何も感じない、なんてことはない。
ただいつの頃からか、胸が締め付けられるような感情に遭っても、表情に出せなくなった。
喪失感だとか後悔だとかその他分類できない激情の波も、目頭に溢れることはなく、ただ窮屈な胸の内で奔流のように巡るばかりだった。 あたしは人の死に慣れちゃいない。 ずっと自問を繰り返してきた――自答なんてできなかった。 あたしに答えなんて見つけられるはずがなかった……
寝ている時間が一番幸せだ。
何も考えなくてすむ。
自責に走らなくてもいい――偽善に染まることもない。夢も見ないほど深く眠ってしまえば。
目を覚ますのがつらいのは、未だにどうしようもないことだ。 あたしはずっと隣にいてくれた家族や稜や琉くんからも逃げたかった。
だからあの空襲で家族が全員死んだとき――自分にはそんなことすら許されない逃避なんだと気付いた。 自分のせいで犠牲になった人たちと同じだけの重さの命を救えば、あたしが何か変われるのかもしれない、この迷宮から抜け出せるかもしれない――そう考えたのが甘かった。 命の重さを量ろうにも、そんな都合のいい天秤は存在しない。
『ぼくが悪かった』
別に稜の言葉に偽善的な響きを感じたわけじゃない。
稜が真摯に責任を感じてるのはわかってた――あたしはむしろ、ずっと頼りにしてきた稜が隣を歩いてるあたしに弟の命を負わせようとしなかったことに失望していた。 逃げちゃいけない、だから逃げないように心を預けてきたはずの稜は、既に心を閉ざしていた……いままでの言動からなんとなく察しはついてたけど。 所詮一方的に打ち込んだ楔だったんだ……まぁ仕方ないか。
稜にこんなことを言われたことがある。
『みひろちゃん、何で死ななかったの?』
あの頃はどう答えたんだっけか。 生きろって言われたから、なんてそんなことを答えた気がする。 退院してすぐ――あの頃は本当に生きる気なんてなかった。 生きろって言われたから……当時にしてみればこの上ない正答だった。 それにあの頃の稜なら、そんなことを訊きたくなるのも頷ける。 あたしの答えを聞いて稜は、ふうん……と納得したんだかしてないんだかよくわからない相槌を打って黙り込んだ。
あたしも稜も、偶然に生き延びたわけじゃない。
あまりに重い荷を負って永らえた命だった。
あれが戦争の最後の日だったらしい――あの日。濃い霧に包まれた密林――奇襲に失敗して敗走するあたし達を、2人の朝鮮兵が追いかけてくる。 3人で当たった任務だったけど、1人はさっき撃ち殺された。 なりふり構わずジグザグに逃げるあたし達の足取りは向こうに丸見え。 追う側はただ狙いを定めて、ここぞという瞬間に目の前の茂みに撃ちこめばよかった。 そうされたらあたし達はここで死ぬしかない。 いつ終わるとも知れない戦争の最中で、夥しい戦死者の名簿に加えられ、心無い哀悼を受けるだけ。 そんなのは嫌だった。 たくさんの人を殺したあたしは――それでも生きていたかった。
突然、頬に生暖かい飛沫がかかって、あたしはちょっとだけ足を止めた。 木の葉から露でも落ちてきたのかな? そう願ったけど違かった。 2、3歩分後方に、乱れた低木や草の間に、薄闇に浮かんで迷彩柄が見えた。 あたりに赤い飛沫が撥ねかかっている。 彼は動かなかった。 震える指先で自分の頬を撫でる。 指先に付いたのは、まだ温かい同僚の血だった。
『……』
あたしは踵を返して逃げた。 死にたくなかった。 生きる権利なんてとっくに失ったあたしでも――何を思い違えていたんだか、生きていてもいいなんて錯覚してたから。 後ろで何か争うような朝鮮語が聞こえた気がしたけど気のせいだったかもしれない。 あたしの耳は掻き分けた草木の鳴る音も足音も、何もまともには捉えちゃいなかった。 うさぎみたいに無心で走った。 次の一瞬には死ぬかもしれない。 次の一瞬には。 次の一瞬、次の一瞬、次の一瞬、次の一瞬、――当たってもいない銃弾の衝撃を感じながら、身体の隅まで怯え、熱に浮かされたように前へ前へと走った。
耳元を鋭い風が掠める――僅かに痛みが走って、――まだ生きてることを理解して、負傷した耳の存在を忘れた。 危ないな、速く速くもっと速く走らないと。
と、背中に激しい衝撃が走って、あたしは草を散らして前に倒れこんだ。
躓いた? 木にぶつかった? 立ち上がらないと。 殺される…… あれ。 重いよ。 背中に何か乗ってる。 どかさないと。 熱い。 熱い……人? 拓哉さん? 生きてたの? よかったさっき殺されたと思ってたんだよ。 一緒に逃げ……あ違う。 人…… 嘘。 捕まった。 敵? 放して。 放してって。 まだ死にたくないんだ…… だめかな、 重い。 ほら撃鉄の起きる音が聞こえるきっと空耳じゃないよね、あれでも今撃ったら味方ごと撃……生け捕りにされるんじゃなかったの? 自害はしたくないんだよ、やめてよ。 もしかしてやっぱり拓哉さん? 弾が風を切る。 あたしから離れて、死ぬよもう一度死にたいの拓哉さん、
銃声だけはいやにはっきりと聞こえた。
聴覚が戻ってくる。
荒い息遣いや草のつぶれる音が聞こえる。
『 』
……朝鮮語。
あたしの上に載っていたのは、朝鮮兵だった。
しわがれた声が、息も絶え絶えに言葉をつなぐ。
『 生きろ、』
一言だけ聞き取れた言葉は日本語だった。
首を回して上を見る。 その朝鮮兵の顔は見えなかったが、若くはないように思えた。 その兵士が何で日本語を知ってたのかはわからない、『生きろ』というただ一言の日本語をどこで聞いたのかはわからない、ただ――息がだんだん細くなっていって、手に込められた力が抜けていって――それでも最期に、誓いのようにあたしの手を掴んで、そうして……味方の銃弾からあたしを護って、その人は亡くなった。
体力も限界だったあたしは、どくどく脈打つ自分の鼓動を聴きながら瞼を閉じた。 密着している朝鮮兵の胸からは何も聞こえてこない。 でも、熱かった。 熱く重いひとりの人生が、あたしの壁となって風に溶けた。
あたしの意識は闇に堕ちた……
あの朝鮮兵にしたって、あたしが彼と同じ朝鮮人を殺したことくらい理解していただろう。 そしておそらくは彼だって日本人を殺したはずだ。 それでもあたしに生きる価値を認め、自分の命に散る意味を持たせた。 しかも彼はあたし達を追う側にいた――あの状況でなら自分が殺されることはなかっただろうに、両替するみたいに命を交換した。 あの後に残った追っ手があたしを殺す可能性もあったんだから両替以上のことをやったとも言える。 傍から見ればただ死ぬ人間の国籍が入れ替わっただけで、あの戦争の結果の∞分の1の事実でしかなかった。 それでも生き残ってしまったあたしにはそんなことは言えない。
何に価値があって何に意味があって何が正しくて何が間違っているのかなんて、結果論でしか考えられない。
時間軸上の無限遠方にある世界の終焉で答えを出しても意味はない。
終わりのない自分探しをするみたいに。
命の価値だとかそんなことについて考え出したら、世界の大方に近いものを捨象しなければいけないんだと思う。
死んでいく琉くんを見ながら、総括できない感情が奔流のように身体中を駆け巡っていく最中に、あたしは絶望と命を天秤にかけた。
琉くんの価値なんて知らないけど、でも生きてて欲しかったよ。
あたしは死ななくてよかったの?