道の途中
*
竹島から生還したぼくは、白いベッドの上でこんなことを漏らしたらしい。
『……銃を持って入ったところには綺麗なものと醜いものしかないんだ……綺麗な愛と醜い殺意。 綺麗な紅い血と醜い硝煙。 でも全部おんなじだった……』
ぼく自身にそんなことを口走った記憶はない。 というか病院にいた頃の記憶はところどころ欠けている。 注射針を抜いた記憶なんてないし、舌を噛もうとしたつもりなんて全くない。 なのに朝起きたら点滴をしていた左腕が血まみれになっていたり、看護婦さんが血相を変えて飛び込んできて猿轡を嵌めたり、ぼくとしては不可解なことが時折あった。 事実こんなことを言ったその日の夜、ぼくはベッドの柵に頭をぶつけて額から血を流していたらしい。 そんなわけで入院中はずっと拘束衣を着ていた。 あれから暫く経ち、もうあらかた回復した今でも、なんとなく腕にベルトの感触が残っている。 まだ冷たい皮製の袖が胸元にぴったりと巻きついて、両腕を押さえているような感覚に陥ることがある。 そしてその感覚に安堵している自分がいる。 ぼくは今でも自分の無意識がわからない。
ただ、あの瞬間、きっとぼくの両腕を押さえていたベルトは外れていたのだと思う。
ぼくとみひろちゃんが駆け寄ったときにはまだ、奇跡的にというべきなのか、琉は微かに息をしていた。 でももう助かる見込みがないのは明らかだった。 琉にとっては痛くて苦しい時間が長引いているだけとしか思えない。 それでも琉は、ぼくらの姿を認めるなり少しだけ目を細めて口角を上げた。 微笑もうとしているようだった。 瞼を伝って目に血が流れ込んでいき、唇の端に赤い泡が膨らんでは一筋の血が顎を流れていく。 焦点を失った目は鮮やかな茶褐色が褪せ、瞳孔が開きかけていた。
「……大丈夫……だよ、…………」
「何が大丈夫なんだよ……なんで」
何で。
何でお前が――
琉の身体はゆっくりと脈打ちながら冷めていく……なんだか本当に琉が死んでしまうみたいだった。 ……死ぬのか? 死ぬんだろうな。 だってもう助からないんだから。
……この瞬間が、“琉”がまだ存在している時間が、このままずっと永遠に続きそうな気がする。 殺伐とした瓦礫の中、能天気な青い空の下。
破けたビニール袋から砂が零れていくように、無造作に空けられた銃弾の傷やぼくの震える指の隙間から、ひゅーひゅーと苦しそうに細い息を吐く小さな血塗れの唇から、琉という存在が漏れていく。 昇華した命が、存在しない虚空に拡散していくみたいに、なんだか頼りない感覚だった。 そのくせ首筋や目元の皮膚に少しだけ赤みを差している僅かばかりの血潮が、残っている灯火のような命の存在を残酷に象徴していて……喪失感と焦燥が湧き上がってくる。
「…………だって。お兄……ちゃん」
残された時間を彫刻刀で削っていくような溜息をついて、琉は続けた。
「僕が、いか……なかっ、たら…………おにいちゃんが」
「……」
「…………し、んでた……でしょ」
「……」
「……ねぇ……」
「………………」
「 」
死んだ人間と喋ってるみたいだ。 もう琉は死体にしか見えなかった。 執念深く鼓動を打ち続けている心臓、その周りでただの物体に成り下がろうとしている組織。 ぼくは壊れた琉を抱いて瞼を閉じた。 首筋は微かに汗ばんだような匂いがする。 炎天下を歩いてきた身体の重みが、くったりとぼくに預けられている。 馴染みの深い琉の匂いに混じってうっすらと、火薬の匂いが鼻をつく。 不思議と血の匂いは、あまり感じられなかった。 やがて息をするのも疲れたように、静かに琉は息を引き取った。 生への足掻きも疲労も、何もなくなった。
閉じた瞼を開く。
琉が死んだのはわかっていた。 否応なしにこいつの命が消えていく事実を“感じた”のだから。 誤魔化しようはなかったし誤魔化す気もなかった。 ただ身体が動かなかった。
そうしてどのくらい経ったのだろう、
夢から醒めたみたいにふらふら琉を手放して、ぼくは後ろにいたみひろちゃんを振り返った。
みひろちゃんは無表情だった。
どうしようもなく涙に溢れた無表情だった。
*
あの瞬間。
女の子に銃口が向けられた時、何故ぼくがつきとばされる羽目になったのか、何故琉が死ぬ羽目になったのか、冷静に考えてみれば簡単なことだった。 考えるまでもなくぼくにはわかっていた。 認めたくないだけで……ぼくはあの時女の子に向かって駆け出したのだった。
脳裏を過ぎったのはEA戦争で死んでいった彼らだ。 あの刹那、呆気ない音とともに赤い霧みたいな血潮が飛んで、迷彩服がびくんと跳ねながら地面に叩きつけられる光景が走馬灯のように浮かんで、――あとは足が勝手に動いていた。 それに気付いた琉がぼくをつきとばしてぼくの代わりに幻の女の子の前に飛び出し、幻の兵士に撃たれたのだろう。
自分の兄が過去の幻覚につられて死に向かって駆け出すのを、琉はどんな気持ちで見たのだろう。
琉は最後に「 」と言った。
あいつが死に際に何を考えたのかなんてぼくにはわからない。
ただ、「 」……この言葉がくっきりと突き刺さっていた。
「……行こうか」
「……」
誰も失わないよう空に誓ったのに、結局またこんなことを繰り返したのか。
経度と緯度の差が多少あるだけの、この戦場で。
「プロジェクトは地学科の事故から何を学んだんだ」
暫くしてみひろちゃんがそんなことを呟いた。 何かを誤魔化そうとしてるみたいな口調だった。
「……何も。 変わってないよ、みひろちゃん」
「……結局……」
結局、のあとにみひろちゃんは俯いて何かを呟いていた気がしたが、気のせいだったのかもしれない。
「…………あれはぼくが悪かった」
思わず口を衝いて出てきた言葉のあまりの言い訳がましさに悪寒が走った。 ……ぼくが悪かった?
『 』
あれはそんな言葉じゃなかった。
ぼくが考えなきゃいけないのはもっと別の――……
「悪かった、って」
案の定顔を上げたみひろちゃんの言葉には、鋭い怒りがこもっていた。
「……そうやって全部背負い込めばいいと思ってるの?」
「……いや、だって今のは」
言い淀むぼくに、みひろちゃんは本当に心の底から苛ついた表情で言い放った。
「迷惑なんだよ、そういうの」
『 』
琉。
お前はどんな気持ちでぼくの隣にいたんだ?
みひろちゃんは……何を抱えてぼくの隣を歩いてるんだ?
押し寄せる激情と切ない空隙に圧し潰され、息苦しさに耐えかねて仰いだ空は色彩を失って鈍く透き通っていた。 乾いてひび割れた心の表面を鑢で削るように、琉の最期の言葉が繰り返される。
『 』
『 』
『 』
少しだけ振り返る。
――……お前、本当に死んだんだな
琉の死体はもう見えなかった。