定義の天秤
*
こんこん、とみひろちゃんが扉を叩いた。
扉が開いたなんて琉の目の錯覚だろう、ここはもう死に絶えた街なんだから――そう思ったが念のため扉を叩いてみることにしたのだ。
一瞬――諦めに近い沈黙が流れて。ぼくがふと進路に目を向けたとき、
ぎぎ、と扉が開いた。
その重い音はまるで……数年間、一度も開くことなく土壁と同化していたかのような。
「……」
扉を僅かに開けて顔を覗かせたのは――くりくりした大きな目の、現地人と見られる女の子だった。
「……銃は」
痩せ細った黒人の女の子は、不思議そうにぼくらを見ながら、フランス語で呟くように訊いた。喋り方を忘れてしまったみたいな口調だった。
人が出てきたことに驚いていたらしいみひろちゃんは、掌を女の子に見せるように広げて、ぽかんと開けていた口を慌てて動かした。
「持ってないよ。政府軍じゃないから……今ひとりなの?」
みひろちゃんのフランス語も通じたようで、女の子は小さく頷いた。
家族がいるかどうかなんて訊けなかったが、おそらくそれが意味するのは――彼女がこの街で絶望を背負いながら生き延びている紛争孤児であるということ。見知らぬ人に対して無用心に扉を開けるような幼い子だ、もう一度掃射が来れば今度こそ殺されてしまうかもしれない――なんとかしてあげたいと思ったが、ぼくはふるふると首を振って感情を追い払った。――目の前に飢えて死にそうな子どもがいても、ぼくらは何もしてあげられない。……ぼくは女の子の細い四肢に似合わず、栄養失調で突き出た腹をまともに見ることが出来なかった。薄汚れた麻布のワンピースはぶかぶかで、靴は靴の体を為していなかった。欧米や東アジアが豊かになっていく一方、……この国は前に進めないのだ。数十年前の民族文化の資料にあった写真の子も、この女の子と似たような格好をしていた。
この道筋は、――かつて誰が選んだのか。
少なくともこの子は見合わない対価を払わされている。理不尽な――重く、恐ろしい対価を。
この子自身がどんなに純粋に切実に、戦争のない世界を願っていても。
ぼくらよりはるかに幼い女の子の家で休ませてもらうというのもなんだか気の引ける話だったが、道に迷っているのだから仕方ない。 女の子は大きくドアを開けて、ぼくらを通してくれた。 差し込んだ陽が、簡素な土色の屋内に光と影の濃淡を作り、ゆらゆら揺らめいた。 屋内に入ると、乾燥した藁と土埃の匂いがした。 ドアを閉めるとひんやりした隠れ家は薄暗くなる。 ――この家には窓がない。 おそらくは旧政府軍に細い命綱のような電線を切られたのか、電気の供給もなく、床にひとつ、古ぼけたランプが灯っているだけだった。 あちこち剥がれかけた、飾り気のない壁に4人の影が薄くのびる。 質素な壁だったが、ひとつだけその存在を強調するようにかかっているものがあった。
霞んだ血のような色の古いタペストリー。
布の端は僅かにほつれかけている。 銅色の糸で、何やら複雑な刺繍が施してあった。 何が象られているのかははっきりとはわからないが、布の中央に太陽と月らしきものを見つけた。 ……もしかするとまわりに刺繍されているのは、今はアフリカ内でも比較的安定した地域の保護区でしか見られなくなった動物達だろうか。
少しだけ、あのツリーハウスにあったお面を思い出した。
「学校はやかれたの。 みんな死んじゃった」
女の子は立ち上がるだけで折れそうな脆弱な足をランプへ投げ出すようにして座り、ここにいる経緯を話してくれた。 ――フランス語だがやはり幾分舌足らずで、言葉が見つからないのか時折口をすぼめて悩んだりしていた。 ぼくらは彼女のたどたどしい身の上話に、膝を寄せて聴き入った。
彼女の通っていた学校は、どこかの国の支援で建てられた小さな校舎だったらしい。
文字の授業の時だったそうだ。 突然襲撃してきた旧政府軍が銃を抱えて学校を包囲し、校舎に火を放った。 教職員は全員その場で殺され、逃げ惑う生徒達は撃ち殺されたり連れ去られたりしたという。 大義名分も何もない、ただの破壊行為だった。 なんとか逃げ延びた女の子と数人の友人は、命からがらこの家に駆け込んだ。
「ここにくるときも、友だちは何人か死んじゃった。 ここに逃げてからも、食べ物もなくて、やっぱり何人か死んだ」
今生き残っているのはこの女の子と、もうひとり同い年の男の子だという。 その男の子は今近くの水を汲みに出かけているそうだ。
「前も出かけてって帰ってこなかった友達がいたから。 私はここでずっと祈ってる」
祈りながら待ってる。
孤独な女の子は、黒い顔に白い歯を見せて、屈託のない笑顔を浮かべた。
「……」
この女の子は、こんな物騒な話をしている間にも明るく笑っていたのだ。 笑顔なんて、忘れていても不思議じゃないのに。 ぼくらには辛そうな顔なんて見せなかった。 セピア色に褪せた写真の中の、時を止められた幸せな虚像みたいに、黒い大きな瞳をきらきらさせて、無邪気な笑顔を見せている。
そろそろ水汲みにいった子が帰ってくる頃だわ、と嬉しさや不安で張り詰めた口調で呟いて、女の子は立ち上がった。 女の子の筋張った膝が目の前にあった。
皮も擦り剥け、薄汚れている足に、それでも生命の焔を感じる。
力強く生きる足だった。
その深奥に確かに熱い血が流れている。
この焔を、護るのが本来の世界の役割だ。
そんな感慨に耽っていた刹那――突然、外から鋭く乾いた音が響いた。
「――!!」
間違いない、幾度となく耳にしてきた――
誰かが死ぬ音だった。
*
モザイク画の欠片のようなぼくら一人一人は、それぞれがそれぞれの道を生きることによって世界という大きな絵を描いている。 世界という芸術はぼくらの選択の集積だ。 昔の哲学者に、だからこそ人は一挙一動に責任を持つと言った人がいた。
ぼくらは「自由の刑に処されて」いる。
自由によって束縛されている、と。
それはそうかもしれない。 何が正しいか正しくないか、決めるのは全部ぼくらなんだから。 ましてや正誤の定義をしていくのは大方ぼくらの理性だ。 歴史から学び、人の数だけある価値観から学び、ぼくらは世界の解答を模索していく。 たとえそこに、絶対的な答えなんてないんだとしても。 それは既に創造主の領域といえないだろうか。
ぼくが今日のごはんとしてsigner社の携帯食を選んだのは、この商品に選択に値する価値を認めたからであり、そしてそれがどんなに僅かなものであろうと、携帯食の立ち位置に変化をもたらしたことになる。
職業選択も同じだ。
ぼくが科学者になったというのは、ぼくが自分に価値を与える仕事としての“意味”をこの職に求めたということであり、――ぼくのこれからの生き様がこの職という概念を僅かながらにしろ変容させていくというわけで。 つまりは自由が故の責任だ。
そして責任が故の自由だ。
ぼくらには、勿論ぼく個人にだってそれだけの権限がある。
プロジェクトは世界を大きく変えようとしている。
そこに何の“間違い”がある? それを揶揄できるだけ、今の世界は“正しい”のか? 罪もない子どもにこんな思いをさせている現状が? 確かにプロジェクトのやり方は多大な犠牲を伴うかもしれない。 倫理的に許されないことかもしれない。 それでも国家に対する制裁を許さず紛争孤児の存在を見殺しにする倫理なんて、……それが絶対的に正しいなんて誰が決めたのか。
プロジェクトがこれからやろうとしていることだって、ぼく個人が世界の変革を望むのと規模が違うだけで、結局は同じことなんだ。
本当は、そこにリミッターなんてない。
ただしその変革に、付きまとう責任はあまりにも大きい。
――本当にぼくらを束縛しているのは、その臆病な躊躇なのかもしれなかった。
*