私は「悪役」令嬢
私は、自分が悪役令嬢であることを知っている。
金髪の豊かな巻き毛。
紫色の、少しばかり釣り上がった瞳。
由緒正しき公爵家の令嬢にして、王太子の婚約者。
どこからどう見ても、物語の主人公をいじめるためにあつらえられたような存在だ。
こんなにもこの役が似合う令嬢は、王国中を探しても私、シャーロット・エディンバル以外にはいないだろう。
だから私は、完璧な悪役令嬢になる。
与えたい優しい言葉を飲み込み、差し伸べたくなる手を扇で隠し、憎まれるべき者として舞台に立つ。
抗うことなど許されない『大いなる力』の奔流のなかで……私は、私の役割を全うする。
たとえ、どれほどこの胸が痛み、心が砕け散ろうとも――。
*****
「シャーロット!」
王宮の回廊に、明るい声が響いた。
振り向くと、婚約者である王太子アルトリアス・ヴィンシア殿下が、少年のように眩しい笑顔で駆け寄ってくるところだった。
柔らかな茶色の髪が陽光を受けて揺れる。深い青の瞳は、何か良い知らせを抱えきれないというように輝いていた。
「殿下。そのように走られては、王太子としての威厳に関わりますわ」
「君しかいない場所でくらい、少しは許してくれ」
アルトリアス殿下――私だけが親しみを込めてアルトと呼ぶ、その人は苦笑した。けれど次の瞬間には、また表情を輝かせる。
「シャーロット、先ほど神殿から連絡があったんだ。
……聖女召喚が、成功したんだ!」
「……っ!」
その言葉は、祝福の鐘の音のように明るく響いた。
聖女召喚の成功。それは、喜ばしいことだった。
けれど私の心臓は、冷たい手で鷲掴みにされたように激しく痛んだ。
息が詰まりそうになる。それを、長年の王妃教育で培った鉄の仮面で押さえ込む。
私は扇で口元を隠し、完璧な笑みを浮かべた。
「そう。それは、吉報ですわ」
震えそうになる声を、なんとか優雅な響きに仕立て上げる。
しかし、私の微かな動揺を読み取ったのか、アルト殿下は太陽のような笑顔を少しだけ曇らせ、躊躇いがちに私の手を取った。
「シャーロット……これで、この国も救われるんだ」
「ええ、そうね……」
私は殿下を安心させるように、その手をそっと握り返して静かに笑った。
――この国には、魔王がいる。
大地を腐らせる、魔王の瘴気。
麦は育たず、果実は萎び、草花は枯れ果てる。かつてこの国を襲った飢饉は、まさに地獄だったという。
食糧のための略奪、親による口減らし、貴族同士の血みどろの争い。
人々が神に祈り、王に縋り、それでも救われなかった果てに、ようやく辿り着いた方法があった。
聖力を持つ十六歳の乙女を、生贄として捧げる儀式。
その命が散る瞬間、乙女の内に宿る聖力は解き放たれ、瘴気を中和する。
儀式は成功し、飢餓の時代は終わった。
けれど、その代わりに毎年、誰かの娘が、姉が、妹が、祭壇で命を散らすことになった。国中は常に悲しみに包まれ、生贄に選ばれた乙女を守ろうとする争いさえ起きた。
だからこそ、絶望の連鎖を断ち切る方法が必要だった。
――それが、聖女召喚。
異世界から呼ばれた女性は、私たちとは比較にならないほど強い聖力を持っている。
聖女を召喚し、その力を用いれば、毎年の犠牲を払う必要はなくなる。
聖女召喚の成功。
それは、間違いなくこの国にとっての光だった。
……だというのに。
私は安堵するどころか、胸が締め付けられるような痛みに苛まれている。
なぜなら、聖女が現れたということは、いよいよ私が「悪役令嬢」としての最終幕を演じきらなければならない――そういう意味でもあるのだから。
「シャーロット、本当に大丈夫か?」
アルトの声に、私は現実へ引き戻された。
心配げな顔。
愛しい人。
「もちろんですわ、殿下」
私は扇を開き、目元を隠して微笑んだ。
「王太子妃となる者が、国の安寧を喜ばずにどうしますの」
アルト殿下が、心配げに私の頬に触れる。
その大きく温かい手から伝わる体温が、かえって私の心を締め付ける。
あなたとこうして穏やかに過ごせるのも、あと少し。
どんなに心が砕け散りそうでも、私は最後まであなたのために、この国のために、私はこの悪役をやり遂げなければならないのだ。
*****
「きゃあああ!!」
王立学園の広々とした食堂に、場違いな悲鳴が響き渡った。私にぶつかった小柄な少女が派手に転倒している。
私は半歩よろめいただけだった。
しかし相手は、まるで馬車に撥ねられたかのように大きく体勢を崩し、手にしていた盆ごと床に倒れ込んだ。
陶器の割れる音。飛び散るスープ。
白い制服の胸元に、黄色い染みが無惨に広がっていく。
「ひ、ひどい……」
床にへたり込み、涙を堪えるように上目遣いで私を睨む少女。彼女こそが、異世界から召喚されたこの国の救世主、「聖女」リリナであった。
異世界から召喚され、この国に救いをもたらす存在。
黒髪に近い焦げ茶の髪は緩く波打ち、丸い瞳は濡れた小動物のように庇護欲を誘う。顔立ちは整っているが、貴族の令嬢とは違う素朴さがあり、それがかえって魅力的にうつるものらしい。
「どうした、リリナ!」
すかさず、周囲から二人の長身の青年が駆け寄ってきた。
一人は短い銀髪に琥珀色の瞳を持つ、凛々しい青年。
鍛えられた体躯に騎士服風の制服がよく似合う。「騎士団長の息子」ベルグ・ガヴァネル。
もう一人は長い藍色の髪を背に流した、繊細な美貌の青年。
伏せた睫毛は令嬢より長く、薄い唇には冷たい知性が宿っている。「魔導士長の息子」メイナード・アザガン。
「大丈夫です、ベルグ様、メイナード様。……シャーロット様も、きっと悪気はなかったんです。きっと、たまたま足が……」
リリナはそこで言葉を切り、体を小動物のようにぷるぷると振るわせた。
「シャーロット嬢」
メイナードが冷たい声で私の名を呼ぶ。
「いくら王太子殿下の婚約者とはいえ、聖女様にこのような真似をするとは」
「私は足などかけておりませんわ」
「また言い逃れをするのか!」
ベルグが一歩踏み出した。
次の瞬間、パァン、と乾いた音が食堂に響いた。頬に熱が走る。一拍遅れて、平手打ちされたのだと理解した。
周囲の学生たちが息を呑む。誰かが小さく悲鳴を上げた。
しかし、私は痛みに顔を歪めることも、怒りで声を荒らげることもしなかった。
――悪役令嬢は、人前で取り乱さない。
「ベルグ様。公爵令嬢に手を上げるとは、随分と勇ましいこと」
私は微笑んだ。
「その勇気を、いつか本物の戦場でも発揮できるとよろしいですわね」
「貴様……!」
ベルグが拳を握ったそのとき、食堂の扉が大きく開かれた。
「何事だ!」
アルト殿下だった。
彼はまず、床に座り込むリリナを見た。次に、濡れた制服。そして最後に、私の赤くなった頬。
ほんの一瞬だけ、彼の瞳が揺れた。けれど彼はすぐに「王太子」の顔になる。
「シャーロット。聖女に対する振る舞いとして、あまりに軽率だ」
「殿下、私は――」
「言い訳は後で聞く。リリナ、立てるか?」
アルトは自分の上着を脱ぎ、リリナの肩に掛けた。
リリナは潤んだ瞳で彼を見上げる。
「アルト様……ありがとうございます。私、怖くて……」
「もう大丈夫だ。保健室へ行こう」
アルトはリリナを支えるようにして歩き出した。
ベルグとメイナードがそれに続く。
学生たちの視線が私に刺さった。冷たい視線。蔑み。あるいは、退屈な日常に降って湧いた醜聞を喜ぶ好奇心。
私は背筋を伸ばし、扇を閉じた。
もちろん、私は足などかけていない。リリナの方からぶつかってきたのだ。
彼女が召喚され、学園に通うようになってから、こういう自作自演は日常茶飯事となっていた。
最初は、アルトへの過剰なスキンシップを私が注意しただけだった。
腕に抱きつくこと。愛称で呼ぶこと。人前で王太子の肩に頭を預けること。「聖女であっても、王族への礼節は必要ですわ」と、未来の王妃として少し厳しめに忠告した。
それ以来、リリナは私を「悪役」に仕立て上げることに決めたらしい。
……私が悪役令嬢を演じるまでもなく、彼女は自ら進んで悲劇の舞台を整えてくれるのは、少し助かるけども。
殿下にエスコートされ、二人の美男子に付き添われて食堂を後にするリリナ。彼女は去り際、私に向かって一瞬だけ、勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべた。
私は一人残され、ただ静かにその背中を見送った。
*****
「待ちなさいよ!」
その日の放課後。人気のない校舎裏へ続く渡り廊下で、私は乱暴に腕を掴まれた。
振り返ると、リリナが立っていた。昼間の儚げな聖女の顔はそこにはない。
唇を歪め、不遜な態度で私を見上げ、建物の陰へと引きずり込んだ。
「アンタ、悪役令嬢なんでしょう」
その言葉に、心臓が一拍だけ嫌な跳ね方をした。
だが、顔には出さない。
王妃教育とは、こういうときのためにある。
「悪役令嬢?」
私は心底不思議そうに首を傾げた。
「何ですの、それ。何かの劇の役名かしら」
リリナはじっと私を睨んだ。
やがて鼻を鳴らす。
「……ふん。転生者とか、そういうことじゃなさそうね」
「てんせいしゃ?」
「いいわ、知らないなら知らないで。ほんっと、使えない悪役令嬢」
リリナは腕を組んだ。
「あんた、いじめが生ぬるいのよ。おかげで全然ハーレムイベントが進まないじゃない。……攻略対象たちも優しいだけで、なかなか手を出してこないし。
普通、もっと誘拐とか、監禁とか、命の危機イベントとかあるでしょ?」
私は一瞬、絶句しそうになった。
誘拐。監禁。命の危機。彼女はそれを、お茶会で菓子の種類を選ぶような気軽さで口にした。
「……ここは現実ですわ」
「は?なんか言った?」
「万が一、あなたに取り返しのつかないことがあったら、どうするおつもりですの」
私の声は、自分でも驚くほど低かった。
リリナはきょとんとした後、馬鹿にするように笑った。
「何それ。悪役令嬢のくせに。……だって、あたしはヒロインだもん」
リリナは胸を張った。
「それに、この世界の聖女なんでしょ?あたし。
知ってるわよ。この国、あたしの聖力がないと滅びちゃうんでしょ?公爵令嬢だか王太子の婚約者だか知らないけど、あんたでさえあたしには絶対敵わないのよ。だからせいぜい、最後までちゃんと引き立て役を全うしなさいよ」
彼女の瞳には、狂気にも似た自己陶酔が渦巻いていた。
訳がわからず首をかしげるふりをする私に、リリナは呆れたように息を吐く。
「……まぁいいわ、来週は収穫祭があるし。きっと最大のイベントよね」
リリナは床を見ながらぶつぶつと呟いた。
「知ってる?あんたの婚約者の王太子様、あたしにエスコートを申し込んだのよ。ドレスもアクセサリーも用意してくれるんだって」
リリナは顔を近づけ、囁いた。
「婚約者をヒロインに取られる気分って、どんな気分?ねぇ、悪役令嬢様っ」
私は答えなかった。答えれば、抑え込んでいる感情が声の震えとなって表れそうだったからだ。
リリナは満足したように笑い、踵を返した。
その背中を見送る私の手は、扇の骨が折れそうなほど強く握り締められていた。
*****
収穫祭。
それは、一年間の実りを大いなる力に感謝し、祈りを捧げる神聖な祭りである。
日中には王都の広場で市民たちの活気あるバザーが開かれ、夜には王宮の大広間で貴族たちを集めた豪奢な夜会が催される。
煌びやかなシャンデリアが照らす大広間。その中心で、ひときわ目を引くのは王太子アルトにエスコートされたリリナだった。
彼女が身に纏っているのは、雪のように真っ白なシルクのドレス。純潔と聖性を象徴するその衣装は、彼女をまるで舞い降りた天使のように見せていた。
ーー黒いドレスを纏い、孤立する私とは、あまりにも対照的だ。
やがて、会場にファンファーレが鳴り響き、優雅なオーケストラの音楽がピタリと止んだ。
大広間の空気が張り詰め、すべての視線が正面の祭壇へと集まる。
「皆の者、聞いてほしい」
王太子アルトが、よく通る声で宣言した。
「今宵は収穫祭。この国に実りがもたらされたことを、大いなる力と、これまで身を捧げた乙女たちに感謝する夜である」
リリナは頬を紅潮させていた。
きっと彼女の頭の中では、次の台詞が決まっているのだろう。
婚約破棄。
断罪。
悪役令嬢の失脚。
そして、ヒロインの勝利。
「聖女リリナ・オオハシ。シャーロット・エディンバル。前へ」
リリナは弾むような足取りで壇上へ上がった。
私は、鉛のように重い足を一歩ずつ進めた。
壇上に立つと、リリナは当然のようにアルトの腕へ絡みつく。アルトはそれを拒まなかった。
「リリナがこの国に召喚されて、一年が過ぎた」
アルトの声が広間に響く。
「異なる世界より来たりし聖女よ。慣れぬ地で過ごす日々は、決して容易ではなかっただろう。王国は、そなたがこの一年をこの地で過ごしたことに感謝する」
「アルト様……」
リリナは感極まったように目を潤ませた。
「1年間、ありがとう、リリナ」
アルトは静かに言った。
「では、本題に入ろう」
その瞬間、広間の扉が開いた。
甲冑の音を響かせ、衛兵たちが入ってくる。
彼らは迷うことなく壇上へ上がり、リリナの両腕を拘束した。
「え?」
リリナの顔から血の気が引いた。
「え、なに?なんで?ちょっと、離してよ!」
白いドレスの裾が乱れる。真珠が揺れる。白百合の髪飾りが床に落ちた。
「アルト様?ねえ、アルト様!婚約破棄は?断罪イベントは?なんで私が拘束されてるのよ!」
アルトは悲哀に満ちた目で彼女を見つめた。
そして、告げた。
「――それでは、生贄の儀を始める」
私は衛兵から、儀式用の細身の剣を受け取った。
銀の刃は薄く、美しく、残酷なほど軽かった。
*****
「生贄……?何言ってんのよ!私は聖女よ!この国を救うヒロインなんだから!魔王の瘴気を払う聖力を持ってる、唯一の乙女なんでしょ?!」
床に押さえつけられながらも、リリナは叫び続けた。その姿を見下ろしながら、私はゆっくりと口を開いた。
「その認識は、正しいようで、少し間違ってますわ」
「は?!」
「魔王――『大いなる力』とも呼ばれるそれは、実体を持つ怪物などではありません。剣や魔法で倒せるようなものではないのです」
私の静かな声が、水を打ったように静まり返った大広間に響く。
「『大いなる力』とは、この世の概念。自然災害や、神そのもののような絶対的な法則。いかなる勇者であれ、聖女であれ、打ち倒すことなど不可能です。その大いなる力が発する瘴気を中和し、大地に実りを取り戻す唯一の方法。
それは、十六歳の乙女がその身と魂を捧げ、内なる聖力を解放すること」
「だ、だから!私は特別な力があるんでしょ!?生贄なんて野蛮なことしなくても……!」
「ええ、そうです。異世界から召喚された『聖女』は、この国の乙女の何倍、何十倍もの聖力を秘めている。だからこそ——」
私は、哀れな少女を真っ直ぐに見据えた。
「あなたのその強大な命を捧げることで、毎年の犠牲は『百年に一度』で済むようになったのです。
リリナ様。あなたは、この国を救うための、十人目の聖女なのです」
「は……?」
リリナの顔から、さっと血の気が引いた。
かつて毎年行われていた凄惨な生贄の儀式は、聖女召喚によって「百年に一度」へと劇的に減った。今日この日を祝う収穫祭も、本来は犠牲となった乙女たちへの慰霊祭である。
だが、聖女召喚にはひとつだけ残酷な制約があった。
――召喚してすぐの聖女では、生贄として成り立たないのだ。
聖力をこの世界に馴染ませるためか、大いなる力に「この世界の住人」と誤認させるためか。理由は定かではないが、ひとつだけ確実に分かっている掟がある。
『最低でも一年間、この世界で生活させなければならない』ということだ。
さらに厄介なことに、召喚される聖女にはある共通点があった。
彼女たちは皆、元の世界の神から「害悪」として弾き出された者たち。承認欲求が異常に強く、他者を見下す歪んだ性格の持ち主ばかりだったのだ。
彼女たちを一年間、逃亡させず、生贄という真実に気づかせず、この世界に定着させるためにはどうすればいいか。過去の先人たちは、歴代の聖女たちの言動から、彼女たちが「乙女ゲーム」という架空の物語の世界を望んでいることを突き止めた。
ならば、その夢を見せてやればいい。
その身を滅ぼして国を救ってくれる彼女たちへの、せめてもの感謝と、最後の幸せな思い出作りのために。
……それが、王国の出した結論だった。
王国は総力を挙げて「舞台」を用意した。
見目の良い男たちを配置し、彼女たちが望む言葉を与え、胸を躍らせるような出会いと事件を演出する。
しかし、ただ甘やかされ、愛されるだけでは、どうやら彼女たちの言う「ゲーム」は成立しないらしい。
彼女たちは望んだのだ。
自分の可憐さを際立たせるための、分かりやすい悪意を。
攻略者たちの庇護欲を煽るための、都合の良い障害を。
そして、ヒロインである自分をいっそう輝かせるための、憎まれ役を。
そのために追加された配役。
それが私――シャーロット・エディンバル。
「悪役」令嬢である。
「そんな……嘘よ。だってベルグは!メイナードは私のこと……!」
リリナが助けを求めるように視線を彷徨わせる。
しかし、群衆の中に立つ二人の青年は、先ほどまでの熱烈な表情を完全に消し去り、氷のように冷ややかな目で彼女を見ていた。
彼らは本物の騎士団長や魔導士長の息子ではない。王国が誇る、最高峰の俳優たちである。
――そう都合よく、権力者の息子たちが揃いも揃って彼女の好みの美男子であるはずがないのだ。
私は白刃を抜き放ち、リリナの前に立った。黒いドレスは、死にゆく者への哀悼を示す真の喪服。
「……今まで、聖力について具体的な説明をされなかったことに、違和感は覚えませんでしたか?あれほど『聖力が強い』と持て囃されていたのに、その力を使う場面が一度もなかったことに」
「だって……!ここはゲームの世界でしょ!?私が愛されれば、それで世界は浄化されるシステムなんじゃないの!?」
「いいえ」
私は剣の切っ先を、彼女の胸元へと向けた。
「ここは、現実の世界です」
その言葉が引き金となった。
「嘘よ!!嫌、嫌ぁぁぁっ!なんでこんなバッドエンドなの!?セーブからやり直す!もう一度最初からやり直させてよぉ!!」
鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして発狂するリリナ。その姿は、あまりにも滑稽で、あまりにも哀れだった。
私は静かに目を閉じる。聖女を生贄に捧げる場合、その儀式を執り行うのは「本来ならばその年に生贄となるはずだった乙女」と定められている。――つまり、私だ。
もし彼女が召喚されなければ、今日この祭壇で血を流し、大地の糧となっていたのは私自身だったのだ。
この傲慢で身勝手な異世界の少女は、私の代わりに死んでくれる。
だからこそ、どんなに心が痛んでも、私はリリナのための「悪役令嬢」でなければならなかった。
彼女を夢の中に留めるために。
彼女が最後まで、自分を物語のヒロインだと信じられるように。
――そして今、その夢を終わらせるために。
「ごめんなさい……あなたの犠牲を、王国は永遠に忘れません。どうか、安らかに」
覚悟を決め、目を開く。
剣を高く構える。リリナが絶望の悲鳴を上げ、白いドレスが震えた。
その向こうに、豊かな麦畑が見えた気がした。腹を空かせず眠る子供たち。老いた農夫の笑顔。秋の市場に並ぶ果実。
この刃がもたらす、百年分の命。
私は息を吸った。
――そして、剣を振り下ろした。
*****
収穫祭の夜から三日後、王都には柔らかな雨が降った。
瘴気を洗い流す、清めの雨だと人々は言う。
王宮の庭園では、黒ずんでいた薔薇の葉が瑞々しい緑を取り戻し始めていた。春にはまだ遠いというのに、土の匂いはどこか甘い。
私は東屋に座り、雨に濡れる庭を見ていた。
剣を握った掌に、刃の感触がまだ残っている気がした。
「シャーロット」
背後から声がした。振り向かなくても分かる。
アルトだった。
「隣に座っても?」
「王太子殿下に、私が許可を出す必要がありますの?」
「君には、いつだって特別に許されたいんだ」
冗談めかした、けれど確かな愛情の籠もった声。アルトは私の隣に腰を下ろし、そっと私の右手を取った。かつて剣を握り、重い決断を下したその手を、彼は両手で包み込むように大切に握りしめた。
「君に、あまりにも重い役目を背負わせてしまった」
「殿下……」
「君が剣を振り下ろした瞬間、僕は思った。君にこんなことをさせるくらいなら、王太子になど生まれたくなかったと」
「……」
「けれど、それでも僕は止められなかった。国を選んだ。民を選んだ。君の心より、百年の安寧を選んだ」
「それが王族ですわ」
私は雨に視線を戻した。
「私も、国を選びました」
アルトがこちらを見る気配がした。
「リリナ様は、私の代わりでした。それは事実です。けれど、あの方が完全な無垢であったとも思いません」
彼女は自分をヒロインだと言った。誰かを傷つけても構わないと笑った。私を踏み台と呼び、私の命さえ、自分が幸せになるための小道具のように扱った。
その言葉を忘れるほど、私は聖人ではない。
「私は、あの方を憎みきれませんでした。ですが、哀れむだけでもいられませんでした」
「シャーロット」
「だから、今はこう思っています」
私は、かつて剣を握りしめていた自分の両手を見下ろした。
「あの方は、この国を救った聖女です。そして同時に、自分以外の人間を物語の道具だと思い込んだ、愚かな少女でもあった。――そのどちらも、なかったことにはしません」
アルトは静かに頷いた。
「……そうだね」
「百年あります。ならば、その百年で次の道を探すべきです。聖女召喚にも、生贄にも頼らずに済む方法を」
私は顔を上げた。
庭の薔薇は、雨に打たれながらも確かに息を吹き返している。
「君となら、探せる気がする」
そう言うと、アルトは少しだけ目を見開き、それから久しぶりに笑った。誰かに見せるための演技ではない、柔らかな、本来の彼の笑みだった。
私はその笑みに、胸の奥が少しだけほどけるのを感じた。
悪役令嬢の役は終わった。けれど、私たちの物語はここから続いていく。
豊かな巻き毛も、釣り上がった紫の瞳も、公爵令嬢という立場も、王太子の婚約者という肩書きも。すべて使って、この国を変える。
いつか、誰も生贄にならずに済む世界へ。
雨は静かに降り続いていた。
大地を潤し、瘴気を洗い流し、やがて来る春のために土を柔らかくしていく。
私はアルトの手を握り返した。その温もりは、もう失わずに済む未来の証のように思えた。
お読みいただきありがとうございます!
--ちょっとした補足とか--
・冒頭、アルトが喜んでいるのは、自分の愛する婚約者が生贄にならずに済む未来への安堵が大きかったからです。
・本文の『なぜなら、聖女が現れたということは、いよいよ私が「悪役令嬢」としての最終幕を演じきらなければならない――そういう意味なのだから』これは、"最終幕"ともある通り、悪役令嬢を演じなければならないことを嘆いているとと言うよりは、最後自分が少女を剣で切らなければならないことによる嘆きです。
基本的に本文中で彼女の心が揺れ動いているのは、「なんの罪もない少女をこの手で斬らなければならない」ことに対してです。
ネタバレ状態で本文をもう一度読むと、シャーロットの独白の意味が違って読めるかもしれません。
・ベルグはただの俳優なのに公爵令嬢を平手打ちしてますが、不敬にはならないです。ちゃんとそういう場面があってもいいように、シャーロットと「ちょうどいい強さの平手打ちの訓練」をしてます。
・学園の生徒は一般生徒もいます(そこまで大勢1年間拘束できない)。ですが、聖女の周りはちゃんと俳優で固めるように動いています。王太子役は流石に代役が難しいので本人が頑張ってます。悪役令嬢役も誰でもよかったのですが、勿論誰も手を挙げません。だが自分の代わりに死んでくれる令嬢の"夢"ため、シャーロット自ら立候補しました。
・「騎士団長の息子」ベルグ・ガヴァネル。とか、役名を強調したい時は「」を使ってます。
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初めて、ビターハッピーエンド?みたいなのを書いてみました。いや、ハッピーエンドなのかな?うーん。
少しでも面白い!と感じていただけたら★評価、ブクマしていただけると喜びます!




