炎の洗礼
この感覚を、どう言葉にすればいいのだろう。
おそらくこれは、自分たちが守護すべき通常人類には理解できないものだ。ネフィリムの一般種や中位種が、上位種に絶対的に従うそれに近いのかもしれない。
ハルファスはネフィリムと戦うために、それを創り出した技術を使って生み出された。
そんな自分たちが、人の手によらずしてこの世に生まれたフェンリルを見て歓喜に震えるのは、もしかしたら皮肉なことなのかもしれない。
だが――どうしようもない。
本当に、嬉しくてたまらないのだ。
あの青年の姿をした少年が今、自分たちとともに生きていることが。
陽人は小さく息をついた。
「それは、ダメだろ。そんなことになったら、あいつは『人類の希望』じゃなくなっちまう。あいつは――おれらもだが、人類が作ったものを食って、着て、人類が造ったモンの中で生きてんだ。人類が滅びたら、あの子だって生きていけねェ」
「わかってる。私はもう、納得して割り切っている。フェンリルを生かすために、人類の存在は不可欠だ。だから、私は彼のために人類を守る。……私たちは、幸運だ。だが、ほかのシェルターに配属されている仲間たちは、フェンリルに会わないままのほうが幸せかもしれない」
だな、と陽人はつぶやく。
フェンリルとともにある歓喜を知ったからこそ、自分たちが覚えてしまったもの。
それは、彼を失う恐怖だ。
こうして、そばにいられるならいい。
どんな危険が降りかかろうとも、必ず守る。
たとえ自分の力が及ばず守りきれずとも、彼よりあとに自分が死ぬことだけはない。
彼を渇望してやまない心が、その喪失を知ることはない。
だがもし、自分がそばにいないときに、自分の知らないところで彼が失われてしまったら――なんて、想像するだけで心臓が凍る。
「まあ……。どっちにしろ、なるようにしかならねェよ。つーか、まずは『ワダツミ』まで無事にあいつを連れていかなきゃ、おれらがこうやってぐだぐだ話してることも、全部無意味な絵空事だ」
芽依は、横目で陽人を見た。
「陽人」
「なんだ?」
ハルファスの子どもたちは、ネフィリムの恐ろしさを、いやというほど知っている。
まだ資料でしか学んだことのない上位種ともなれば、中位種以下のあらゆるネフィリムを支配下に置ける特性といい、固有のすさまじい特殊能力といい、今まで相手にしてきた個体とはまったく別種の存在といっていいだろう。
だが――。
「なんでだろうね。私は今、相手がたとえ上位種のイスラフィールタイプだろうが、負ける気がまるでしない」
陽人は一瞬虚を突かれた顔をしたあと、くくっと肩を揺らした。
「慎重がウリの『レオパルト』の言うこととも思えねえが……。ぶっちゃけ、おれもだ。あいつが、そばにいるからかな」
うなずいた芽依は、再びちらりと陽人を見た。
「そういうわけで、一度おまえを殴ってもいいだろうか」
「そーゆーわけって、どーゆーわけ!?」
見た目は少女の細腕でも、それはしなやかな猛獣の筋肉をまとっているのだ。まともに食らっては、ただではすまない。
反射的に彼女から距離を取るべく高機動車のドアに張り付いた陽人に、芽依はひょいと小首を傾げた。
「今朝フェンリルと挨拶をしてから、妙に気分が高揚している。それはつまり、私自身が通常と同じ判断をできる冷静さを欠いているということだ」
「うん。そうやってちゃんと自己分析できている時点で、おまえは立派に冷静だと思うのですがどうですか」
陽人がじわじわと額に汗を滲ませる。
芽依は淡々と続けた。
「いいや。『レーヴェ』のおまえとこうして長時間会話をしているというのに、まるで不快さを感じていない。どう考えても、今の私は異常だ」
「おまえ、どんだけおれのこと嫌いなのさ!?」
芽依が、ものすごく意外そうな目で陽人を見る。
「私は、嫌悪するほどおまえと親しくなった覚えはないぞ。ただ、私たちは――『レオパルト』は基本的に、おまえたち『レーヴェ』や『ヴォルフ』よりも遙かに、集団行動におけるコミュニケーションスキルが低いんだ。それくらい、知っているだろう」
陽人は重々しくうなずいた。
「そうですね。普通の会話の最中にいきなり殴ってもいいかー、なんて訊かれた今、おれはそれをひしひしと実感しています」
「あきらめろ。私たちは、そういうふうにできている。……話が脱線したな。まあ、なんだ。いつもの私なら、今の状況であれば間違いなくおまえにイラついて、少し黙っていろと殴り飛ばしていると思うんだ」
それだけですべてを説明した気になっているらしい『レオパルト』の少女に、陽人は思わず半目になる。
「だから、その『いつも通りの自分の行動』をトレースすれば、普段の調子を取り戻せるかもしれん、とおまえは言いたいわけか?」
「その通りだ。理解が早くて助かる」
満足げに彼女はうなずいたが、誰も殴らせてやるとは言っていない。
びしっと片手を挙げた陽人は、厳かに告げた。
「残念ながら、おれは殴られて喜ぶ被虐趣味の持ち主ではない。精神統一をしたいのであれば、自分の努力でどうにかしてくれ」
「……そうか」
芽依が心底残念そうにため息をつく。
陽人は、理不尽にどつかれる危険を回避したにもかかわらず、非常にいやな気分になった。
(コイツ……マジでおれを、危ない被虐趣味の持ち主だと思ってたわけじゃねェだろうな)
まさかとは思うが、彼女のあまりに残念そうな様子がどうにも気になる。
じっとりとハンドルを握る少女の横顔を見つめたとき、車両無線から六花の声がした。
『――第一車両。こちら、ヴォルフ1。そろそろ、先遣隊のイスラフィールタイプ遭遇地点だ。センサーの感度をすべて最大にしろ』
了解、と応じた陽人が、高機動車に搭載されているセンサーを操作する。
煌めく砂に覆われた大地は、太陽光で表面が高温になることも多く、サーモセンサーはほとんど役に立たない。
彼らが主に注意を払うのは、ネフィリムの脳波を感知するために開発された特殊なものだ。
『ただし、イスラフィールタイプがフェンリルの言葉通り砂の中で休眠期に入っている場合、センサーが感知しないことも予想される。イスラフィールタイプの体長は、八メートルから十三メートル。砂溜まりには――』
六花の声が、不自然に途切れた。
同時に、芽依が高機動車を崩壊したビルの陰に寄せる。
壮志の操る第二車両もそれに続き、二台が停止するのと同時にメンバーたちは高機動車から飛び出した。
六花の鋭い声が飛ぶ。
「総員、高機動車を守れ!」
彼女の発した命令に、『ヴォルフ』以外のメンバーが揃って「へ?」と気を削がれた顔になる。
センサー画面の中に突如現れたのは、38体のネフィリム反応。
数種類の一般種と中位種が入り交じった反応が、イスラフィールタイプの支配圏と思われるポイントで出現した。
それは、彼らがひとつの群れを形成する個体だということだ。おそらく、群れのリーダーであるイスラフィールタイプが休眠期に入ったため、群れ全体がそれに同調していたのだろう。
親玉本体の反応は、まだ感知されていない。
イスラフィールタイプが目を覚ます前に、その支配下にある個体をできる限り討伐してしまわなければならないはずなのに――。
「拓己。ホラ、しっかりしろって。寝ぼけてんじゃねーぞ」
「あぁ……? 体力温存のために、できるだけ寝てろって言ったの、そっちじゃん……」
第二車両の後部座席から聞こえてきたのは、そんな緊張感のかけらもないやりとり。
そして、カーキ色の車体からサポート役の冬騎とともに出てきた人類の希望は、どうやら寸前まで夢の中だったようだ。
高機動車の周囲には、人間のにおいに引かれたネフィリムが次々に集まってきている。
飢えきった獣の群れが、自分たちを捕食せんと近づいてくる。
メンバーたちが、それぞれの武器を持つ手にぐっと力をこめたときだった。
「死ねよ」
ひどく醒めた声での宣告と同時に、すべてのネフィリムの体が燃え上がる。
断末魔の絶叫。生きた獣の肉が焼ける悪臭。
絶命した個体から次々に砂に変わっていくが、その前に焼かれた体の一部はそのまま残る。
それらの残骸を呆然と見つめていたメンバーたちの耳に、再びのほほんとした声が届く。
「冬騎。これで終いか?」
「ああ。ただ、そろそろイスラフィールタイプの出現予測地点だ。いつでもイヤープロテクターをつけられるようにしておけよ」
ういっす、といい子のお返事をする青年を見つめていた芽依が、携帯センサーの液晶画面を確認している六花を、ぎこちなく振り返る。
「六花……? こんな、一瞬なの……?」
たしかに目の前で起こった現実なのに、いまだに信じられない。
フェンリルは――自分たちが従うべき人類の希望は、強力な中位種を含む38体ものネフィリムを、こんなにも呆気なく屠ってしまえるのか。
歓喜とも陶酔ともつかない感情に呑まれたメンバーたちに、チームリーダーの少女はあっさりと答えた。
「今のところ、フェンリルの精神状態は安定している。戦闘資材の損耗を抑えるために、彼の能力が使える間は極力戦闘を避けてちょうだい」
「……イエス、マム」
拓己の異能をはじめて目の当たりにしたメンバーたちが、機械的に首肯する。
六花は、軽く肩を竦めて口を開いた。
「安心していいわ。あなたたちは、死なない。フェンリルが、あなたたちを『冬樹の仲間』だと認識したもの」
え、と目を瞠った彼らに、六花は告げる。
「彼の能力は、底なしよ。休眠期のイスラフィールタイプくらい、すぐに始末してくれるわ。……教官たちの前では、こんなこと言えなかったけどね。本当は、彼にわたしたちの護衛なんて必要ないのよ」
戦場で――いつネフィリムの群れが現れるかわからない状況で、くすくすと楽しげに笑いながら。
「わたしは今回のミッションで、一生彼のそばにいる権利を、確実に自分のものにする。いつか、彼を守って死ぬために。……あなたたちは、どうするの?」




