第五話
三日後、澄乃は再び颯介と一緒に静花の部屋を訪ねた。
「……少し、食欲が出てきた気がするわ。食事も……いつもより美味しく感じて……」
静花は素直ではなかったが、そう言った顔色が、わずかだが良くなっていた。
「手足の痺れは」
「昨日はあまりなかった、と思う」
澄乃は静かに安堵の息を吐く。
「引き続き飲み続けていただけますか。少しずつ改善するはずです」
静花は澄乃を見たその目には、これまでのような剥き出しの敵意はなく。
何か別のもの——困惑とも、認識の揺らぎとも取れるものが、そこに宿っていた。
「……なぜ、あなたがこんなことをするの」
澄乃はその問いにしばらく考えてから、答えた。
「静花様が苦しんでいると知って、知っている者として何もしないでいることはできませんでした。それだけです」
静花は何も言わなかった。
しかしその目が、わずかに揺れた。
澄乃から話を聞いた翌週、颯介は独自に調査を始め、内務省の人脈を使い、柴田という医師の経歴を調べた。
柴田三郎。
大阪出身の四十二歳。
医師免許は持っているが、もとは小さな診療所を営んでおり、様々な訴えを受けて何度か場所を移しているという記録があった。
御堂家に来るようになったのは、蓮子が後妻として入って来た七年前からのことである。
颯介はさらに、蓮子と柴田の関係について調べた。
結果は、一月もかからずに出た。
柴田三郎と御堂蓮子は、七年以上にわたって不倫関係にあった。
柴田が御堂家の出入りを許されるようになったのも、蓮子の取り計らいによるものだった。
颯介は書斎でその報告書を読みながら、長い間黙っていた。
澄乃は颯介に呼ばれ、書斎を訪ねた。
「読んでくれ」
颯介は報告書を差し出した。
澄乃は読みながら、胸の中に冷たいものが流れた。
蓮子と柴田の関係は明白だった。
しかしそれ以上に、澄乃が気になったのは静花の薬の記録であった。
「旦那様、この記録をご覧ください。静花様の薬の処方が変わっている時期があります」
澄乃は報告書の一部を指さした。
「三年前から、処方の内容が変わっています。それ以前の処方は比較的妥当なものに見えますが、この時期を境に、先日私が問題視した成分が加わっています」
「三年前というと」
「柴田先生が静花様の主治医として頻繁に来るようになった時期と重なります」
颯介の顔が、かすかに青ざめた。
澄乃は静かに続けた。
「医学的に確認が必要ですが……もし意図的に静花様を弱らせ続けるような薬が投与されていたとしたら、それは医師として決してあってはならないことです」
「——つまり。柴田は、静花を故意に弱らせていた、ということか」
澄乃は颯介の目を見た。
「確認が必要です。ただ、私には……そう疑わずにはいられません」
子の病気を偽り、あるいは作り出し、周囲の同情と注目を集める——そういう行為が起きうることは、洋書の医学書にも記述されていた。
澄乃が以前読んだ書物の中に、似たような事例を記述したものがあった。
それを颯介に説明した時、颯介は長い間何も言わなかった。
澄乃は言葉を選んで続けた。
「蓮子様が静花様の病気を使って、この家での地位と旦那様の注目を繋ぎ留めようとしていた可能性があります。先代公爵様がお亡くなりになり、旦那様が家を継がれてから、蓮子様の立場は弱くなっていきました。旦那様が妻を迎えることになれば、さらにその立場は不安定になる」
「だから静花を」
「あくまで推測です。でも、もし柴田という医師が意図的に静花様を弱らせ、蓮子様がそれを利用していたとしたら……静花様自身も、長年その中に置かれ続けていたことになります」
颯介は椅子の背もたれに深く身を預け、天井を見た。
「静花は……静花は、何も知らずに……」
「はい。静花様は犠牲者です」
颯介は片手で顔を覆うと、しばらく、書斎に沈黙が満ちた。
颯介が動いたのは、翌日のこと。
彼は医師の知人——帝国大学医学部の教授と懇意にしており、その人物に静花の診察と薬の分析を依頼した。
教授は二日後に御堂家を訪れ、澄乃も同席し静花を丁寧に診察した。
教授の結論は明快だった。
「この処方は、長期服用した場合、消化器機能の低下と全身倦怠を引き起こします。意図的かどうかはともかく、この薬が体に悪影響を与えていたことは疑いようがありません。直ちに服用を中止し、改善のための薬方に切り替えるべきです」
教授が帰ったあと、颯介は玄関ホールに使用人を集めさせた。
宮部老執事を先頭に、女中、書生、庭師までが一列に並ぶ。静花の部屋付きの女中たちも、顔色をうかがいながら列に加わった。
颯介は階段の下に立ち、澄乃の隣へ半歩寄せると、静かに言った。
「今日から、静花の療養も、この家の采配も、すべて私の責任で改める。――そして、御堂澄乃は御堂家の奥方である。以後、奥方の指示は私の指示と同じく扱うように」
一瞬、空気が止まった。
颯介は続ける。
「澄乃を軽んじる言動は、今後いっさい許さない。無礼があれば私に報告しろ。見過ごした者も同罪とする」
澄乃は驚いて颯介を見た。
颯介は澄乃を見返さず、ただ当主として淡々と命じた。
それだけで、列の端にいた女中が小さく息を呑むのが見えた。
颯介はその日の夕刻、蓮子と柴田を書斎に呼んだ。
澄乃はその場には同席しなかった。
颯介から「お前は同席しなくていい」と言われたからである。
しかし書斎から離れた廊下にいた澄乃には、時折颯介の声の断片が届いた。
低く、しかし確かな怒りを含んだ声。
蓮子の声は聞こえなかった。柴田の声も、聞こえなかった。
一時間ほどして、書斎の扉が開くと、蓮子が出てきた。
その顔は白く、目が赤かった。
澄乃とすれ違った時、蓮子は一瞬立ち止まったが、何も言わずに廊下を歩いていった。
柴田は、御堂家との契約を解除され、二度とこの家に来ないことを約束させられたという。
蓮子については、颯介が一つの選択を与えた。
事実を公にするか、静かに御堂家を去るか。
蓮子は後者を選んだ。一週間後、蓮子は御堂家を出た。
静花は、しばらく何も知らなかった。
颯介が静花にすべてを話したのは、静花の体が少し回復してからのことである。
澄乃はその話し合いにも同席しなかった。
しかし後で颯介から聞いた。
「最初は信じなかった。母親が自分を故意に弱らせていたなんて、信じたくなかったんだろう。でも、証拠を見せたら……泣いた。長い間、泣き続けた」
颯介自身も、声が少し震えていた。
「静花様は何も悪くないです。ずっと囲いの中に置かれていただけです」
「そうだな」
「お体が回復すれば、世界が変わると思います。今まで制限されていたことが、少しずつできるようになっていきます」
「お前のおかげだ、本当に」
静花の回復は、想像以上に早く、澄乃の薬を飲み続けて一ヶ月が経つ頃には、食欲が戻り、顔色が明るくなり、部屋の外を歩けるように。
それまで「体が辛いから」と外に出ることもほとんどなかった静花が、庭を歩けるようになったのである。
ある晴れた日の午後、澄乃が縁側にいると、静花がそこへ来た。
珍しいことだった。静花が自分から澄乃に近づいてくることは、これまでなかったから。
「……澄乃さん」
静花は少し迷うような顔で、澄乃の傍に腰かけた。
「はい」
「私、ずっと澄乃さんのことが嫌いだった」
率直な言葉に、澄乃は苦笑した。
「存じております」
「お兄様を取られると思っていたから。お兄様が私を見てくれなくなると思っていたから。でも……本当は、ずっと怖かったんだと思う。知らない人が来て、私のお兄様が変わってしまうことが怖かった。母が……母が、いつもそう言っていたから」
澄乃は静花の横顔を見た。
「あなたが来てから、お兄様が変わった。あなたのことを気にするようになった。私じゃなくて、あなたの方を」
——それは蓮子が静花に言い聞かせた言葉だったのかもしれない。
「静花様。旦那様は、あなたのことをとても大切にしています。それは変わりません」
「……でも、澄乃さんのことも大切にしているでしょう」
「……」
静花は少し頬を赤くしながら、続ける。
「それでいいんだって、今は思っています。最初はそう思えなかったけど……澄乃さんが、私のために薬を作ってくれたから。体が楽になって、庭を歩けるようになって、初めてわかった。病気でいることが当たり前じゃなかったんだって」
「静花様……」
「怒ってない?私、ひどかったでしょう」
「怒っていません」
「本当に?」
「本当に」
静花はしばらく黙って、庭の木を見ていた。
「私、もっと元気になりたい。学校にも行ってみたい。友達も作ってみたい。今まで、そういうことを考えたこともなかった。体が弱いんだから仕方ないって、思わされていたから」
「きっとできます。静花様の体は、ちゃんと快方に向かっています。春になる頃には、ずっと良くなるでしょう」
静花は、初めて澄乃に微笑んだ。
小さな、はにかんだような笑顔。
それを見て、澄乃もまた微笑んだ。
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