第一話
晩秋のことであった。
桐島澄乃が御堂公爵家への縁談を告げられたのは、色付いた銀杏の葉が庭先に積もる、穏やかな午後のこと。
「澄乃、お前に縁談が来た」
父桐島宗太郎の書斎は、薬の匂いがかすかに染み付いている。
桐島家は代々、薬種問屋を営む子爵家であった。
薬を扱う商いゆえ、華族社会においていささか異端な立場ではあったが、その実直な商売と質素ながらも品のある家風は、一部の名家から一目置かれていた。
「縁談、でございますか」
澄乃は父の言葉をゆっくりと反芻した。
二十歳になる澄乃にとって、縁談という言葉は決して遠いものではなかった。
むしろ、これまで幾度かの話があり、そのたびに何らかの事情で流れていた。
「御堂公爵家からだ」
宗太郎の声はどこか重い。
澄乃は思わず背筋を伸ばした。
御堂公爵家といえば、旧来の大名家の血を引く名門中の名門である。
政財界に広く人脈を持ち、現当主・御堂颯介は帝都でもその名を知らぬ者がいないほどの人物だという。
齢二十四。東京帝国大学を優秀な成績で卒業し、今は爵位を継いで家を取り仕切りながら、内務省にも深く関わっていると聞く。
「なぜ、我が家に」
澄乃の疑問は正直なものであった。
格の違いは歴然としている。
子爵家の娘が公爵家へ嫁ぐというのは、異例といっていい。
宗太郎は少し間を置いてから口を開いた。
「御堂様には、妹御がいらっしゃる。静花様とおっしゃって、お体が大変お弱い方でな。その妹御のお世話ができる、穏やかで聡明な女性をということで、うちに話が来たのだ」
澄乃はその言葉の意味を、ゆっくりと咀嚼した。
つまり、主な役割は公爵の妻というよりも、病弱な妹君の世話役に近い、ということだろうか。
「お前は幼い頃から薬の扱いを知っておる。雪江の病気のこともある。きっとお役に立てると、仲介の方がおっしゃってくださった」
澄乃の母である雪江は、澄乃が生まれてからずっと病がちであった。
体の弱い母のそばで、澄乃は自然と薬の知識を身につけた。
父が店で扱う様々な生薬の名前を覚え、どの症状にどの薬が効くかを学び、母のために薬を調合することもあった。
それが、今この縁談に繋がっているとは。
「嫌というなら、断ることもできる」
宗太郎の言葉は優しかった。
強いる気持ちはない、という父の誠実さが滲んでいた。
澄乃は少し考えた。
恋愛の相手が決まっているわけでもない。
この時代、女の縁談は家と家の話。
そして御堂家ならば、母の治療に良い薬を手配してもらえる可能性もある。
「受けさせていただきます」
澄乃は静かに頭を下げた。
縁談が正式に整ったのは、それから二月ほど後のことである。
その間、澄乃は一度だけ御堂颯介と対面した。
帝都の料亭で行われた顔合わせは、形式的なものに終始した。
颯介は確かに噂通りの人物であった。
背が高く、端整な顔立ちをしており、纏う雰囲気は静謐でどこか近寄りがたい。
澄乃が頭を下げると、彼もまた丁寧に応じたが、その目は澄乃をまっすぐ見ているようで、どこか別のところを見ているようにも感じられた。
言葉数は少なく、彼の代わりに多く語ったのは、御堂家の執事宮部老人と、仲介の役を担った旧知の方であった。
澄乃が唯一、颯介と直接言葉を交わしたのは、帰り際のことである。
「静花のことは、どうかよろしく頼む」
颯介はそう言った。
声は低く、穏やかで、しかしその言葉には何か切迫したものが含まれているように感じられた。
「はい。微力ながら」
澄乃がそう答えると、颯介はわずかに頷いた。
笑顔はなかった。
しかしその横顔に、深い疲れのようなものが透けて見えた気がした。
これが、澄乃と颯介の、縁談における唯一の会話であった。
梅の花が咲き始めた頃、桐島澄乃は御堂颯介のもとへ嫁いだ。
御堂家の邸宅は、山の手の高台に建つ広壮な洋館。
玄関の扉を開けると、磨き上げられた大理石の床と、高い天井から下がる大きなシャンデリアが澄乃を迎えた。
庭は広く、松と樫の古木が整然と並ぶ。
使用人たちは礼儀正しく、澄乃を「奥様」と呼んだ。
しかし彼女には、自分がこの家に本当に属しているのかどうか、どこか掴みどころのない感覚が拭えなかった。
「よくいらっしゃいました、奥様」
宮部老執事が深々と頭を下げ、その後ろに控えた女中たちも、一列に礼をする。
颯介は玄関で澄乃を迎えると、「部屋に案内するように」と宮部に短く言い、自身は書斎の方へ向かってしまった。
澄乃が案内されたのは、洋館の二階にある広い洋室。
調度品は上等で、窓からは庭が見渡せる。申し分のない部屋。
その窓の向こうから、澄乃はかすかな声を聞いた。
「お兄様……お兄様はどこへ?」
少女の、甘えるような声。
女中の一人が小声で教えてくれた。
「静花お嬢様でございます。向かいのお部屋においでで」
礼儀は整っている。けれど、距離がある。
澄乃が廊下で「湯を少し頂けますか」と声をかけると、女中は「かしこまりました」と答えながらも、視線は澄乃ではなく、澄乃の背後の扉――静花の部屋の方へすべった。
その夜、食堂で配膳された皿はいつも澄乃の前だけ、ほんの少し遅かった。
冷めてはいない。だが、温かさの中心から外れている。
「奥様は……お忙しい方ですから。静花様のことで」
誰かが小声でそう言ったのを、澄乃は聞かなかったふりをした。
ただ、窓の外の枯れた庭木をしばらく眺めた。
結婚式は親族のみを招いた、つつましやかなものであった。
颯介は式の間中、凛とした表情を崩さず、澄乃の隣に立ち、決められた言葉を述べ、決められた所作を行う。
それだけであった。
視線が合うことは一度もなかったと言えば嘘になる。
しかし彼の目に映っているのが澄乃であるかどうかは、澄乃にはわからない。
宴が終わり、客が帰り、夜が静けさを取り戻した頃。
澄乃は寝室で颯介を待っていた。
花嫁衣装を脱し、宮部老人の妻が整えてくれた白い着物に着替えて、澄乃は静かに座っていた。
結婚初夜。
この夜から、自分は御堂颯介の妻になる。
澄乃は息を整えようとした。緊張している。
それは当然のことである。
しかし、それ以上に何かを感じていた。
期待とも、不安とも異なる、もっとぼんやりとした感覚。
颯介が部屋に入ってきたのは、夜も更けた頃。
彼は澄乃を見た。澄乃も彼を見た。
何かが始まろうとした。その瞬間だった。
廊下から、泣き声が聞こえてきた。
「お兄様!お兄様っ!」
甲高い声。子供のように泣きじゃくる声。
それは静花の声だった。
颯介の顔色が変わり、すっと立ち上がると、ドアに向かった。
「旦那様」
澄乃が呼びかけると、彼は振り返らずに言った。
「静花が……少し待っていてくれ」
少し。
その「少し」が戻ってくることは、その夜はなかった。
廊下越しに、澄乃には声が聞こえた。
静花の泣き声と、颯介の低い声が交互に続いていた。
「お兄様は私などどうでもよくなったのですね!あの人が来てから、私のことなんてどうでもいいんでしょう!私、死んでしまいたい!」
「静花、落ち着け。お前のことをどうでもいいなどと思ったことは一度もない」
「嘘です!だってお兄様は今夜……今夜……!」
澄乃は膝の上で手を重ねた。
部屋の中に、夜の静けさだけが残っていた。
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