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自分さがし  作者: 恵梨奈孝彦


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自分はいない どこにもいない

 不正にアクセスしたこの報告書を見て、というか報告書を感じて、わたしはこう思ったんですよ。「自分なんかこの世に存在しないんじゃないか」ってね。

 

 わたしは確かに事業に失敗しました。大勢の人がわたしを信用して貸してくれたお金を返すこともできませんでした。家族が住んでいた家も取り上げられました。自己破産もしました。妻と娘にも捨てられました。


 だけどいちばん辛かったのは、そういうことになったことそのものよりも、そうなったことを「みっともない」と思い続けたことなんです。誰もそんなことを言ってないのにね。だから死のうとした。だけど怖くて死ねなかった。だからあの報告書に接触したんです。報告書に接触した一人が自殺、一人が発狂したことは知っていました。たとえ死ねなくても、発狂して何もかもわからなくなってしまうのなら、それもいいと思ったんです。


 しかし「自分なんか存在しない」と思えて、ものすごく楽になったんです。あの死刑囚のように。自分はいない。事業に失敗した自分はいない。借金を返せなかった自分はいない。家を失った自分はいない。自己破産をした自分もいない。家族に捨てられた自分もいない。毎日アルバイトをしてのその日暮らしをしていれば、それは嫌なこともありますよ。だけど、「そんなストレスを受けている自分なんかいない」と思えば、落ち着いて生きていけます。


「おまえはそれでいいかもしれないが、家を失った家族はたまったもんじゃないな」


 そんなことを言われても全く平気です。なにしろ「悪口を言われている自分」なんかどこにもいないのですから。あの報告書のおかげです。あれがただのペーパーで、あの理屈だけが書かれていたら、きっとこんな気持ちになれなかったでしょう。しかし実際には、まるでR博士やあの死刑囚本人になったかのように、「自分はいない」という彼らの気持ちが直接流れ込んでくるんです。わたしが救われたのはそのおかげです。やはりR博士は「Qシステム」を完成させていたのでしょう。


「R博士の自宅からはそれらしいものは一切発見されなかった」


 それは、失踪する前に処分したとも考えられますね。


「おまえは、R博士も死刑囚も『存在しない』と思っているみたいだが、その報告書に出てくるような、司法取引済み死刑囚の該当者はいない。現実に『存在しない』んだ。しかしR博士は公安の記録にしっかり存在している。つまりあの死刑囚は、R博士の幻想、妄想にすぎない。あの男がR博士の潜在的な欲望かどうかなんかはわからないが、彼女が作り出したものには違いない。死刑囚の独白に『木々が根っこでつながっている』なんていう、事実ではないことが含まれているのは、無教養な男らしい個性を出そうとしていたんだろうが、『個体』とか『存在』とか、ああいう男が使いそうもない単語が独白に含まれているのは、R博士の空想の限界なんだろう。R博士自身のように、博士の報告書に関わって不幸な目に会っているのは、『自分を大事に思っている』者だ。おまえや報告書の中の死刑囚のように『自分なんかクズなんだ』と思っている奴こそ救われる。いや、救われたような気になる。だけど記録が存在している以上、『R博士が存在しない』なんていうのはただの与太話だ。おまえらはそんな『ウソ』によりかかって生きてるんだ。情けないとは思わないのか」


 その「記録」を見たのは誰ですか。


「この眼ではっきりと見た。彼女が失踪したことが信じられなくて、何度も確認したんだ」


 未来が想像の中にしかないように、過去は記憶の中にしかない。


「何が言いたいんだ」


 R博士はあなたの記憶の中にしかいないわけです。


「そんなことはない。記録の中に存在している」


 つまりR博士は、あなたの「記録を見た」という記憶の中にいるわけですね。


「何を屁理屈言ってるんだ!」


 われ思うゆえにわれあり


「それがどうした」


 自分の「思い」こそが自分だとしたら、自分を形作っているのは「記憶」ということになります。


「だから、何が言いたいんだ!」


 あなたは本当に存在するんでしょうか。


「なに言ってるんだ!」


 あなたが存在しなければ、あなたの記憶も存在しない。あなたの記憶が存在しなければ、R博士も存在しない。


「おれが存在している証拠に、一発殴ってやろうか?」


 それが、あなたが存在している証拠にならないことは、報告書の死刑囚が証明しています。


「ああ言えばこう言いやがって。おれにとってR博士は、報告書で『感じられる』ような、ぼやっとしたものじゃないんだ」

 

 報告書で感じたことは、全然ぼやっとしていませんでしたよ。


「報告書に出て来た、R博士からフェルマーの最終定理を聞いたり、アインシュタインの法則の説明を聞いたのは『おれ』なんだよ。おれにとってR博士は恩人で、ものすごく具体的な存在なんだ! 公安のヒアリングの仕事に立候補したのは、少しでもR博士の行き先の手がかりを得られないかと思ったからだ! それを…、『R博士はいなかった』とか繰り返して言いやがって。おれはおまえらみたいな、自分なんかどうなってもいいとか思ってるクズじゃないんだ! R博士も自分も、とっても大事な存在なんだ!」


そんなことを言われても、返事のしようがありません。なにしろわたしは『存在しない』のですから。


「おまえの返事なんかどうでもいい! おれにとって大事なのはR博士の手がかりなんだ。それで、この報告書の続きはどうなってるんだ!」


 知りません。


「は? 知らないってどういうことだ!」


 報告書をあそこまで「感じ」て、「自分は存在しないんじゃないか」っていう気になって、とっても楽になったら、続きなんかどうでもよくなったんです。さっき話しましたね、もともと死のうと思って報告書に近づいたって。とっても楽になって、もちろん死ぬつもりもなくなって、報告書を感じ続ける気がなくなりました。


「…R博士は、自分が存在するかを確認するために、どんなに恐ろしいことでもするって考えたんだぞ!」


 ならあなたが報告書を見ますか? いや、感じますか?


「えっ。いや、そんなことできるはずが…」


 もちろん報告書のオリジナルは公安の金庫に厳重に保管されています。しかしわたしが持ち出したコピーは、わたしの手元にあります。あなたに見てもらうことも、感じてもらうこともできますよ。


「それは…。どうなんだろう」


どうしてですか? 見て感じればいいじゃないですか。あなたが報告書を最後まで確認すれば、R博士の行方の手がかりが「ある」かもしれませんよ。


 公安職員の「R博士報告書ヒアリングに関する文書」はここで終わっている。このヒアリングを行った職員は、この文書を提出したあと失踪した。公安はこのヒアリング文書もまた閲覧禁止にするべきか、またオリジナルのR報告書を封印しているだけでなく廃棄すべきか、検討している。


                  了


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