自分さがし
おれがあの女になっているとき、美術館で「ティントレット」の絵を見た。あのときおれは、その宗教画家のことをよく知っていた。16世紀の画家とは思えないくらい洗練されたタッチであるにもかかわらず、題材は中世の宗教画そのものだ…、なんていう感想を持っていた。そのあと映画を観た。イタリア映画だったにも関わらず、字幕を見なくても言葉が理解できた。何よりも、その恋愛悲劇ストーリーを見て、おれは確かに感動していた。今のおれでは考えられないことだ。やはり、おれがあの女になった夢を見ているんじゃない。あの女がおれになった夢を見ているんだ。おれは夢の中だけにいる。現実には「いない」んだ。おれが「いない」のなら、おれに殺された「お姉さま」もいない。おれに娘を殺された両親も「いない」。おれが「お姉さま」を殺したという事実さえも「ない」んだ!
これが救いじゃないっていうのなら、何が救いなんだ。こんな性欲を持って生れてきたがゆえにいじめられ続けた子ども時代も、女たちに気味悪がられ続けた青春時代も「ない」んだ! うれしさのあまり叫びながら廊下を走っていたら、公安職員に殴られた。だけどこの、頬にあるひりひりした痛みも「ない」んだ!
職員に殴られた痛みが、目が覚めても残っているような気がする。あのときの自分は「ハイ」になっていたため、どんなに痛みを感じていても平気だった。しかし「わたし」は違う。男の人に殴られたことなどない。「男」というものは、女に対してどこか遠慮するものだと思っていた。だけどあの、わたしを殴るときの、カッと見開いた目つきが忘れられない。わたしはたしかにあの時、「殴られて」いた。あれが夢だとはとうてい思えない。もしかしたら、本当に自分は、あの死刑囚が見ている夢の一部なのではないか。バカな。そんなことがあるわけがない。理屈ではわかっている。だけど、この考えがずっと頭を離れない。もし今が、死刑囚が見ている夢だとしたら、自分もいないことになってしまう。だから、そんなことを考えるな!
「胡蝶の夢」という有名な故事がある。「荘子が蝶になった夢を見た。目が覚めたとき、荘子は自分が蝶になった夢を見ていたのか、蝶が自分になった夢を見ているのかわからないと思った」という話だ。これは「自分が自分でなくてもいい。蝶になったら、蝶として遊べばいい」という故事であるが、自分は蝶ならばともかく、小児性愛者になって楽しむことはできない。しかし、この「胡蝶の夢」の反論として、「荘子が蝶になった夢を見るならともかく、蝶に荘子になった夢を見るような知能はない」というものがある。自分が死刑囚になった夢を見るならともかく、死刑囚の知能でR博士になった夢なんか見られるはずがない。今日、同僚のB職員に聞いてもらって、フェルマーの最終定理を暗唱し、アインシュタインの法則の説明をした。B職員は驚いていたが、こんなことがあの死刑囚にできるはずがない。やっぱりわたしはR博士であって死刑囚なんかじゃないんだ!
…本当にフェルマーの定理やアインシュタインの法則など存在するのか? 確かにB職員はそれが間違いなく正しいと太鼓判を押してくれたが、フェルマーもアインシュタインもB職員も、あの死刑囚の幻想だったら?
あの暗唱も説明も、あの死刑囚の頭の中で作られた茶番だったら? いや、あんな複雑なことをあの死刑囚が思いつくはずがない。いや、「複雑」だと死刑囚が感じているだけだったら? 実は、いかにも難しそうなことを死刑囚が妄想して適当に作り上げ、死刑囚自身が作ったB職員という実在しない人物にそれを聞かせて、B職員に「正しい」と感心させていたとしたら?
考えるな! いま、世界はこんなにもはっきりしている。だけど、死刑囚から見る世界も今と同じくらいはっきりしていた。考えるな! そんなことを考えなくてもわたしの生活に何の不自由もない! 「司法取引を受けた死刑囚は一か月ごとに記憶を操作される」ということを、あの死刑囚が知っているはずがない。これは、自分があの死刑囚では「ない」ことの物的証拠だ。
…本当にそうか? この「一か月ごとの記憶捜査」という物語そのものが、死刑囚の頭から湧いた幻想だとしたら? だから、考えるな! もし自分が存在しないのならば、自分が関わってきたものすべてが存在しないことになってしまう。フェルマーも、アインシュタインも、B職員も、ティントレットも、オリビアハッセ―も、すべて存在しなくなってしまう。それらがすべて存在しないのなら、わたしが存在している証などどこにもなくなってしまう。わたしは…、本当に存在しているのか? いや、わたしが存在していて、あの死刑囚とそれにかかわるものすべてが存在しないということも考えられる。だけど、最初にあの男になった夢を見たとき、わたしは明らかに勃起していた。次にあの男になった時、確かに射精していた。女の身で、勃起はともかく射精などできるわけがない。やはり、わたしは存在していないのか?
だめだ。こんなことを考えていたらだめだ。取り返しがつかないことになるような気がする…。
建物の中でぼーっとしていたら、おれは林の中にいた。この林に生えている木々は、地上では別々に見えるけれど、地中ではすべて一つの根でつながっている。ひとつひとつの個体というものが、林にはない。人間も同じだ。すべてが夢でつながっている。ひとりひとりの個人というものは無い。「おれ」というものは無い。「おれ」はいない。
研究所にいたら、わたしの眼前にいきなりプラナリアが浮かんだ。誰かがプラナリアを縦に切った。分割したプラナリアは二匹になった。二匹のプラナリアを縦に切った。四匹になった。もともと「いた」プラナリアが四匹になった。では、もとのプラナリアはどこにいってしまったのか? 消えたのか? いや、動物が「消える」などということは絶対に無い。ならば、「もとの個体」など、もともと「存在しない」のではないか。プラナリアが存在しないのに、人間が存在するのはおかしい。「R博士」は存在しない。いや、存在しない人間がものを考えているって馬鹿げている。「われ思うゆえにわれあり」は、普遍的な、どこに行っても通用する考えのはずだ。だけど、この不安は何だろう。この、どこにいても何をしていても、いつか地面の下に吸い込まれてしまうのを待っているような気持ちは。何よりも恐ろしいのは、この気持ちが一過性のものではなくて、何か月でも何年でも続くような気がすることだ。
だめだ。このままでは、まともに生活できない。何が入っているかわからない箱を、何か月も何年も自分の部屋に置いているような気持ちだ。箱を開けなければ。どんなに恐ろしいものが入っていたとしても、開けないまま置いておくよりはましだ。わたしは、どんな方法をとってでも自分が存在しているかしていないかを確かめることに決めた。それが、どんなに恐ろしい行いであったとしても。
おれは、存在しない。今は、この気持ちがずっと続くことだけを願っている。




