土下座スキルと公爵令嬢
王国では、成人を迎える年に、すべての人間が神よりスキルを授かる。
それは一生を左右するほどの力であり、戦闘系スキルは軍事力を、政治系スキルは統治力を示す。
どの家も子どもがどんなスキルを得るかに一喜一憂した。
王都の大教会――白い大理石の床が朝の光を受けて淡く輝く荘厳な空間で、伯爵家の長男アレク・レイマールは、静かに列の中に立っていた。
両親の期待を一身に背負い、今日という日を迎えている。
同い年の貴族子弟たちが並ぶ中、祝福の儀式は厳かに進んでいく。
次々と優秀なスキルが告げられ、場は羨望と歓声で揺れた。
そして、アレクの番が来る――。
「この者に授けられしスキルは、『土下座』」
聖堂が静まり返り、次の瞬間、ざわめきが爆ぜた。
「土下座……?」
「聞いたことがないぞ……」
両親の顔が青ざめる。
アレクの父――レイマール伯爵は、鋭い目つきの壮年の男で、普段は威厳に満ちているが、今は怒りに震えていた。
大神官が慌てて古文書を持ってこさせ、震える指でページをめくる。
「……『土下座をすることで相手からの許しを得る力。謝罪の念が強いほど、本人の恥辱や苦痛の思いが大きいほど、他者からの憐れみや蔑みが大きいほど、効果が増す。相手は土下座を防ぐことはできない』……とあります」
聖堂の空気が凍りついた。
伯爵は怒りを抑えきれず、声を荒げる。
「貴族としての誇りを捨てろと言うのか! こんなスキル……勘当だ!」
アレクは反射的に膝をつき、深く頭を下げると、そのまま倒れこむように土下座をした。
「父上、申し訳ありません! お許しください!」
その瞬間、伯爵の胸元に淡い青色の光が灯り、怒りがすっと消えていく。
「……ふん。下働きとしてなら置いてやる。だが、家督は弟に継がせる」
アレクは顔を上げられなかった。
周囲の貴族子弟たちは、スキルと家格をもとに結婚相手を探すため、王家主催のお茶会へ向かっていく。
華やかな衣装が揺れ、笑い声が遠ざかる。
アレクだけが、広い聖堂に取り残された。
外へ出ると、夕暮れの王都は金色の光に包まれ、石畳が長い影を落としていた。
アレクはその影の中を、ひとり静かに歩き出した。
スキル授与式から数週間。
朝靄の残る伯爵邸の中庭で、アレクは、父親であるレイマール伯爵に呼び出されていた。
伯爵は鋭い目つきのまま、冷たい声で命じた。
「……お前に、山賊討伐を任せる」
山賊団は自領と隣領にまたがって活動しており、討伐には相応の戦力が必要だ。
しかし伯爵がアレクに与えたのは、わずかな手勢だけだった。
アレクは父の真意を測りかねながらも、静かに頭を下げた。
直ちに準備を整えて出立し、数日の行程を経た、灰色の雲が垂れ込める午後。
隣領との境の山中に差し掛かると、木々の間から別の部隊が姿を現した。
鎧の継ぎ目が使い込まれた銀色に鈍く光り、先頭に立つ男は鋭い目つきをしているが、どこか誠実さを感じさせる落ち着いた雰囲気をまとっていた。
「……辺境伯領の討伐隊か」
アレクがつぶやくと、男が歩み寄ってきた。
「そなたは……レイマール伯爵家の長男殿か。私は辺境伯領討伐隊長、ガルドだ。どちらへ向かっているのか、聞いてもよいか?」
低くよく通る声だった。
アレクは軽く頭を下げた。
「はい。父の命で山賊討伐に向かっています。ガルド殿もですか?」
「うむ。我々も、山賊討伐に向かっているのだが……」
ガルドは何やら言いにくそうにしている。
「伯爵領に入ってしまっても、私からは何も言いません。このあたりの領境は入り組んでいますからね。可能なら、辺境伯領の皆さんと協力して討伐にあたれればと思っています」
「我々は構わんが……レイマール伯爵はそれを許すのか?」
「伯爵領と辺境伯領の意地の張り合いで、山賊がなかなか討伐されず、領民はずっと苦しんでいると聞いています。私は……ご存知かと思いますが、伯爵家の面子など気にする立場ではありませんから」
ガルドは一瞬驚いたように眉を上げた。
「伯爵家の者が、そう言うとはな。ありがたいことだ。今回の討伐で、山賊どもを根絶やしにしてやろう!」
アレクとガルドは握手を交わす。
こうして、両軍は初めて肩を並べることになった。
その夜。
焚火の明かりが揺れる野営地は、湿った土と松の香りが混じり、静けさの中に緊張が漂っていた。
突然、辺境伯領の兵士が叫んだ。
「囲まれている! 山賊の大軍勢だ!」
一気に緊張が走る。
迎撃の準備をしようとした瞬間、アレクは気づく。
――自分の手勢が、誰一人いない。
焚火の向こうから、山賊の頭目が姿を現した。
粗野な笑みを浮かべた大男だ。
「伯爵領の兵士たちが教えてくれたぜ、ここでお休みだってな」
「なんだと……!?」
「馬鹿な奴だ、罠とも知らずのこのこ来やがって。お前の親父の伯爵様に頼まれたのよ、息子の人生を名誉の戦死で終わらせてやってくれとな」
アレクはその言葉に、愕然とした。
「そんな父上は俺のスキルは許してくれたはずじゃ……」
「へへ、伯爵夫人様が、恥ずかしくて仕方ないからどうにかしてくれって、親父さんにお願いしたんだとよ。美しい夫婦愛だな」
「母上が……」
確かにあの時、アレクが土下座をしたのは、父親だけだった。
母親までもが自分のスキルをそこまで忌み嫌っていると、認識できていなかった。
「俺たちが欲しいのは、伯爵家の長男の首だけだ。辺境伯領の奴らの命まで奪おうとは思ってねえよ。降伏して武器を捨てな」
ガルドは一歩前に出て、怒りを押し殺した声で返す。
「我々は今、伯爵が山賊を使って子息を殺害しようとしたことを知ってしまった。それでも生かして帰してもらえるのかね?」
頭目がにやりと笑う。
「わかってるじゃねえか。お前ら全員、皆殺しだ!」
剣が抜かれ、空気が張り詰める。
その瞬間、アレクは頭目の前に飛び出し、地面に膝をつくと、即座に額を地に伏せて土下座した。
「待ってくれ、辺境伯領の者たちは見逃してもらえないか。彼らは父上と俺の確執に巻き込まれただけなんだ」
山賊たちが怒号を返す。
「関係ねえよ!そいつらだって俺たちを殺しに来たんだろう!!」
アレクは必死に声を張り上げた。
「彼らはあなたたちと話し合いがしたかったんだ。それが、俺たち伯爵領の兵士がうろついているのを見て、辺境伯領内で好きにさせるわけにはいかないと、監視のために同行せざるを得なかったんだ」
「そんなの信用できるかよ……! 俺たち山賊と、何を話し合うってんだよ!」
アレクはガルドへ視線を送る。
「アレク殿……」
助かるには、アレクの作ったこの流れに乗るしかない。
ガルドは深く頷き、静かに言った。
「その通り。辺境伯様は、特に隣国からの工作を心配している。そなたたちが隣国の手先ではなく、食うに困って山賊をしているのであれば……手を組みたいと仰っていた」
アレクは再び深く頭を下げ、額を地面に叩きつけた。
「頼む! 俺は抵抗しない! 彼らは見逃してやってくれ!! 辺境伯はあなたたちに敵対するつもりはないんだ!!」
山賊たちがざわめく。
「見逃して、後から大軍を率いて来られたら、たまったもんじゃねえからな……」
アレクは立ち上がり、武器を捨て、鎧を脱ぎ捨てた。
そして再び、深く頭を下げて、流れるように土下座する。
「俺自身は完全に武装解除だ。この状態で、俺が人質になる。だから、彼らは見逃してくれ」
「お前は自分に人質としての価値があると思ってるのか?」
アレクは静かに答えた。
「確かに、両親は俺の死を望んでいる。そういう意味では、人質としての価値はないだろう。だが……父上が山賊と手を組んで、俺と辺境伯領の兵士たちを殺そうとしたことを、俺が生きていれば証言可能だ。父上……レイマール伯爵や辺境伯があなたたちを裏切ろうとした時に、そうやって脅せば、レイマール伯爵は自分の名誉を守るために必死になってあなたたちへの攻撃を止めようとするだろう」
アレクは土下座の姿勢のまま、地面を這うように頭目へとにじり寄った。
焚火の残り火がまだ赤く息づき、石は熱を帯びている。
アレクは額をそのすぐそばまで押し下げた。
「どうか私を人質にしてください! お願いします!」
あまりに情けない姿に、山賊たちも辺境伯領の兵士たちも、思わず息を呑んだ。
主人公はさらに地面を這い、頭目の靴に額を押し当てた。
「焚火の熱で温まったこの額で、あなたの靴を磨かせていただきます。このようにお役に立ちますから、どうか私を人質に……!」
一人、また一人と、山賊たちの胸元に淡い青色の光が灯る。
「……仕方ねえな」
こうしてアレクは人質となり、ガルド率いる辺境伯領の兵士たちは無事に帰還を許された。
山中での一件から数日後。
王都に戻ったアレクは、伯爵家の屋敷の一室で静かに待機していた。
窓の外では、冬の名残を引きずる冷たい風が庭木を揺らし、薄曇りの空が重く垂れ込めている。
やがて、屋敷に戻った父、レイマール伯爵が執務室へアレクを呼びつけた。
伯爵は相変わらず鋭い目つきをしていたが、以前のような怒気は薄れ、代わりに複雑な焦りが滲んでいた。
「……辺境伯から報告があった。お前の働きで、山賊団との協力が成立し、他の賊徒や、その背後にあった隣国の工作組織を一掃できたそうだ」
伯爵は机に肘をつき、深く息を吐いた。
その横顔には、誇りと困惑が入り混じったような皺が刻まれている。
「辺境伯は、王城への報告でお前の名を挙げた。大切な部下たちの命が救われたのは、お前の能力によるものだとな」
アレクは驚きに目を瞬かせた。
あの夜、必死で頭を下げ続けた姿が、まさか国王の耳に届くとは思っていなかった。
伯爵は続ける。
「……廃嫡は取り消さん。だが、伯爵家の子息であることに変わりはない。当家にも恩賞を受ける権利はあると、私は主張した」
父としての情ではなく、貴族としての計算によるものだが、アレクを伯爵家子息と公言したことに間違いはない。
どうやら命拾いしたようだと、アレクは心の中でため息をついた。
それからの日々、アレクは伯爵家の謝罪担当として社交界に姿を現すようになった。
豪奢な広間、煌びやかな宴席、外交の場――どこに行っても、彼の名は先んじて囁かれる。
「親族が失敗をしたら、代わりに関係者に土下座をして回り、許してもらうらしい」
「伯爵家に便宜を図ることを約束すれば、親族でなくても代わりに謝罪して回って、その失敗を無かったことにしてもらうとか」
「近隣国家が言いがかりをつけてきた時に、土下座をして納得してもらい、戦争を回避したらしいぞ」
アレクは、どこでも、誰にでも頭を下げた。
時には身をさらして土下座し、時には額で靴を磨き、時には吹雪の中で数時間頭を垂れ続けた。
そのたびに、周囲の者たちは彼を憐れみ、軽蔑し、スキルの効果は増していった。
やがて、国中で彼の名を知らぬ者はいなくなった。
だがその名声は、尊敬ではなく、徹底した侮蔑と呆れによって形作られていた。
ある日、王城の会議室。
重厚な石壁に囲まれた空間で、国王、公爵、侯爵らが伯爵を呼び出し、深刻な表情で話し合っていた。
「――あの男の土下座を使い過ぎて、最近は効果が薄くなってきたように思うな」
国王の低い声が響く。
「ええ、もう貴族の中で、彼を憐れむ者はいません。あれが生業と認識されています。これ以上は軽蔑しようがないくらいに忌み嫌われていて、他者の感情によるスキルの効果上昇は、もはや見込めないでしょう」
公爵が眉間を押さえながら言う。
「本人の感情はどうなんだ?」
侯爵が問うと、伯爵は苦笑を浮かべた。
「自分の問題でないと謝罪の念は湧きにくいみたいですね。恥辱や苦痛も……人前でできることはやり切った感があり、本人も慣れてきています」
「来月の海洋国家との貿易交渉、どうなるか……」
「外交使節が話を受け入れるまで、先方が憐れむような、過酷な痛みを与えながら土下座をさせる……くらいか、残された手段は。いや、さすがにそれは伯爵が許さないだろうがな」
「私はそれでもかまわないですがね。息子が王国の役に立てるのであれば、こんなに嬉しいことはないですよ」
伯爵は平然と答えた。
その瞬間、辺境伯が鋭い声を上げた。
「伯爵殿は、ご子息がどんな苦痛を与えられても、それが嬉しいと……。これまで、可哀想だと思ったことはないのですか? 肉親としての当然の情があれば、土下座スキルの効果も一層増して、負荷の必要など無くなるのでは?」
伯爵は一瞬だけ目を泳がせた。
「え、ああ……まあ、可哀想ですよ。でも、私が悲しそうな顔をすると、皆さんが息子を使いにくくなってしまうでしょうからね。努めて笑顔になっているんです」
辺境伯は深く息を吐き、提案した。
「提案します。アレク・レイマールには婚約者を用意しましょう。彼が土下座をすることに、強い憐れみと軽蔑を感じるような、そんな婚約者が一人でもいれば、また土下座スキルは威力を取り戻すかもしれません」
「それは妙案だな。アレク・レイマールも、婚約者に見られているとなれば、強い恥辱と苦痛の念を抱くようになるかもしれん」
「だが……あの男の婚約者になりたがる娘が、一人でもいると思うか?」
「なりたがらなくてもいい。高飛車で、自分の婚約者を他人の婚約者と比較して、その評判ばかりを気にするような娘なら、憐れまなくとも強い軽蔑の感情を抱くだろう」
会議室に静寂が落ちた。
「では、皆様のお知り合いで、娘をあの男の婚約者とすることを了承する者がいれば、推薦をするということで……よいですね?」
公爵の言葉で、会議は終わった。
会議から一週間後。
王都の中心にある公爵家の庭園は、初夏の陽光を受けて白い砂利がきらめき、色とりどりの花々が風に揺れていた。
その中で、アレクは緊張した面持ちで椅子に座っていた。
髪を整え、礼服に身を包んでいるが、どこか所在なげに視線を彷徨わせている。
向かいの席に座っているのは、公爵令嬢のアリシア・レーヴェンヒルド。
陽光を受けて輝く金の髪を肩に流し、深い青の瞳を持つ少女だった。
その姿は気品に満ちているが、どこか勝ち気な雰囲気を漂わせている。
彼女は紅茶を一口含み、あっさりと言った。
「そういうわけで、私があなたの婚約者になりました。以後よろしく」
アレクは思わず目を丸くした。
「そういうわけでって……君、そこまで知らされていて、怒ってないのか? 高飛車で、評判ばかり気にしてるって言われたのと同じだぞ」
アリシアは涼しい顔で肩をすくめた。
「事実ですもの。怒るわけないでしょう。私はプライドが高く、結婚相手はこの世で一番素敵な男性がよいと、常々公言していました」
「俺のスキルと、世間の評価は知っているよな?」
「ええ。まずは、あなたのスキルの安売りをやめなさい。他の貴族の失敗をフォローするために使うことを今後禁じます」
アレクは困ったように眉を寄せた。
「それは……父上に許可をもらわないと。代行土下座は、伯爵家の大きな収入源になっているんだ」
アリシアは紅茶のカップを置き、少しだけ身を乗り出した。
その表情は、どこか挑発的で、しかし真剣だった。
「私のような、可愛い婚約者が言っているのですよ? 少しは言うことを聞いてあげようという気にならないんですの?」
アレクは頬を赤らめ、視線を逸らした。
「気持ちとしては、言う通りにしたいよ。自分に婚約者ができるなんて思っていなかったし、全部言うことを聞いてあげたい。でも、俺は自分のスキルの使い道を決められる立場じゃないから……」
「その言葉で十分です」
アリシアは満足げに微笑んだ。
「私がお父様に働きかけて、あなたのことを守ります。貿易交渉であなたの土下座が失敗に終われば、私との婚約は白紙になってしまうので、あなたも気合を入れて土下座の訓練をするように」
アレクは思わず苦笑した。
「土下座の訓練って……」
「当然でしょう? あなたのスキルは国の未来を左右するのですから」
庭園を渡る風が、二人の間を柔らかく吹き抜けた。
海洋国家との貿易交渉会議の日。
王城の会議室は、磨き上げられた黒い大理石の床が光を反射し、壁には海を象徴する青いタペストリーが掛けられていた。
アレクは深呼吸をしながら席に着き、その隣には婚約者となったアリシアが静かに座っていた。
彼女はアレクの袖を軽くつまみ、小声で囁く。
「近くにいた方が、あなたの土下座をより強く軽蔑できるはずなので、同席せよとの指令です。……頑張りなさい」
アレクは苦笑しつつも頷いた。
会議が始まると、海洋国家の代表である宰相――灰色の髪を後ろに流し、鋭い目をした男――が、厚い書類を机に叩きつけるように置いた。
「王国には、これだけの関税上昇を飲んでもらう」
その数字を見た瞬間、王国側の貴族たちは青ざめた。
このまま受け入れれば、王国の経済は急速に衰弱し、周辺国家に付け入られるのは目に見えている。
視線がアレクへと集まる。
アレクは椅子を静かに下り、深く息を吸い込んだ。
そして、これ以上ないほど整った姿勢で土下座をした。
「この関税の上昇……無しにしていただけないでしょうか! どうか、よろしくお願いいたします!」
宰相は鼻で笑った。
「ふん……噂の土下座か。その程度で私の心が動くわけがないだろう」
アレクはさらに頭を下げ、声を震わせた。
「そこをどうにか……! 私の情けない顔であなたの靴を磨かせていただきますので! どうか関税を下げてください!!」
「気味の悪い男だ……。ダメだ! 我が国の重要な利益を、手放すわけにはいかない!」
宰相が席を立とうとする。
これまでかと誰もが思ったが、主人公の隣に駆け込んできた人物が、両手を揃えて額を床にこすりつけ、土下座をした。
「お待ちください、宰相様! 私からもお願いです。どうか、次回の貿易交渉までは関税を上げずにおいてください! 当家でできる限り、宰相様には今後便宜を図らせていただきますので!」
土下座をして叫んだのは、公爵令嬢アリシア・レーヴェンヒルドだった。
宰相は怒りを露わにした。
「ふざけるな、娘よ。私に自分の利益のために国家の利益を捨てろと言うのか」
「違います! 宰相様を通じて王国の……私たちの、貴国と親しくしたいという気持ちをわかってもらうための時間をいただきたいと、お伝えしたかったのです!」
彼女の声は震えていたが、瞳は強い意志を宿していた。
「私たちは自分たちの想いや文化を理解していただくために、宰相様を通じて貴国の貴族の方々に贈り物をしたいのです。もし次回の貿易交渉の時までに、共に発展していけそうだと思っていただけたなら、その時は関税は今のままにしてください。仲良くできそうもないと判断されたなら……それは私たちの努力不足ですので、関税の上昇は受け入れます。どうか……どうか時間をください!」
アレクは、自分の力不足で彼女に土下座をさせてしまったことを痛烈に悔い、床に頭を打ち付けた。
「申し訳ございません、宰相様。私が言葉足らずでした。今、お伝えした通りです。王国からどんな商品が貴国に輸出されるか、それが貴国の国民にどんな恩恵をもたらすか、宰相様をはじめとする皆様に、説明をする時間をください。どうか……お願いします! 私たちは、貴国とともに豊かになりたいのです!」
会議室に静寂が落ちた。
やがて、宰相はゆっくりと頷いた。
「なるほど、よくわかった」
「え……?」
「貴様たちの本音は知らんが、出席者の中で誰よりも若いのに、誰よりも真剣だ。こういう者たちが次世代を担うのなら、関係を深める価値はあるのかもしれん。まずは様子を見よう」
「宰相様……! ありがとうございます!」
アレクとアリシアは立ち上がり、深く礼を述べた。
こうして、貿易会議は無事に終わった。
海洋国家の使節団が去った後。
公爵家の応接室で、アリシアは父である公爵に激しく叱られていた。
「お前というやつは、勝手にあんなことを言い出しおって……!」
「いいじゃない、うまくいったんだから」
「よくない! 不敬だと思われたら、より事態が悪化していたかもしれないんだぞ!」
アレクは服を整え、アリシアの隣に並んで頭を下げた。
「公爵様、申し訳ございません。私の力不足で、お嬢様にあのような行為をさせてしまいました」
公爵はため息をついた。
「まったくだ……! スキルが効いたからよかったものの……」
アレクは静かに告げた。
「いえ、実は、宰相様には土下座は効いていませんでした。胸元に光が出なかったので……。お嬢様と婚約までさせていただいたのに、申し訳ございません」
公爵は目を細めた。
「確かに、いつもの青い光が出ていなかったな」
アレクは深く頭を下げた。
「私の力はもう王国の役には立たないようです。なので……お嬢様と私との婚約は、破棄してください」
「ちょっと待ちなさい! それじゃあ私が土下座までして頑張った意味が無くなっちゃうじゃない!!」
公爵令嬢は勢いよく立ち上がり、アレクを睨んだ。
「大丈夫。今回アリシア様は、自身の知恵と誠意で見事に交渉をまとめた。公爵家として十分な成果と、皆が認めるはずだ」
「そうじゃなくて……あなたとの婚約が白紙にならないよう、こっちは必死だったのよ!? どうしてそんなこと言うのよ!!」
アレクは戸惑いながら答えた。
「アリシア様は、この世で一番素敵な男性と結婚したいと言っていたし……」
「だから、私にとってはあなたがこの世で一番素敵な男性なのよ! お父様が縁談を持ってきた時は、驚いたんだから!」
アレクは呆然とした。
「え……俺の評判のことは……?」
公爵令嬢は胸を張って言い切った。
「土下座をして、戦争を回避して、何万人もの命が失われる事態になるのを防いだのでしょう? 私と同い年なのに、凄すぎるわよ! 最高じゃない!!」
アレクの胸に、温かいものが広がった。
「アリシア様……」
彼女は頬を赤らめ、そっぽを向いた。
「でも、土下座をするときに身をさらすのはやめなさい。結婚相手以外に、そうそう見せるものではないはずです。私はそこまで寛容ではありません」
アレクは微笑んだ。
「ありがとう。これからは、恥ずかしい土下座は、可愛い婚約者を守るために必要な時だけにするよ」
数年後。
アレクとアリシアは、王国史上最も優れた外交官夫婦として、名を馳せることになった。




