懐疑の片鱗 【桜木視点】
道具屋。11日目。1時57分。
NО.47とNО.188は「変則神経衰弱」において、互いの携帯情報の公開、親決めの際の意思統率、二人の内のどちらかがゲームに勝利した場合、両者間の間で「プログラム」を共有する事を厳守する。また、これらに関する一切の情報を契約者以外の人間に口外することを禁じる。
「……もう一度聞くけど、この契約は本当に効力を発揮するんだよな?」
「はい、勿論ですよ。契約書に果たせぬものなどないのですから」
スピカはとてもデータの固まりとは思えない人間的な笑みを浮かべた。
「……それって嘘じゃないですよね?」
「安心してください、岸本様。如上の通り、契約書に不可能はありませんよ」
「そうですか……それは良かったです」
岸本と俺は心からの安堵を漏らした。
俺の提案した必勝法を具現化するために、俺と岸本は三分前くらいに道具屋を訪れた。前に買っておいた契約書に、上記の記述を記載したという訳だ。
岸本は持ち前のにこやかさと柔らかさを取り戻しつつあった。ここに監禁される前に何回も見たことのある、聖母のような優美に満ちた表情。おそらく、彼女の周りにはマイナスイオン的な物が大量に発生しているのだろう。森林浴後に感じる爽快さと類似している。
……と意味不明なことを冷静に考察する俺の顔も、情けないくらい気の抜けきった表情になっているに違いない。
かくなる俺もこんな馬鹿げた内容が、あいつらに通じるかどうか不安だったのだ。それだけに、淡白なスピカの対応に拍子抜けしてしまうのも無理もないと思う。
大きく息を吐き、回遊するクラゲの如く弛緩する。それを何回か繰り返した後、唐突にわき上がる達成感と安心感。
――――これで勝てる!
それは時期尚早な勝利宣言だった。いささか気が早すぎる感もしなくはなかったが、それでも勝利が俺の掌にあると思うと、喜びを堪え切れない。
「これで……出られるんだよね?」
喜色を滲ませる岸本。ただ複雑そうな面持ちだった。
「だな」
短く返答。岸本は押し黙った。
しばらくすると、岸本が開口した。
「……みんなを裏切ったんだよね、私達」
眉間に深刻な皺をよせて、岸本は言った。
「仕方ないさ。これが俺たちに取れる最善の策だと思う」
「そうだよね、仕方がないことなんだよね……」
罪悪感に押しつぶされそうな苦肉に満ちた表情。
割り切るしかないだろ。
心の中で反芻される言葉。口には出さなかった。もしかしたら俺の中にも罪悪感という奴が芽吹いているかもしれない。
中央広場。11日目。5時05分。
岸本と契約してから、約三時間の時間が経過した。
あれから約二時間分の仮眠を取った。相変わらずの圧迫感や焦燥感は未だ変わらないが、比較的良好。小康状態が継続している感じだ。
俺と岸本は今、中央広場にいた。周りには誰もおらず、ちかちか点灯する電灯がぼんやりとした光を落としていた。それでも、中央広場全体を照らせるわけでもなく、伽藍とした闇が広がる。それで俺達の結末を暗示しているようで、不穏な影がちらつき始めている風に思えた。
「……誰も来ないね」
椅子に座った岸本が呟く様に言った。できれば聞こえてほしいけど、聞こえなかったらそれはそれでいいくらいの声量。不安な心から漏れた独り言とも取れるし、単純に俺に対する呼びかけとも取れる。
一瞬の逡巡で後者だと判断した俺は、
「本当、全然来ない。後一時間で始まるのにな」
と言った。
岸本は驚いた様だった。どうやら俺が返答するとは思っていなかったらしい。
「そうだけど、ほら、あっちを見てみて」
岸本が指差したのは、Gと描かれた扉――否。萩原だった。
無機質な扉が開かれ、萩原の全貌が眼窩に広がる。
百八十センチ近い身長に、引き締まった肉体。バスケットボール部のエースとして活躍し、ゲームメーカーの異名を持つ同級生。その巧みなボール運びや戦術面で、バスケ部の主軸を担っていた男。そして、杉下の無二の親友でもある。
俺達の姿を視認した萩原は、筋肉質な右手を軽く上げた。
桜木と岸本さんっていつも一緒にいるよな。
そんな小言を呟いて、近くの椅子に着席した。そして、背中に湾曲した針金を突き刺した様な姿勢で、萩原は頬杖を付いていた。
俺はまじまじと萩原の顔を見た。
萩原の周辺だけ、空気が固まっているような印象を受けたからだ。
俺は萩原から妙な気配を察知していた。それは如何様に形容しがたく、霧のように実体のないものとなって懐疑の影を落としていた。
矢を放つような短い間奏を挟み、萩原と目があった。その途端、萩原は訝しげに眉を顰め、こう言った。
「桜木。お前は何か――――重要なことに気付いたな?」
脊髄反射で体を後ろに下げる。目を大きく見開き、再度萩原の目を捉える。隣にいる岸本も萩原の発言に身を固めていた。
頭上から沈黙が降りてきた。まずいなと思いながらも、俺は笑い飛ばす様に言った。
「重要なこと? なんの話だよ」
はぐらかす様に、ただの与太話に聞こえるように滑稽さを演出させる。
すると萩原は今まで見た事のないような老獪な笑みを浮かべ、顔を伏せた。
「……ならいいけどな……」