第8話 母親の気配
そして地下牢にもまた夜が訪れた。この時期は底冷えする石で造られた地下牢で、我は彼女に寄り添っていた。ティアが風邪を引かぬよう、1番暖かいと思われる我の腹辺りに寝かせ、フサフサの尻尾をティアの腹辺りに被せる。これなら石の床に直に寝るよりは幾分かマシだろう。
ティアの寝息がスゥ、スゥと規則正しくなった頃。ふぅ、と一息吐いて暗闇を眺めていると、いきなり大きな声が聞こえて来た。大きな声とは言っても、屋敷の方から聞こえる怒鳴り声で、人の耳では聞こえないだろうな。
我は何事かと耳を澄ませる。意識して声を拾うと、あの無慈悲な男の怒鳴り声だった。まぁ、当然か。普段から公爵家で怒鳴っているのは、当主であるティアの父親ぐらいだからな。
何を怒鳴っているのかと聞き耳を立てると、女性の啜り泣く声も聞こえて来た。
「あなた!本当にティアが拐われたと言うのですか!」
「しつこい!本当だと言っているであろう!拐かされた娘など嫁にも行けんし、もう必要無いだろうが!お前もいい加減、忘れろ!」
「そ、そんな!たとえ、お嫁に行けなかったとしても、それでもティアを探してください!どんな姿になっていたとしても、わたくしの可愛い天使なのです!」
「うるさい!バーバラ、お前もだぞ!顔に傷なんぞ作りやがって!その顔では外に出せんだろうが!」
「そ、そんな……ううっ……」
何とも胸糞悪い会話だな。まぁ、それでも、だ。ティアの御母堂はご存命らしい。あれはティアに罪悪感を抱かせるための嘘だったわけだ。ティアがあんなにも悲しみ、苦しんだのにな。本当に酷い男だ。
会話が終わり……と言うか、男が無理矢理会話を終わらせて部屋を出て行ったようだ。我は「ふぅ」と小さく溜め息を吐いて、集中するために少しだけ起こしていた体を横たえると、ティアが「うぅん……」と言いながら身動いだ。起こしてしまったか?と恐る恐るティアの顔を覗き込むと、涙を流して静かに泣いていた。
「……かあさま……にいさま……うぅっ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
我が当事者だったとしても、自分のせいで大事な人が亡くなったと言われたら罪悪感に苛まれるだろう。こんな幼い子供で無かったとしてもこんな現実は辛いだろうし、悪夢も見るよな。母親が身近に居たのであれば、また違ったのだろうが。きっと、ティアのせいじゃ無いと何度も慰めて、ギュッと抱きしめてあげただろうからな。
なのに、あの無慈悲な男は、母親の存在までも亡き者にしてしまった。ティアは既に、心の拠り所や逃げ場も、何もかも奪われてしまったのだ。これでは、1年後に〝神の御遣い〟が暴走するのは必然と言えるだろう。
今夜の会話は、ティアが起きたら父親に内緒にする事を前提として伝え、母親が生きている事を教えてあげなければ。少しでもティアの中に巣くう罪悪感が減るように。
ティアを苦しめるためだけに、そんな嘘がつける男が許せないな。確かにティアはドン底にいるから扱いやすくはなるだろう。自分の利のためなら人を傷つけられる人間がいる事は知っていたが……目の当たりにすると、有無も言わさずこの世から抹消したくなるな。
そんな事を考えているうちに、外が少し明るくなって来たな。まだ薄暗いから少しだけ眠れるだろう。ティアが起きる時間に合わせて起き、母親の事を教えてあげなければと、静かに瞳を閉じるのだった。
☆☆☆
「う――ん……」
我は、ティアが身じろいた事で目が覚めた。太陽はいつもより少し上にあり、寝坊した事に気が付く。まぁ、誰に怒られる訳でも無いんだがな。あぁ、そうだった。そんな事よりも、ティアの母親の事を早く教えてやらねばなるまい。
『ティア、おはよう。起きたか?』
「ん――……」
焦点が合わず、ボーッとしているティアは可愛らしい。まぁ、ティアはまだ2歳だからな。本来なら、お昼寝もするらしい。父親が昼近くに来るから、昼寝したくても安心出来なくて難しいだろうな。
『くくっ、ティアは朝に弱いみたいだな?ほら、良い事を教えてあげるから起きてごらん』
「ん――?いいこと?なんだろう?」
『ティア、良く聞くんだ。お前の母親はバーバラか?』
「…………うん。とうさまはオリバーだよ」
『ふむ。では間違ってなさそうだな。ティア、そなたの母親であるバーバラは生きているぞ』
「………………え?ほんとうに?かあさまが…………?」
薄桃色の瞳が大きく開かれ、その瞳からとめどなく大粒の涙が溢れ出した。
「ねぇ、レオン……ほんとうに?まちがいないんだよね……?」
『あぁ、間違いない。我の耳は、屋敷の声も聞こえているのだが、昨日の夜、ティアを探して欲しいとバーバラが泣いていたぞ』
「かあさまは、わたしを何ってよんでた?」
『確か……「わたくしの可愛い天使」だったか?』
「かあさま……!良かったぁ……うぇえ――――ん!」
本当に自分の母親なのか確認するとは……まぁ、確認の仕方は子供らしいというか、可愛らしいな。
『どうやらそなたの父親は、ティアが攫われて行方不明になったという事にしたようだぞ。こんなに近くにいるのにな』
グシグシと、泣いていた顔を拭ったティアは、力強い瞳を我に向けて言い放った。
「レオン、わたしはかあさまが生きていてくれただけでいいの。かあさまのケガが治って元気になるまで、そっとしておいてあげて?」
まるで大人の誰かが言ったのであろう言葉をそのまま使ったような言い方に、ちょっと笑いそうになったが、グッと我慢した。相手を思いやる心が美しいと、ティアの事を少し眩しく、誇りに思ったのだった。