24ほころび
エリカにかけられた魔法にほころびができてしまいます。
ど一瞬で解けてしまう怖さ。
作中にあるベントサイドスピネットという鍵盤楽器は場所をとらない利点があります。
ウオルター総督の領地に残り、オルソン救出のためジェーン号で旅立ったルークとマリサを待つシャーロット。オルソン拉致事件がなければルークとめでたく結婚をしていただろう。そのルークを待つのはオルソンの領地にいる長子アーネストやその妻メイジー、息子ジョシュアと使用人たちである。領主オルソンは無実の罪で捕らわれ、そのまま行方不明だ。領主に何かあればアーネストが領地を守らなければならないだろう。この事件について王室やほとんどの貴族は知り得ていない。それはこの罪状が捏造であり、捕えた役人たちもヘンリエッタの仲間だったからである。
『毒の守り人』というオルソン家の秘密を知るものは庭師ジョナサンと執事トーマス、長子アーネストと弟ルーク、マリサである。本来なら長子だけが相続していくこの知識をなぜかルークと亡くなったアイザックも知り得ていた。そのいきさつを聞くことがないまま拉致されたオルソン。
「お姫様が来られましたよ、お嬢さま」
女中頭がそう言って客間へシャーロットと付き添いのハリエットを誘う。
「シャーロット様、この度も孫の音楽教育に手を差し伸べてくださりありがとうございます」
「お招きありがとうございます。シャーロット様、私はたくさん勉強をして良い子になります。うまくなって父さんと母さんのほめてもらいたいの」
そういって小柄ながらも立派にカーテシー礼をする女の子に笑顔で迎えるシャーロット。目の前にいるのは他でもない、マリサの娘エリカ、そしてスチーブンソン夫人ことハリエットだ。エリカは懐かしい生地のドレスを着ている。シャーロットが着なくなったドレスをマリサとハリエットが仕立て直して着せているのだ。子どもだからといって貴族に招かれるとあれば衣服に気を使わねばならないとマリサとハリエットは考えており、シャーロットがエリカにお下がりしたドレスはそのために役立っていた。もちろん、ドレス姿のエリカにスチーブンソン家のご近所はいろいろ勘ぐってうわさ話をしている。
しかしハリエットは負けずにエリカの世話をしている。海賊だったマリサとフレッドの結婚のときもコーヒーハウスのネタにされて気が休まらなかったが、それに比べたらまだましな噂話であった。
「エリカ、あなたがここへ来るのを首を長くして待っていたわ。あなたの成長が本当に楽しみでならないの。さあ、一緒に勉強をいたしましょう」
シャーロットの声掛けにエリカがほほ笑む。母親と父親それぞれが航海中であり、甘えたいのに甘えられない不憫さがあるが、それを埋めるかのようにハリエットやシャーロットが愛情を注いでいる。
シャーロットはオルソンの意向を引き継ぎ、エリカに音楽指導の機会だけでなく貴族社会を渡り合える物腰や躾を教えていた。このことは女中頭も協力している。幼いながらも凛としている姿はどこかマリサを思い出させた。
シャーロットに促され、楽器のある広間へ向かう。客人たちのいないときはちょっとした演奏会のようでもあった。そこにはすでに音楽指導をする楽師が待機しており、お姫様の相手をするのを楽しみにしていた。楽師がそう思うくらい、エリカは素直で熱心だったからである。
エリカの小さな手が鍵盤上を滑らかに動いていく。
オルソン家では当時まだ珍しかったハープシコードが置いてあり、エリカも早々にその楽器を奏でる機会を得ていたが、今シャーロットがいるウオルターの屋敷にはハープシコードがなく、形状が若干異なるベントサイドスピネットという楽器が置かれていた。グリンクロス島の屋敷に置かれていたハープシコードは、屋敷が海賊の襲撃にあって火災が起きた際に消失している。まだ台数が限られており、珍しい楽器でもあったハープシコードが焼失したのはシャーロットにとって残念なことだった。マリサも片手ながらも弾いた想い出の楽器だからである。しかし、再建中のグリンクロス島の屋敷でそのようなぜいたくな楽器は必要ないものだった。
ベントサイドスピネットはハープシコードと比べ、ケース左側面が鍵盤に対して斜めであり、弦も斜めに張られている。置き場所を少しでも減らした鍵盤楽器だといってよいだろう。(参考: https://note.com/kagefumimaru/n/n5483888de3ae)
楽器がないスチーブンソン家では紙に書かれた鍵盤へ指を置いてひたすら練習したエリカ。しかしそれでは鍵盤のタッチや重みは伝わらない。
「もし良かったら、ベントサイドスピネットを家に届けましょうか。こちらも丁度買い替えを考えていたところなの」
シャーロットがハリエットにそう提案したが、このありがたい話をハリエットは断ってしまう。
「せっかくのご好意なのですが、私どもは市民です。マリサもエリカを市民の子として育てる意思を持っています。マリサ自身が使用人の子として育ち、自身も使用人として働いたことを誇りに思っているほどです。今ここにマリサがいたらきっと同じことをいうでしょう。楽器をいただくと貴族と市民の線引きがなくなりそうで、わたしは危惧しています」
これがハリエットでなければ喜んで楽器を頂いただろう。しかしハリエットは身分をわきまえていた。他の市民と比べてテイラー子爵やウオルター総督(伯爵)、オルソン伯爵といった貴族とかかわりを持つことが多いスチーブンソン家。それでなくても近所のやっかみがあり、それがコーヒーハウスの噂話となることさえあるのだ。息子フレッドは貴族の血を引くマリサとの結婚が貴賤結婚で、昇進もそれによるものだと陰で言われて苦しんだ。心を病んでしまったのをマリサが救っている。もうあのような目に合うのを避けたかった。
「ハリエットさん、確かにあなたのおっしゃるとおりですね。きっとマリサも同じことを言うと私も思います。では、練習日を増やすのはどうでしょうか。ハリエットさんのご都合にもよりますが」
エリカの才能をもっとのばしたいシャーロットは別の提案をする。ただ、これにはハリエットの時間を奪うようなものだ。マリサが不在のスチーブンソン家はハリエットに家事や育児、社会との付き合いがかかっている。そこにレッスン日を増やしてハリエットの時間を取るのはどうかというところだ。このことに気付いているエリカはチラッと不安そうにハリエットの顔を見た。
「エリカの教育の為なら私は時間を作りたいと思います。音楽の勉強の主人公は外ならぬエリカですからね。有難くご提案を受け入れさせていただきます」
ハリエットがそう答えるとエリカは抱き着いて顔をうずめる。
「おばあちゃん、ありがとう。私、たくさん練習してうまくなるから」
エリカにとって演奏が上手くなることは父と母に褒めてもらえるといった生命線のようなものだった。まだ小さな子供なのに練習に打ち込み、周りの大人に褒めてもらうことで親に甘えられない寂しさを忘れるようにしている。
「エリカは本当に良い子ね。オルソン伯爵はエリカがハープシコードの演奏者として育ったら演奏旅行へ連れていき、もっと多くの人へ聞いてもらうようにしたいとおっしゃったわ。あちこちの貴族の前であなたが奏でる音楽を聴いてもらうのよ。今から私はそれが楽しみでならないの」
エリカに貴族社会の物腰や躾を行っているのはこうしたオルソンの考えがあったからだ。ただ、それを本当に善意で行いたいと考えているかというと、あのオルソンのことである。その先には演奏家エリカを通して有力な貴族や王族、資産家たちと交流を深めて優位に立ちたいという陰謀があった。しかしそれは表向きのもので、現実的な問題として、なぜエリカがハープシコードの演奏者を目指しているのかという理由がある。それはオルソンとマリサだけの秘密だった。
グリンクロス島を海賊が襲撃したとき、総督の屋敷は海賊の手によって火災が起き、エリカとエリカを守っていたアイザックは逃げ遅れた。その際、海賊との交戦の中で相撃ちとなる形でアイザックが重傷を負ってしまう。海賊の銃口が自分たちを狙う中、逃げることもできずエリカは恐怖でどうしていいか考えられなかったが、アイザックはエリカに手を貸して銃の引き金を引かせた。どうしようもなかったとはいえ、エリカは人を殺してしまったのである。死にゆくアイザックのうわ言からこのことを知ったオルソンはエリカの成長を心配し、エリカに催眠をかけている。それが忌まわしき記憶の抹消であり、その代わりとなっている記憶が音楽なのである。(アーティガル号編 54話 反撃の火①、65話 企みの真意)
シャーロットはエリカの事件の詳細を知らない。オルソンが善意でやっていることを引き継いでいるつもりである。
「そうしたらもっと母さんと父さんに褒めてもらえる?」
「ええ、もちろんよ。エリカは本当に覚えがよくて真面目に練習を重ねてきているわ。どこの貴族もきっと聞き入ってくれるわよ」
シャーロットは姪であるエリカが愛おしくてたまらない。シャーロット自身もルークに会えない日々が続いており、しかも領地の屋敷の管理もあって寂しさを覚えている。
「私、もっと練習をします。みんなにも褒めてもらいたいの」
これがエリカの精いっぱいの答えだろう。寂しさだけでなくいろいろな思いをこの言葉で表している。それを知っているシャーロットは笑顔でエリカを何度も抱きしめた。
「エリカの頑張りをオルソン家のみんなにも聴いてもらいたい?実はね、ジョシュアからエリカへ手紙が届いているのよ。エリカがここで音楽の勉強をしている様子を手紙で送ったら返事が来たの。ぜひ会いたいって」
「ジョシュア様が?」
そう言ってハリエットの顔を見つめるエリカ。何を言いたいのかはすぐわかったハリエットは笑顔で頷く。
うわーん……。
気持ちが高ぶったエリカは思わず泣いてしまう。悲しいというより我慢してきた感情だ。
「あらあら……。泣くほど嬉しいのね」
エリカの涙を拭きながらシャーロットとハリエットがなだめる。
貴族とかかわりと頻繁に持っているスチーブンソン家は十分にご近所の噂話のネタにされている。それはエリカにとってよい環境ではないとハリエットは危惧し、あえて楽器提供の申し出を断った。
幼少のころから貴族との付き合いがあるエリカは、物腰や所作など一般市民の子どもから離れた感じがあった。言葉使いも大人びており、それを子どもらしくないという大人もいた。それだけでなく、エリカはオルソン家のジョシュア以外子ども同士の付き合いを知らない。ジェニングズ一味に長い間拉致されたこともあり、子ども同士で関わる機会を失っていた。それを埋めるかのようにジョシュアはエリカと接している。オルソン家の嫡子アーネストの長男として大切に育てられてるジョシュアは、外部から来ていたエリカに好意を持っている。エリカも子どもらしく付き合いができるジョシュアに身分の差はあれど好意を持っていたのである。
教育の面では日常生活に必要な言語や数の教育をもっぱらマリサとハリエットが行っていた。しかしそのマリサも航海中である。ハリエットひとりで家を守り、家事と育児をこなしている。毎日気を張っている状態だった。
エリカの教育と家庭を守ることで日々慌ただしくしているハリエット。まさかマリサが嫁いできた後もこのような生活になるとは思ってもみなかった。マリサが嫁いできてくれたことである程度は覚悟をしていたつもりであったが、本当はマリサとふたりで家庭を守り、フレッドが航海中でもその帰りをエリカと共に楽しく待つ日々を送りたかった。しかし、今となってはどうしようもないことである。目の前にいるエリカだけでも立派に育て上げなければならないという責任と意思がハリエットの心を支えていた。
音楽の練習を終え、送りの馬車で帰路に就くハリエットとエリカ。馬車が家へ到着するたびに行き交う人々や噂好きな近所の人々が窓から覗くこともあったが、最近は慣れたのかその人数は少なくなったようだ。
エリカは疲れからか馬車の中でうつらうつらしていたので、到着しても座席にもたれている。そんなエリカを御者は抱き上げて馬車から降ろすと、そのかわいいい顔を名残惜しむように見つめ、笑みを浮かべて帰っていった。
「家へ着いたわよ。起きてる?」
ハリエットの声にエリカは薄く目を開けてはいるが、眠気が抜けないのか自分から歩こうとしない。仕方なくハリエットが抱き上げようとしたときだ。
バーン!
近くで銃声が聞こえた。こんな街中で何ごとかと慌ててエリカを抱き、身を伏せるハリエット。見ると街道でひとりの男が血を大量に流して倒れている。誰かが彼を狙ったようだが犯人の動きなぞ分かるものではない。
人々の悲鳴、役人を呼べという声、次々に人だかりができていく。また、遠巻きに見ている人々やかかわりたくない人々は家へ入り窓からのぞいていた。
この音でエリカはいきなり現実に戻される。そして大きく目を開け、目の前に起きていることの情報が一気にエリカの意識へ入っていった。
何かの糸が切れそうだった。
「おばあちゃん……」
体を震わせ始めたエリカを見てハリエットは即座にだき上げると家の中へ入り、エリカを何度も抱き締めた。
「大丈夫……大丈夫」
そのまま椅子へ座らせて部屋を暖めるべく暖炉へ火をくべようとする。しかしその行為はエリカの糸をさらに張り詰める。
「いや……怖い、怖いの……。なんだか怖いの……」
エリカはそのまま泣きじゃくってハリエットにしがみつく。この様子にただならぬものを感じたハリエットはそのままエリカが寝付くまでエリカを抱いて椅子に座って時間がたつのを待った。
ハリエットはエリカにかけられている魔法を知らない。人が銃弾に倒れている怖さだろうとしか思えなかったが、それは仕方がないことだった。エリカに催眠をかけたオルソンはマリサにこう言っている。
「総督の屋敷でアイザックが海賊を銃殺するのに関与したエリカの記憶はいつまでも催眠で隠せるものでない。いつの日かそれ以上のことが起きると催眠は解けて忘れさせていた記憶が一気に蘇るだろう。それを忘れるな」(仕組まれた罠編 2話 疑惑)
オルソンの催眠により順調に音楽の勉強を続けていたエリカ。その魔法にほころびができたのである。
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