16海賊舐めるな
おとなしくしていたマリサ、そろそろ我慢の限界が来たようで……。
そう、マリサの通り名はあれなんですよね。
ノミだのシラミだの書いている作中になんだか私もむず痒くなってきました。
毎日風呂へ入る有難さを感じております。
ハーヴェー船長が指揮するジェーン号は順調に船足を進め、最初の目的であるル・アーブルへ寄港し、デュマ団長一座を降ろした。
「今回の上演は貴族の結婚式という華やかな場での上演で、私たちの経歴に色を付けてもらった気持ちだよ。ブラント伯爵様やテイラー子爵様に感謝の気持ちでいっぱいだ。そして、駆け落ちした女優の代役として急遽演じてもらったマリサにも感謝しているよ。きみの演技力を活かされないことがもったいないくらいだ。まあ、フランス演劇の面白さをロンドン市民にも知ってもらえたとこで今回の旅行は成功だったと言える。本当にありがとうよ」
デュマ団長は名声と収益を得られたことが嬉しいようだ。その横ではジェーン号の連中が荷下ろしをしている。
「こちらこそ、フランス語を手早く学ぶことができて助かりました。ところで駆け落ちした女優は結局イギリスへ置き去りになった格好ですが、それはかまわないのですか」
女優を捜そうともしないデュマ団長にマリサは疑問を持っていた。あれほどまで大事な女優なら捜して和解策を見つけた方がいいのではなかっただろうか。少なくとも女優がいれば演劇の上演も回数をこなして収益を得られたはずだ。
「好いた惚れたは神様の手も及ばないのさ。捜したところで見つかりっこない」
デュマ団長はそう言って笑う。その笑みにマリサはいくばくかの不自然さを感じた。
(ここも何やら闇があるようだな。……まあ、もうあたしには関係のないことだ)
「どうかデュマ団長一座に神のご加護があらんことを!」
マリサが微笑むと彼は深々とマリサやハーヴェー船長に頭を下げた。
ル・アーブル港は16世紀初め、セーヌ川河口付近に造られたフランスでも有数の港である。デュマ団長一座はセーヌ川沿いを進み、ルーアン市で上演、その後パリを目指すとのことだった。演目を変えて上演をしながら代わりの女優を探すらしい。確かにここはフランス演劇の本場であり、代わりの女優を探すことは難しくないのだろう。
デュマ団長たちが下船したのち、港の役人が健康状態について尋ねてきた。幸いジェーン号はたまに船酔いをする者がいるぐらいで、皆いたって健康だった。そこでマリサたちはマルセイユに起きているペスト大流行の話を耳にする。
「マルセイユは今や立ち寄れねえ場所だ。俺たちの目的地がそこでなくて本当によかった」
ハーヴェーの言葉にその場の誰しもが胸をなでおろした。身分や貧富の差、人種限らず感染するペストだけは本当にどうにもできないのである。
「安心するのはまだ早いぜ、船長。以前、俺たちは何度もフランスへ荷や人を運んでいたが、そこは何度も諸国を巡った船が寄港していた。そして航海にはネズミがつきものだ。そのネズミは荷に紛れて上陸をしてしまう。ペストなんざ、ネズミが運んでいるのではと思えてならねえよ」
掌帆長のサイモンが答える。
「ああ、あのネズミってやつは本当に厄介だ。あとコクゾウムシもそうだ。金を払わずに食料を食い漁っていく。奴らにとって人間は美味しい生き物なんだぜ」
サイモンに続いてギルバートもつづく。
「虫といえばあのシラミやノミなんざ、小さすぎて俺の剣じゃ太刀打ちできねえ。寝る前に枕や毛布をパッと払っても寝ているときにチクってくるからな。あれも航海のお友達だ。ペストの友達がいてもおかしくないぜ」
彼らはペストの惨状をまだ見ていない。ただ、ペストが流行している町はたちまち死の町と化していくのは知っていた。彼らの言うとおり、船には積んでいる食料をネズミやコクゾウムシが狙い、寝床にシラミやノミが潜む。
マリサは彼らの話を聞いているうちに体がむず痒くなってきた。想像しただけでもゾッとするが、それは紛れもない事実なのだ。
「どこか湯あみをしたいものだな。貴族様のお屋敷にはたいていそれができたんだが……今のあたしたちには無理な話だろうけど」
そう言ったとき、さっきまで世間話がてら話を聞いていた役人がマリサに忠告する。
「湯あみなどしたら体が温まってほっとするでしょう。それが危険なんです。入浴することで毛穴が開き、そこからペストや梅毒が入ってしまうんですよ。体は拭くだけで十分です。皆さんの健康状態はわかりました。先ほどの演劇一座の健康状態も把握しています。貴方たちの上陸を許可します」
そう言って役人は船から降りていった。彼ももしかしたらペストの感染者と知らずにかかわって自分も感染してしまう恐れがあるのだ。それでも誰かがやらなければならない仕事である。
長い航海で汗まみれのままだとやがて体は臭いを放つ。入浴ができる貴族であっても毎日入浴や湯あみをする者は限られている。役人が言ったような話は広く知られており、それが不衛生に輪をかけた。体臭対策に貴族は香水を用い、化粧をした。マリサが使用人の時代に時々行っていた湯で服をあらうことは潜んでいるシラミやノミ対策としても効果を期待できた。(本編17話 招かれざる客)
水を自由に使えない航海という環境であっても、マリサは自分が来ていた衣類を雨天時に甲板で踏み洗いをしていたので連中よりはまだましだった。これは自分のことは自分でやるというイライザの躾によるものだった。
ラビットをのぞいた連中は酒や女を求めて港町へ繰り出していく。フランス語がわからないハーヴェーやギルバートもサイモンたちが通訳してくれるので喜んで降りていった。酒と女、それがなければ不満から何が起きるかわからない。そしてラビットは逃亡奴隷としてみられてしまうので特に異国では船を降りないようにしていた。
「いいのかい、本当はここに停泊しないでまっすぐにオルソンの元へいきたいんじゃないのか」
オルソンはラビットにとっても特別な存在である。マリサの指示で逃亡奴隷だったラビットを匿い、仕事を教えてくれた。その後グリンクロス島のウオルター総督がラビットを買い上げた形となってからもずっとラビットの指導にあたって何かと面倒をみていた。もっとも、ラビットは仕事の呑み込みが早かったので砲撃というオルソンの趣味を継承するのには丁度良かったのである。
「大丈夫、オルソンは生き延びるために策を練っている。それをやらないオルソンでもないさ」
マリサはそう言って港の灯を見つめた。港町は賑やかなものである。とくにここは規模の大きい港で、フランス海軍の船も停泊している。そしてもう彼らは敵でもない。マリサたちの敵はジャコバイトの残党である。こんなフランスまでやってきて何をしようとしているのか。オルソンが毒の守り人であることを知って拉致したとすれば、要人の暗殺だろう。それはイギリスがフランスに対して戦争を仕掛けることとなる。絶対に阻止しなければならない。
(みすみすオルソンは毒を作るとは思えない……何か考えているだろう)
この船でオルソン家の秘密を知るものはマリサとオルソンの次男ルークだけである。オルソン家の秘密を知らない連中はなぜ一人の貴族のためにこうまでするのかわからないだろう。”青ザメ”時代からいるハーヴェーやギルバートは仲間を助けに行くと思ってはいるが、その他は金持ちの貴族を助けるためだろうとしか思っていない。
「俺が留守番しておくから町へ行ってきなよ。マリサはもうフランス語を理解できるし、情報収集してもいいんじゃないか」
ラビットはマリサの焦りにも似た不安を感じ取っていた。
「成長したな、ラビット」
マリサは少し考えた後、ラビットの申し出を有難く受けることとし、陸で過ごしているときのシフトドレスにスカート、リネンのキャップといういでたちで町へ向かった。この格好でいると市民たちにとけこんでどこにマリサがいるかわからないほどだ。
船乗りや海軍の人間たちを相手にする商売があることはたいていの港町ならみられる光景だ。ロンドン市ならコーヒーハウスがあり、そこで世間話やら噂話から政治の話まで多くのネタを得られるのだが、さすがに異国であり街並みが違えばそれをすぐに探すことができなかった。人の往来が少し減ったかと思われるところにようやく1件の店を見つける。
その店へ入ると多くの知識人らしき人々がテーブルを挟んで何やら議論をしていた。彼らはマリサが店に入ったのを見て一瞬、黙り込んだ。それはどうもマリサが場違いなところへきてしまったような感じを与えた。それでもマリサの容貌を見るとひとりの男が席を案内した。
「あんた……何か思い詰めているのか。目つきが刺すようだぞ」
細面のその男に言われてマリサはハッとする。知らず知らずのうちに警戒心からくる仏頂面になっていたのだ。ここはコーヒーハウスという社交場である。場に応じた表情をしておくべきだ。慌てて作り笑いをすると案内された席に座った。
「確かに思い詰めておりました。私は働きに行くと言って家を飛び出したまま長いこと帰ってこないし連絡もよこさない父さんを探しにフランスへ来たのです。ここは大きな港だから何か情報がないものかと。イギリスではコーヒーハウスへ来たら大概の噂はありましたから」
マリサはコーヒーを注文すると切々と身の上話を語る。もちろんこれは女優マリサの作り話である。話しながらたまに涙目を見せると男たちはすっかり話に聞き入っていった。
「父の名はアルバート。栗毛の長身の男です」
そう言ってマリサはオルソンの名前を書いて見せた。
「アルベール(アルバートのフランス読み)……というのか。イギリスから来た男でその名の者は知らないな」
客たちがそうだそうだと頷いていいく。確かにそうである。サイモンたちが貴族らしき人物を降ろしたのはここではない。おまけに栗毛で長身の男はそこいらじゅうにいる。だから男たちもはなから捜せるものとは思っていない。
「せっかく父親を捜してここまで来たのによ……あんた可哀そうなことだ。この国へ働きに来たって言うが、マルセイユじゃペストが大流行りだし、国王陛下も若すぎて(5歳で即位したルイ15世はこのとき10歳のこどもだった)まだ先が見えない。先王の遺言でルイ15世が成人するまでは摂政職をおかずに14人の賢い人が集まる摂政諮問会議で国政がなされるんだぜ。期待していいのかどうかは俺たちはわからない。あんたの国の王がよその国から来てしかも英語を話せないのと同じだ。政治の仕組みが変わってくるからみてみな」
その男のいうとおり、ジョージ1世は英語を話せないという大きな問題があった。(後世の調査では、いくらかの英語の理解力があったという資料が残されていたことから、全く英語を話せないというのは誤りだったとされる)この問題によりジョージ1世は国政をウォルポールに任せ、それがやがて責任内閣制へ発達していく。
「知り合いがいるからアルベールという男の情報をきいてやるよ。ところであんたの名前をまだ聞いてなかったな」
さっきまで黙っていた黒髪の男が近寄って尋ねた。
「マ……エリザベスといいます」
一瞬考えてセカンドネームを答えたマリサ。
「イザベル(エリザべスのフランス読み)か。お前、フランスの名前の方が似合っているぞ。ところでさっきから聞いていたがお前のフランス語はどこか芸術的というか文学的というかなんというか……」
また別の男が聞いてきた。
「丁度イギリスへフランス演劇の一座が来ておりまして、手伝いをするうちに演劇のセリフが耳に入ったからでしょう。モリエールの『町人貴族』という作品でしたが貴族になりたい男の貴族像がなんとも滑稽な作品でしたよ」
マリサが言うと彼らは納得したようだ。演劇の台本をほぼ丸暗記で覚えたのが基礎となっているマリサのフランス語は固い言い回しもある。
「よし、じゃあ知り合いを紹介してやるよ。そいつは顔が広いから仕事を世話することはよくある。俺はクレマン。付いてきなよイザベル」
立ち上がって店の外へ出たクレマンをマリサも追う。正直、この場で情報を得られると思ってもいなかったが、それでも何か得られるかもしれないと思い、マリサはクレマンの後を追った。マリサたちが出たのを見計らって残された男たちが笑い出した。
「やれやれ……クレマンも世話好きだな。でもあの女なら金になりそうだぞ」
小声でそう話すと再び笑い声をあげた。
マリサたちとは別のテーブル席に座り、小声で話をしているグループがあった。賑やかな店内であり小声なのでマリサの耳には入らなかった。もとより彼らはマリサが話していたグループの仲間ではない。
「今日港へ入ったブリガンティン船、ジェーン号っていうんだが、何やら貴族くさいぞ。船から降りてきた劇団のひとりが言っていたが、貴族が絡んでいて積み荷もお宝があるらしい。しかも船乗りの中に女がいる。女は演劇にもかかわってたそうだ」
「女の船乗りって珍しいよな。いや、俺はお宝の方が興味ある」
「決まりだな。お宝をいただこうぜ」
話が決まると彼らは店を出た。彼らは生活に困窮した船乗りたちが集った海賊であり、船を襲撃しては略奪を繰り返していたのである。
一方、クレマンとともに店を出たマリサは路地裏の店へ入っていった。人通りが表通りほどなく、歩いていると上の部屋の窓から女が汚水を投げすてたので、慌ててマリサは体を避けた。(下水道がなく、汚物は窓から捨てられた)
(言っちゃ悪いが、いかにも悪者の舞台ってところだ。こいつ、あたしをはめようって魂胆だな)
マリサは警戒するとスカートに忍ばせたサーベルや胸元のナイフを確かめる。それでも本当にクレマンの知り合いとやらは何か掴んでいるかもしれないと思い、黙って店へ入っていく。
クレマンは店内にいた主人へ目くばせし、酒を注文するとマリサを2階の部屋へ案内した。続いて主人が酒をもって入ってくる。
「旦那、ここにいるイザベラは仕事を求めてフランスへ来たアルベールという名の父親を捜しにわざわざイギリスから来たんだ。健気に言葉まで覚えてな……可哀そうだと思うだろう?」
クレマンがそう言うと店の主人は何度も頷く。これはきっと演技だろうとマリサは思った。
「可哀そうってもんじゃないねえ。この広いフランスでどうやって手掛かりを探すつもりだ?ここならたくさんの船乗りや客がやってくる。彼らを相手にするという手もあるぞ」
店の主人はマリサの顔を覗き込んだ。この表情にマリサはある男を思い出す。
(ガルシア総督、あんたに似たような人物がここにもいるぜ)
海賊時代のマリサを執拗に追っていたガルシア総督。マリサはオルソンから教わった貴族のたしなみで彼を毒殺している。
「ここで働かせていただけるのですか。まあなんてお優しいお方」
マリサはわざと声を高くしてねだるように返事をした。
「ほう……この女は話を理解しているぞ。クレマン、言葉が通じるなら話は早い。やっとくれ」
そう言って店の主人は安心した顔つきで出ていった。
「ということでお前はこの店に雇われた。旦那から気に入ってもらえたんでたくさんの客をあてがってもらえるぞ。お前はいい稼ぎ頭になることは間違いなしだ。手始めにこの俺が物事の順序を教えてやるから安心しろ」
クレマンの言葉にマリサは自分の予想があたったことを内心喜んだ。
(どいつもこいつも考えることは同じかよ!)
事件を巡って一向に進展しないことにストレスを感じており、それは危険な状態でもあった。そんな勢いもあってか、マリサは笑みを浮かべるとクレマンに誘われるまま抱き合い、ベッドへ転がり込んだ。
階下の店で客に酒を出している店の主人。久々に稼ぎ頭となりそうな人材を手に入れて上機嫌だ。このまま借金でも負わせてここから出られないようにすればかなり収益が上がるだろうと、捕らぬ狸の皮算用をして上の空だ。( Il ne faut pas vendre la peau de l'ours avant de l'avoir tué. まだ殺していない熊の皮を売ってはいけない フランス語ことわざ:出典 https://parisjuku.com/1083-2/)
おかげさまでどの客にも愛想がいい。
ところがしばらくしてこの夢は大きく破れることとなる。
「ギャーッ!助けてくれえ」
2階からクレマンの叫び声が響く。それを聞いたその場の客たちも何ごとかと大騒ぎをする。大慌てで部屋へ駆け込む店の主人。
「旦那、助けてくれ……」
そこには弱弱しく泣きわめく裸のクレマンと、彼に馬乗りをし、ナイフで今まさにクレマンの局部を切りつけようとしているマリサの姿があった。
「心配しないでクレマン。私、初めてではないのよ。ええ、こういうことに慣れているわ」
そう言ってマリサは笑うと思い切りナイフを振りかざした。
「うわーっ」
店の主人とクレマンの叫びがあたり一面に響く。
とっさに目を閉じたクレマンはまだ大事なものが無事であることを知り、体中を震わせる。そしてなんども大きく息をした。
マリサはごくわずかなところでナイフを止めたのである。これはオオヤマから教わっていた寸止めという剣技の応用だ。
「海賊を舐めんじゃないよ(Il ne faut pas lécher les pirates.)。ここで私が騙されてしまったらあなたたちはイギリスを敵に回すこととなる。私はマリサ。海賊界隈じゃちっとは名前が知れ渡っている」
そう言ってクレマンの体から離れると服を整えた。
「マリサって……あの時代遅れの海賊”青ザメ”の?○○切りのマリサという噂は本当だったのか……」
クレマンは助かったと知って慌てて服を着ている。
「うるさいわね、時代遅れっていうのは余分だわよ」
マリサはペチコートの下からサーベルを抜くと店主に先を向けた。
「いいか、女を騙すなんて真似を二度とするな。またやったら海賊連中むかわせるからな。連中は暴れたくてうずうずしているんだぜ」
海賊マリサの目つきで睨まれた店の主人は足ががくがくしている。
サーベルを鞘に入れるとマリサは再び何も知らないような田舎娘の顔つきで部屋を出ていった。
(本当にちょん切ってやりたかったけど……これ以上あたしの不名誉な通り名をのこしたくないからな……助かってよかったなクレマン……)
通りを歩くと反対側の家の窓からまた汚物が投げられる。
一目散でその場を離れ、マリサはジェーン号に戻っていった。
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