13恐ろしいのはペストだけじゃない
マルセイユのペストは検疫の失態から大流行しました。たちまち感染した市民の遺体があちこちにあふれ、その遺体の搬出の人員も不足してしまい、最後には囚人を使いました。また、埋葬も教会墓地でなく集団墓地に埋葬されました。感染を広げないためだったのでしょう。100人の囚人は1000体の遺体を石灰で覆い、埋葬しました。生き残った囚人はわずか5人でした。
ローマの地で、流れゆく雲を見ながら一向に世の中が自分へ向かないことに焦りを感じている男がいる。巻き毛の長いかつらをかぶった、信仰の違いで国王になれなかったジェームズ・フランシス・エドワード・スチュアートである。プロテスタントという、たったそれだけで腹違いの男が他国から国王の座についていることに理不尽さを感じていた。
スコットランドを起源としているスチュアート王朝からは1371年から1714年まで数々の国王、女王が生まれている。それを引き継ぐのは当然自分だと思っていたが、カトリックを信仰しているために国王候補からはじかれてしまった。フランスでの亡命生活を経て今はさらにイングランドから遠いイタリアに住んでいる。1715年に王位を求めてスコットランドで反乱を扇動したものの、病身となってしまい、戦いに指揮を執ることができずに失敗してしまった。自分の国ですら入ることができず、ローマ教皇の庇護のもと、こうして年金をもらいながら異国で暮らしているのだ。
いつになったらイングランドの土を踏むことができるのか。その焦りが日に何度も現れては彼を苦しめた。
ジェームズの妻、マリア・クレメンティナ・ソビエスカは身重である。生まれ来る我が子のためにも国王でありたいと思った。
そんなある日、ジェームズの屋敷に客人が現れる。
4人の身なりを整えた貴族と思しき人物である。
「おお、フィリップ、ロバート、そしてヘンリエッタ、よくぞ来てくれた。今日は仲間を連れてきたのか」
ジェームズは頼もしい仲間が来たとあって嬉しそうだ。
「私どもの計画に必要な人物でございます。彼の名はオルソン伯爵です。きっとお役に立てると信じております」
年輩のフィリップはオルソンを前に出させた。ヘンリエッタが一瞥したのを見てオルソンが恭しく礼をする。
「オルソン伯爵……すまない、私はその名にあまり記憶がない」
ジェームズは首を傾げた。
「辺境である田舎の領地を守っておりますのでご存じないのもごもっともです」
オルソンの言葉に納得したのか、ジェームズは頷き満足そうな顔をする。
「……まだまだ国には私の支持者がいるのだな……大変心強いものだ。ところで計画は進んでいるのか」
「お任せください、順調に進んでおります。ただ、ご存じのようにマルセイユは今や死の町と化しています。社会不安を利用する手も無きにしも非ずですが、あの悪魔だけはどうしようもありません。あの悪魔がローマへ来ることがないように神に祈るばかりです」
オルソンのそばにいたロバートはフランスや周辺各国を震撼させている懸念事項を話す。
1720年5月25日、マルセイユ港にシリアから綿花や綿織物を運んできたグラン・サン・タントワーヌ号が入港したことに端を発して広がったペストはたちまちマルセイユを呪われた町としてしまった。
グラン・サン・タントワーヌ号はキプロスやレバノンなどから織物や石鹸製造に使う灰を積み荷としていた。キプロスやレバノンといった中東地域はペストが土着しており、常に感染の懸念があった。そのため検疫体制が敷かれ、感染症の疑いがないことを証明する健康証明書(寄港先の領事が発行する)の提出が求められた。グラン・サン・タントワーヌ号がレバノンから積まれた荷物が汚染されてる可能性があったが、すでにダマスカスでペストが流行していたことを知らなかった領事は健康証明書を発行してしまう。これが最初の不孝だった。その後船は各地に寄港し、そこでも健康証明書が発行される。
4月、14人の客を乗せてキプロスを目指すもひとりの客が死亡、遺体は海へ投げられる。残りの客はキプロスで下船するがマルセイユに到着するまでに5人の乗員が死亡していた。感染症の疑いの発生に船長はリヴォルノへ引き返すことを決断する。すでにイタリアでは上陸が許可されず、リヴォルノへ到着したまもなく3名が死亡した。医者の見立ては『熱病』であった。(ペスト菌の存在が1894年、北里柴三郎によって発見されるまでこの感染症の見立ては正確でなかった)健康証明書の裏面には熱病の発生により上陸を拒否したと書かれている。
その後マルセイユ港へ帰港したグラン・サン・タントワーヌ号はゆるい検疫を受け、結果的にペストがマルセイユへ入ってしまう。検疫をゆるくして荷揚げをさせたのは、荷の所有者たちのよる介入が行われていたとされる。利益優先がペストの大感染を招いたのである。
このマルセイユのペストの流行は収束まで2年余りかかることとなった。
客人たちは用が済むと帰っていったが、ジェームズはひっかかるものがあった。
(国王となるべき私がなぜオルソン伯爵を知らなかったのだろう……もしかして彼は名をかたっているだけなのか?フィリップたちが騙されているとは思えないが、なぜだ?)
金で爵位を買ったという新興の貴族かもしれず、そうであるなら自分のことを国王と認めないかもしれない。ジェームズはオルソンを信用していいものか迷っていた。赤子のころに亡命した自分はイギリスの風土や文化など記憶がない。でもいつかはこの足で国王としての一歩を踏みしめたいと思っている。
(神よ、我を守り給え)
目をつむり、母と過ごした日々を思い出す。名誉革命により翻弄され続けている自分を憐れむか、それとも鼓舞するか……頼みの綱はジャコバイト派の人々である。フィリップたちも計画に備えて人員を集めている。
窓から見える景色はいつもの空だ。この空は遠くの国から近くの国まで続いている。ジェームズは目をつむると大きく深呼吸をした。
ジェームズの屋敷を出たオルソンたちはそのまま陸路を走り、入り江のある河口からスループ船に乗りこんだ。スループ船は漁船に見立てておりヘンリエッタたちの仲間がいた。
「あなた、あまり名の知れた貴族じゃないってことなのね。フランス語を理解しているからきっと有力な貴族だろうと思っていたの」
オルソンをみたジェームズの態度に疑問を持ち、オルソンに尋ねるヘンリエッタ。彼女は細身であるが気品のある顔立ちだ。使用人として屋敷で働きながらも俗っぽい話が似合わない女だった。
「フランス語は貴族の教養のひとつだ。お前は何を思ったのか知らないが、オルソン家は歴史だけは古いものの、あまり華々しい話や実績もない家柄だ……ジェームズ氏が私をご存じないのも当たり前のことだ」
オルソンはそう言いつつも胸の内では彼がなぜ自分を知らないか知り得ていた。
(毒の守り人たる私をご存じないということは、彼が国王を名乗っているだけの王位請求者に過ぎないということだ)
「それならこれから華々しく役立って頂戴。貴方の名前もきっと憶えてくださるし歴史に残るわ」
ヘンリエッタは勝気な目でオルソンを見つめた。どこか寂し気で憎しみを伴っている目だ。
「私に貴族殺しという偽の罪を着せ、今度は王室を狙わせるのか……本気で戦争を嗾ける気か?勝てると思っているのか」
そうオルソンが言ったときヘンリエッタはすかさず持っていたピストルの銃口をオルソンに向けた。
「やめろやめろ、こんな船上で内輪もめは厳禁だぞ。……俺たちは上陸し拠点へもどらねばならん。オルソンに教えてもらった物を作らないといけないんだ。今からそんなことで争うな」
フィリップはそう言って年配者の貫録を見せる。この大人の意見は素直にヘンリエッタも聞き、争いはいったん取りやめとなった。
「ジャコバイト派を支持していた海賊たちも海賊共和国の瓦解でそれどころじゃないようだ。3月にヴェインが処刑され、巨頭といわれたジェニングスは恩赦を受けて土地財産を守っているそうだ。使えそうな海賊どもは散り散りになってしまった。私たちが擁護していた海賊たちも……あの非常な奴らめ!……もう俺たちが立ち上がるしかないんだ。そこを理解しなきゃならん」
フィリップの隣にいるロバートはいら立ちを隠せないでいた。
海賊が役人を追い出し、自治をしていたニュープロビデンス島ナッソー海賊共和国の栄華は長くなかった。国王の恩赦をものともせずに海賊家業を続けた海賊たちは次々に討伐にあい処刑されている。自治は国の統治へと変わり、海賊たちは生き残りをかけて大西洋へ散っていった。
「ムエット号はなかなか使い勝手のある船で船乗りたちも気がよかった。それなのに可哀そうなことをしたな……」
フィリップはため息をつく。ああまでして自分達の秘密を守る意味があったのか。
「……死んだ人間たちに同情するなんてあなたらしくないわね。私たちはやるべきことをやった、それまでよ。どのみち……」
そう言ってヘンリエッタはオルソンを見つめた。
(どのみちこの男には死んでもらうけどね。せいぜい残された時間を有意義に過ごすといいわ。自分の過去の罪をなんとも思わない男は呪われるべきよ)
ヘンリエッタはオルソンに対して強い憎しみを持っていた。自分たちの計画に彼が必要なかったらすぐさま殺してしまっただろう。そしてオルソンもヘンリエッタからくる殺意に気付いていた。しかし、オルソンは海賊として何度も敵を倒しており、立ち振る舞いも知り得ている。ヘンリエッタの気持ちなど知らないかのようにじっと景色に見入っていた。
オルソンたちが乗っているスループ船は悪魔の病気ペストが蔓延しているマルセイユ港を避け、そのまま地中海を航海する。この船の船乗りたちは地中海の各地を交易で巡っており、地中海の風をよく知っていた。
南の海上から吹き込む風は温かく湿っており、先ほどまで晴れていた海上は見る間に霞がかかっていく。だからこそ手慣れた船乗りが必要なのだ。この湿気を含んだ風は陸地が近づくにつれ霧を発生させ、そして激しい雨を呼んだ。
ザーッ……。
「お客さん、早く中へ入って下せえ!この雨はやみそうもありませんや」
船長がオルソンたちを促したので、彼らは急いで船内へ入っていった。
しばらく悪天候が続いたが、陸地が近づくにつれ少しずつ風が弱くなっていく。船を運んだこの風はいくつかの地中海特有の風のひとつであった。
「マルセイユのペストの情報を何か聞いているか?患者が出た家を燃やせばよいのではないか」
オルソンもペストの怖さを知っているので、いつ自分たちの周りに来るのか状況を把握したかった。
「状況は悪くなる一方だ……最初の死人が出たのが6月20日。28日は仕立て屋の友人ミシェルが亡くなった。以降、次々と死者が出ていった。7月に入ると町は死人で溢れた。これというのも、ペストに汚染された可能性がある積み荷を陸揚げして開梱したからだ。積み荷の所有者たちは自分たちの利益しか考えていない。だから金持ちや貴族は嫌いなんだ。この手でみんな殺してやりたいくらいだ」
ロバートはこぶしを握り締めて感情を押さえている。
「オルソン、あんたが毒に精通しているならペストを打ち消す毒を作れないのか……いや、冗談だよ……あんな悪魔は教会にでも相手をさせておけばいい。マルセイユの金持ちは市外から郊外へ逃げている。いくら家の中で硫黄を燃やしたり家を壁で囲ったりしても全く用をなさない。我々はペストの前では無力なんだよ、オルソン」
ロバートに同調するかのようにフィリップが答える。
7月に入るとペストで亡くなった人々はうなぎのぼりに増加していた。グラン・サン・タントワーヌ号がペストに汚染されたかもしれない荷物を積み、検疫を防疫をしっかりやっていたら防げたであろうペストの大流行によってその後多くの人々が命を落としていく。
1720年7月31日、プロヴァンス高等法院は感染拡大を防ぐために、マルセイユ市民に対して市外へ出ることを禁止し、プロヴァンス地方の住民に対してマルセイユへの往来を禁止した。それを破った者は死刑とされた。
フィリップは計画を実行するためにも余分な懸案事項であるペストの感染を最も恐れた。正体を見ることや察知することもできないペストは計画の脅威である。
船を降りると彼らは町はずれにある工場を訪れる。そこは小麦から小麦粉を作る小さな製粉工場だった。イギリスではアメリカから輸入していた小麦粉だが、ここでは自分たちで作っているのだ。
「お前たち、私の留守をよく守ってくれた。できた小麦粉のことも頼むぞ」
フィリップは製粉工場の経営者だった。それは表向きなのか、使用人たちもフィリップの正体を知っているのかどうかはわからない。
貴族殺しという無実の罪を着せられ、気が付くとここへ連れてこられたオルソン。協力をしなければオルソンの屋敷へ刺客を送るという脅迫に屈しなければならなかった自分を責めてしまう。
(このまま彼らに利用され、罪を着たまま自分は死ぬのか……いや、必ずわたしは立場を逆転させる。マリサ、お前がいつもそうしてきたようにな)
どんな状況にも負けずに反撃していったマリサ。自分が簡単にここで亡くなったとしたらマリサは許さないだろう。ともかく今は状況把握とフィリップの言う計画とやらの全体を知らねばならない。
イギリスの風土に比べ、フランスは小麦やブドウの栽培に適した風土だった。そのためフィリップの小さな工場で製粉をし、袋詰めしたものを倉庫の2階で保管している。買い付けがあればここから出荷するのだ。
フィリップたちに促されるように倉庫1階へ入るオルソン。以前は1階には出荷用のワインを置いていたが、今はほとんど売れてしまい、数樽残っているぐらいである。
「ここで例の物を作ってくれ。必要なものは取り寄せる」
フィリップはそう言っていくつかの道具をだした。
「もういっかい言うが、これは本当に恐ろしいことをやろうとしているんだぞ。ジョージ1世を亡きものとし、それだけでなくルイ15世も亡き者とするとは」
オルソンは無理思いながらも彼らの説得を試みる。しかし、オルソンの訴えに全く耳を傾けなかった。
「……貴方はいわれたことをやってくれたらそれでいいのよ。……アーネストとジョシュア、ふたりがいなくなればオルソン家はどうなるかしらね……」
ヘンリエッタは薄ら笑いをしている。なかなか一筋縄じゃいかない女だ。
無言でオルソンは道具を取り出すと頼まれた薬物の精製にとりかかった。そして作業をしながら彼らの様子を伺っていった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ご意見ご感想ツッコミお待ちしております。