11奔放なる女優マリサと仮面夫婦
この回を書くまでモリエールなんて中学校の暗記項目でしかなかった。マリサの時代の演劇事情を調べていくうちに、国語の教科書で扱った物語や説明文の記憶が蘇り、もう一度読みたいと思ったけど、題名のわからないものが多い。
私が子どものころ、田舎なので本屋はなく雑誌を扱う店がある程度。国語の教科書や道徳の教科書が配布されるとむさぼるように読んだものだ。ああもう一度読みたい国語の教科書。
ブリガンティン船の修理は順調に進められ、海賊にやられた時のあの姿を思い出すことが難しくなった。マリサの期待通り、腕の良い船大工たちをハーヴェーはかき集めていた。これは彼の長年のキャリアからくる人脈のおかげだ。それだけでなく、足りない人材も見つけていた。恩赦によって海賊をやめた者や、仕事を求めて港にたむろしていた船乗りたちを彼なりの人選でスカウトしてきたのである。
マリサのほうはフランスから来ている劇団に入り、必死にフランス語の台本を覚えている。特に英語とフランス語の発音の違いの規則をたたき込まねばならず、家へ帰ってもエリカが読み書きの学習をする傍らで、マリサもフランス語の台本を丸暗記することに勤しんでいた。
「母さん、フランス語難しそうね。でもなぜ貴族の方はフランス語を学ばれるの?」
ぼそぼそ丸暗記をしている最中にエリカが尋ねてくる。
「フランス語の心得があると、洗練された貴族だと思ってもらえるからだろうね」
そう言ってマリサはエリカを抱き締めた。自分が子どものころはオルソンの屋敷でオルソンの息子たちの遊び相手をしたり、文字の読み書きを教わった。ある事件から使用人の手伝いをすることで、その見返りに貴族の教養やたしなみも教わった。(幼少編 4話 使用人マリサ)もっともこれはマリサを高級娼婦として育て上げ、王族や公爵家へ差し出すことで自分を優位にさせるオルソンの思惑だったらしい。しかし運命は思い通りにいかず、マリサは屋敷を出て海賊団に加わってしまった。そしてオルソン自身も妻マデリンの散財により財政が緊迫してきたため海賊船に乗ることとなった。
自分が使用人として働いてきたことや海賊として戦ったことは否定しない。それはマリサにとって自分らしく生きてきた証だ。フレッドとの結婚もウオルター総督から特別艤装許可証の見返りに約束させられたことだったが、最後は自分の意思で決めた。目の前にいるエリカも自分の道は自分で歩んでほしいと願っている。
スチーブンソン家の子どもはエリカひとりである。貴族ならば長男がいることで世襲できるが、市民である自分たちにその縛りはない。それでも義母ハリエットがときどきこの家を継ぐ者がいないままなのかとマリサのそばで呟くことがある。もうこれはどうしようもないことだ。
ブリガンティン船の修理が終わるころにはある程度のフランス語を話すことができるようになったマリサ。元々の演技力が発揮され、どこから見ても女優だ。そして女優の駆け落ちで延期となっていた上演の日が決まった。この上演のためにかかった費用は渡航費や生活費だけでも馬鹿にならない金額であり、給料が滞っていた。当然、見返りにフランス語を教えてくれといったマリサは給料がない。劇団員たちが不満を持ちながら今日までデュマ団長についてきたのは上演が約束されているからである。それも延期を上演先の貴族が認めたのもやむを得ない事情があったらしい。
「みんな集まってくれ、上演のことで話がある」
そう言って黒ひげを生やしたデュマ団長は仲間を集めた。
「予定していた上演場所が先方の都合で変わった。なんでも娘が結婚するので嫁ぎ先で披露してほしいとのことだ。全くこういうことはもう少し早くに言ってほしいもんだな。上演先はテイラー子爵家だ」
マリサはそれを聞いて飛び上がらんばかりに驚いた。事務所でテイラー子爵にあったとき、劇団へ入ってフランス語を覚えてくるとは言ったことがあるが、ここへきてまた策略にはまってしまったのだ。結婚式であるなら双子の姉のシャーロットが招待されているし、何よりテイラー子爵の結婚相手はマリサの天敵ジェーン・ブラントではないか。ブラント家でも身分が低くなる子爵家へ出戻りの娘を嫁がせることに引け目があるのだろう。ここでブラント家とテイラー家の思惑が一致したのだ。そしてテイラー家の上演の後、場所と演目を変えて市民向けに寸劇を上演をするとのことだ。
(伯父様……どこまでもあなたは策略家ですね……)
マリサはため息をつくと仲間とともに準備に取り掛かる。あのジェーンと会うことは虫唾が走るが、伯父の結婚を祝いたい気持ちがあったので気を取り直した。この話を聞いてハリエットとエリカも劇をみたいと言っていたが、市民向けの演目もフランス語なのであまり話の意味は分からないだろうと言って演技だけ楽しんでほしいと話した。他の市民もフランス語の教養がどれだけあるかわからない。だから演技は重要なのだ。
テイラー子爵家の結婚式の前日には劇団の俳優や大道具や小物など持ち込まれ、舞台を作り上げることができた。マリサも他の俳優たちとともに練習に余念がない。貴族を前にしての上演ということで俳優たちも舞台衣装にこだわっている。フランスから来ている彼らはフランス流のファッションを取り入れ、化粧ひとつにとってもフランス風に行っていた。確かに海上の覇権を手に入れたイギリスだが、おしゃれやセンスなどはまだフランスより遅れた感じがあった。フランス流の衣装と振る舞いを余すことなく貴族の前で披露するのだ。イギリスは1660年の王政復古によって劇場が再開されると、周りの国々で研鑽を積んだ人々によって演劇に新たな風が吹き込み、女性の役は女性が演じるようになった。
完成した舞台に立ち、覚えたセリフを言ってみる。発音の規則性もなんとか身に着けた。その後、他の俳優たちも混じって通し稽古をする。演目はフランス劇作家モリエールの『町人貴族』で、演劇中心に行う。デュマ団長はシェークスピア慣れしたイギリス人のために台本を書き換えている。そのためバレの出番と人数が少ない演出となっている。マリサはこの台本を母国語とフランス語を対訳しながら暗記していった。その記憶量は膨大で時間がかかったが、オルソンを救出するための布石だとして寝る間も惜しんで覚えていった。ただ、この『町人貴族』の話の展開や設定を考えると何か思惑があるようでならない。
『町人貴族』は財力があって貴族になろうとしているジュルダンと彼を巡る人々の騙しあいや駆け引きの物語で、そのジュルダンは布商人という設定である。何となくブラント伯爵家が身分下のテイラー子爵を揶揄しているようでならなかった。テイラー子爵家のルーツはその名の通り貴族や金持ち相手の服の仕立て屋として財を成し、貴族階級を買ったのが始まりだ。階級を買うことで貴族の数は増えており、とくに珍しいことではなかった。ただ、それが気に食わないものもいるわけである。
(伯父様がこの劇を見たらどう思うだろうか……これはブラント伯爵家の嫌がらせだな、きっと……)
全く身分差というものは面倒なものだ。夫フレッドでさえマリサとの結婚が貴賤結婚といわれて苦しんだのだ。マリサは出自を知ることなく使用人の子として育ち、常に身分差を感じていた。オルソンの妻マデリンが激高してマリサの頬をぶった時ほどそれを思い知ったことはない。(幼少編4話 使用人マリサ)しかし、少なくとも海賊”青ザメ”は違った。人種の違い、信仰の違い、身分の違いなどあったが、船に乗れば違いは関係ないという考えがあった。それはマリサに影響を与えている。
「おう、みんなよい仕上がりだぞ。本当によくここまでやってきてくれた。一時は破産を考えたがこれで何とかもちなおすことができる。本当にありがとうよ」
デュマ団長の目は少し潤んでいた。女優が駆け落ちして上演するにもできず、収益を得ることができなかった劇団にマリサが一時的ではあるが入団し、上演先もいろいろ先方の考えがあったものの、無事に決まっている。特に結婚式の余興のような立場なので皆を笑わせたらいいのである。
そしていよいよテイラー子爵の結婚式の日。
ジェーン・ブラントは数日前には馬車数台にぎっしりと荷物を載せ、それに加えて専属の使用人を5名ほど連れて輿入れしていた。その日は朝から化粧や着付けで殺気立つような忙しさだった。しかし当のジェーンは苦虫を噛み潰したような顔である。運命に翻弄され、悔しさや惨めな思いが心の中でとぐろを巻いている。その思いがあふれてしまい涙がこぼれてどうしようもなかった。
「化粧が落ちてしまいますよ、お嬢さま、気持ちを落ち着けましょう」
女官のひとりが涙をふくがジェーンは気持ちを押さえられなかった。
「何故に私がこのような仕打ちに合わねばならないの。身分違いの結婚なんて人を馬鹿にしているわよ。私はお人形じゃないのよ」
女官たちもその気持ちをよく理解していた。政略結婚であっても一時は侯爵家へ嫁いでいたのにその必要がなくなったので離縁され、家へ戻されたのである。以来、自分の身を悲観し続ける毎日だった。そして今回の結婚は身分違い結婚でジェーンに追い打ちをかけたのである。
着付けを終えるころには涙もおさまり、女官が崩れた化粧をなおした。そしてジェーンの不満はずっとくすぶっている。
「さあ、支度が出来ました。お綺麗ですよ、お嬢さま」
女官が声をかける。鏡を見たジェーンは悟ったかのように頷くと背筋を伸ばして立ち上がった。このまま領地の教会へ行くのだ。すでに招待客も集まっているだろう。着付けに時間がかかるということで夫となる人は先に教会へ行っている。
教会へ到着し、扉が開けられる。奏でられる音楽はテイラー子爵の好みによりヘンデルの「水上の音楽 アラホーンパイプ」だ。このために管弦楽団が呼ばれている。ヘンデルは教会音楽も手がけており、その演奏の延長だった。
参列者たちが一斉に自分を見つめる。そしてジェーンが向かう先には、年齢差があるとはいえジェーンを迎えるために正装をし、凛とした男性が立っている。あれほどまでにくすぶっていた思いは小さくなって固まってしまった。もう進むしかないのだ。
手を引く父も笑顔はないものの安堵した顔つきだ。もう心配をかけることもないだろう。
身分違いの結婚に対するジェーンの気持ちは固まった。自分をあざ笑う者たちを見返してやる、そのためには演技も必要だろう。
「これは……想像以上に美しい花嫁だ。期待通りであるぞ」
司祭の前で見つめあうふたり。
テイラー子爵家にとっては子孫を残し家を存続させること、ブラント伯爵家にとっては離縁されて出戻っている娘を嫁がせ、長子の結婚に影響させないことが目的だ。愛情云々は二の次だった。
滞りなく式は行われ、午後からいよいよ余興としてフランス演劇が始まる。舞台に集まってくる客たちは珍しそうに見てはあれこれ話している。皆フランス語を習得しているのかはわからないが、彼らにとってフランスは流行の先端をいっているようで、鑑賞することは自分を高める意味があった。
客の中にシャーロットを見つけるマリサ。予想通りシャーロットはマリサがそこにいることに驚き、大きく目を見開いて言葉を失っている。そしてシャーロットと同じ顔が舞台に立っていることに気付いた客たちもざわつきだした。傍らで貴賓席にいるブラント伯爵は薄ら笑いをしている。これからどのような劇が始まるか、それが何を意味するのか客たちの反応が楽しみだった。当のテイラー子爵とジェーンは並んで貴賓席へ座り、ともに視線の奥に何かを隠しているようだった。ジェーンは一瞬マリサの顔を一瞥したが驚きを隠した。互いの本心を知りつつも表に表さない、それも演技といってよかった。
デュマ団長は贅沢に着飾り、貴族になりたい布商人ジュルダンを演じ、マリサは金さえあれば何でもできると信じているジュルダンを諫める夫人の役を演じた。女優の演じる役は他にもあるが、はまり役の女優が駆け落ちしてしまったのである。ジュルダンの衣装や舞台の端々にオスマントルコの装飾をさりげなく取り入れており、貴族たちの間で話題となっていたトルコを意識することで印象付けていた。
語学習得にたけたマリサが興味深く、こうも集中して覚えられたのは、この演劇の言語がフランス語を中心に、イタリア語、スペイン語も飛び交い、それだけでなくサビール語という意思を伝えるための共通語が使われるという点だ。それは出自や身分・宗教や立場を問わない”青ザメ”の精神を思い出させた。デイヴィージョーンズ号は海に沈み、デイヴィス船長も亡くなったが、その精神はアーティガル号や他の船に受け継がれている。
貴族に憧れてふるまうも失敗するジュルダン、ジュルダンを諫めるジュルダン夫人、恋人がいながらジュルダンに言い寄って騙すリュシル、ジュルダンを騙して都合よく利用するドランと伯爵と愛人ドりメール侯爵夫人等、ジュルダンの野心に人々の思いが交錯する。それは仕立て屋が貴族階級を買い、成り上がったテイラー子爵をあざ笑うかのようであった。それでも彼らは最後まで演じきった。
バレの踊りを初めてみる客もいて、テイラー家の結婚式の余興としての上演は大成功であった。
そこへ先ほどまでテイラー子爵と少しばかり距離を置いていたジェーンが立ち上がり、シャーロットの前へ来るとあることを依頼した。シャーロットは笑顔で応え、舞台横のハープシコードの椅子に座る。それを確認すると、ジェーンは夫となったハリー・ジェイコブ・テイラー子爵と並び舞台に立った。何が始まるのか俳優たちは舞台袖へ移動してふたりを見守る。
シャーロットがハープシコードで舞曲を奏で、テイラー子爵がジェーンの手をとった。劇団の人々や客たちが見守る中で軽やかにステップを踏み見つめあっている。これは良い結婚だとばかりに客たちの中から踊りだす者が現れてくる。ちょっとした舞踏会である。
しかしジェーンとテイラー子爵の思惑は彼らの予想通りではなかった。
「私の目に狂いはなかった。従順で男の影にいるような女は一族に必要ない。その眼差し、その熱き吐息で私を虜にして共にあがき、成り上がろうではないか」
テイラー子爵の目が光る。
「ええ、あなたが私の望む男になるか、私があなたの望む女になるかを賭けると致しましょう」
そう言ってふたりはキスをした。誰もが騙された一瞬だった。ジェーンの父親であるブラント伯爵が成り上がりのテイラー子爵へ向けて企画した余興の演劇だが、成り上がりをものともせず堂々としたテイラー子爵にはその思惑は通じなかった。貴族としてだけじゃなく彼はイギリス海軍に従軍した経歴がある。スパロウ号が海賊に鹵獲されて捕虜となってからも生き延び、艦長たちと生還を果たしただけでなく船も奪還している。その名誉は間違いなく彼のものである。
シャーロットが曲を奏で終わる。その後ダンスに興じたい人々のために楽団が舞曲を奏で、客たちがダンスを始めた。
マリサはシャーロットのそばへ行くとハープシコードの腕前を褒めた。
「いきなり言われてすぐに弾くことができるなんてあたしにはできないことだ。残念ながらあたしには音楽の素養がなかったけどエリカには間違いなくある。機会があれば聞いてやってくれ。……あたしはまた船へ乗ることになるだろう。そしてオルソン救出の為にルークも動くはずだ。お父様には迷惑をかけないから、と伝えてくれ」
小声で話すとシャーロットはマリサの手を握り締めた。
「私も力になるわよ。そしてお父様も」
シャーロットの手の温もりがマリサへ伝わってくる。マリサはもっと話をしたかったが、団長が市民向けの寸劇の用意をすると言ってきたのでその場を離れた。そしてマリサと同じ顔が客席にいたので誰もが驚き、次々にどういうことか聞いてきた。無理もなかろう。
「あたしたちはかわいそうな身で、双子は不吉だからとあたしは養子に出された。姉は貴族として育てられて教養と芸術を身に着けた。だからあんなにハープシコードを弾きこなすことができるんだ。しかしあたしはしがない市民の子として育った。養い親にいじめられ……」
そう言うと団員たちは同情してマリサの肩をたたいたり涙を浮かべている者もいた。
(お義母さん……ごめんなさい。これは良い嘘ですから)
ハリエットの姿が脳裏に浮かんだが、これも演技のうちだと自分に言い聞かせる。
市民向けの寸劇はロンドン橋内の小さな劇場で行われるため舞台装置も限られた物だけを使うつもりとのことだ。
ふとマリサの目にブリガンティン船が目に入った。修理を終えたばかりのようだ。
(オルソンはフランスにいる……必ず助け出す……。ヘンリエッタ、あたしはあんたの息の根を止めてやる)
ブリガンティン船の船乗りが運んだという貴族らしい人物がオルソンであるという確証はない。しかしここで動かなければ何も変わらないのだ。マリサの目はじっと前を向いている。前へ進まねばならなかった。
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