1知らせ
何やら事件です。せっかく普通の主婦をしていたのに……
1台の馬車がオルソンの領地を目指して駆けていく。ひんやりとした小雨まじりの中、御者の掛け声が時折響いている。
御者の声に焦る気持ちを抑えながら中にいたマリサは思わず手を組みあわせる。振り絞るような声で祈りを捧げながら目的地であるオルソン家にいる母を思い浮かべた。一刻も早く、少しでも早くと不安を伴った焦りは体を震わせる。そばにいるエリカは馬車の揺れに眠気を覚え、うつらうつらとしている。この迎えの馬車が来るまで何ごともなく暮らしていたのが噓のようだ。
オルソン家からの知らせは平穏に暮らしていたマリサに衝撃を与えるものだった。
その日、家の掃除を済ませてエリカに文字の読み書きを教えていたマリサ。読み書きのできることが社会において役立つことをマリサは身をもって知っていた。アーティガル号の連中だけでなく、市民の中でも文字の読み書きができない人は多い。そのため国王のお触れが出ていてもだれかに読んでもらわない限り内容はわからない。文字を読めなかったばかりにウオルター総督が書いた私掠免許状を鵜吞みにし、その文言の罠に引っかかって捕らわれた海賊もあったほどだ。(アーティガル号編52話 「私掠免許」55話「反撃の火③」)
「じゃあ、この歌を文字で書いてごらん。覚えた言葉を文字で書くことが出来たら今日はおしまい」
そう言ってマリサはわらべ歌であるお気に入りの「6ペンスの歌」を歌いだした。
Sing a song of sixpence
Sing a Song of sixpence,
A pocket full of rye,
Four and twenty blackbirds,
Baked in a pie.
When the pie was opened,
The birds began to sing,
Was not that a dainty dish,
To set before the king?
The king was in his counting-house,
Counting out his money,
The queen was in the parlour,
Eating bread and honey.
The maid was in the garden,
Hanging out the clothes,
There came a little blackbird,
And snapped off her nose.
「6ペンスの唄」
6ペンスの唄を歌おう
ポケットにはライ麦がいっぱい
24羽の黒ツグミ
パイの中で焼き込められた
パイを開けたらそのときに
歌い始めた小鳥たち
なんて見事なこの料理
王様いかがなものでしょう?
王様お倉で
金勘定
女王は広間で
パンにはちみつ
メイドは庭で
洗濯もの干し
黒ツグミが飛んできて
メイドの鼻をついばんだ
※出典:Wikipedia
「母さん、これでいい?」
エリカはマリサの歌を聴きながら歌詞を書き留めた。まだまだ上達途中の文字だが、しっかりと言葉を聞き、書き留めている。
「よくできたね……。今日はこれでおしまい」
マリサがそういうとエリカはほっとした顔をしてマリサに抱き着いてきた。まだまだ甘えたい年齢であり、これまでマリサの不在等で思うように会えなかったことも原因である。
エリカはマリサにはない音楽の素養があり、早くから譜読みができたほか、音を聞いただけでその音が鍵盤上でどの音になるかも理解できるようになっていた。オルソン家へ毎月通い、アーネストの息子ジョシュアとともに楽師から音楽を教わっており、特にハープシコードの演奏は早いパッセージであっても流れるように鍵盤上を指を踊らせ、子どもながらに弾きこなすその才能は楽師をうならせていた。
マリサ自身も音楽を聴き、わらべ歌ぐらいなら歌うこともできたが、残念なことにハープシコードやバイオリンといった楽器演奏となると、たちまち指の動きがぎこちなくなった。オルソンでさえその素養のなさに諦めたほどだ。(幼少編4話「使用人マリサ」)
このわらべ歌にしてもマリサは音楽としてとらえたのではなく言葉としてとらえていたので、言い回しや比喩、音韻をよく覚え言葉遊び的によく覚えた。マリサは音楽の素養がなくても言語性に高い能力を持って成長をしてきており、捕虜として捕らわれたときも短期間でスペイン語での日常会話を覚えられたほどだ。
自分と違い、高い音楽素養を身に着けているエリカをマリサは愛おしく思い、過去の自分の姿を重ね合わせていた。同じ双子でもマリサと姉のシャーロットは違う。シャーロットは貴族の娘として育ち、躾されてきた。音楽の教養もあり、夜会ではマリサの目の前でスカルラッティのソナタを完璧に弾きこなして見せている。それでもシャーロットを羨むことはなく、あたしはあたしと思って尊重していた。
家ではスチーブンソン夫人として家事と育児をし、外ではアーティガル号のオーナー(もう一人はオルソン)であり、商船会社の経営にかかわっていたマリサ。苦楽を共にした仲間はアーティガル号他、いくつかの船で航海に従事している。海賊だったころは利益や損益など考えることなく、海賊(buccaneer)として国のために略奪をしてきた。戦争や海賊共和国の興亡に巻き込まれながらも流されることなく、国へ尽くすことを全うしてきた。恩赦によって自由を得、血のつながらない大人に囲まれて育ったマリサは結婚によって家族を得ることができた。
とても平穏で時には退屈さを覚えるような日々。義母ハリエットとの関係も良好である。というより、育ての親であるイライザとどうしても比べてしまい、なかなか本音を出せないままだった。夫フレッドに対して干渉してくることもあり、そのことに煩わしさもあった。
そんなふうにスチーブンソン夫人として日常生活を送っていたマリサの元へ、オルソン家から馬車がやってきた。エリカのハープシコードのレッスンでもないうえに何事だろうとただならぬものを感じたマリサ。
「急いで馬車に乗ってください。イライザが倒れました」
御者は青ざめた顔をしている。
「倒れたって……イライザ母さんが……」
マリサと同じく玄関へ出て御者を迎えたハリエットも何かただならぬものを感じていた。
「すぐお屋敷へ向かいなさい。いいから早く!」
ハリエットの言葉にエリカもそばへやってきた。
「母さん、私も一緒にいっていい?おばあちゃんが心配」
そう言ってマリサにしがみついた。このことにハリエットも頷いており、行かない選択はなかった。
マリサとエリカはすぐに支度をし馬車へ飛び乗る。船を降りたマリサにとって移動手段はもっぱら馬車だ。庶民には高額な馬車代もオルソン家の迎えだからこそ乗ることができている。それだけ急を要することなのだろう。
馬車は霧が発生した原野を駆けていく。この霧が濃くならないうちに少しでも進みたい。
御者は執事のトーマスから言われてマリサを迎えに来ており、詳細を知らないままだった。イライザが倒れたといわれても想像がつかない。マリサの知るイライザは風邪をひく程度でいつも使用人の仕事に勤しんでいたのだ。
(イライザ母さん……今、そっちへ向かっているからね……)
うつむいたまま手を固く組み合わせるマリサ。そばにいたエリカはそっと手をマリサの手の上に重ねる。こんな時、どのように言えばいいかエリカにはわからない。ただ、マリサからは今にも祈る声が聞こえそうだった。その気持ちをエリカも共有したかった。
馬車は途中何度か馬の休息を挟みながらオルソンの領地へまっしぐらに進む。カリブ海のような青空よりもどんよりとした曇り空のほうが多い領地。いくつかの森と小さな湖があり、田舎といわれようが自然豊かな領地だ。
「森が見えました。領地に入ります」
御者の掛け声が一層大きく響く。幾度となく通ったこの道。まさかこのような気持ちで来るとは思わなかった。
マリサのそばで眠気を覚えていたエリカ。普段なら馬車から見える景色に子どもなりに反応をしているが、今は目覚めてもマリサに体を寄せているだけである。
周りに見える畑や草原。何ごともなかったかのように葉を揺らしている。そして馬車はまっすぐ見覚えのある広い庭へ入っていく。屋敷に到着したのである。
「急な知らせで申し訳ありません。ご主人さまもお待ちです」
玄関で出迎えた執事のトーマスはエリカが馬車から降りるのを手伝うと、ふたりをイライザが待つ部屋へ案内していく。
マリサを育て上げたイライザはデイヴィス亡きあと、住み込みの使用人として働いていた。それまで住んでいた小さな家はデイヴィスの思い出がありすぎたからである。イライザは哀しみを忘れるかのように働き続けた。このところの楽しみは月に一度音楽の勉強でやってくるエリカに会うことだった。誰もが謙虚で温厚なイライザを慕い、もしも歳をとっていなかったら使用人頭になっていただろうと思っていた。
そのイライザが倒れ、屋敷内はちょっとした騒動になっている。
「母さん!母さん!」
イライザにあてがわれた使用人の部屋へ入るなりイライザのもとへ駆け寄るマリサ。そのイライザは汗をかきながら細かな呼吸をしていており、マリサが触ると冷たく感じられた。そしてそこにはオルソンンと長子であるアーネストもいた。
「医者からもらった薬が効いたようだ。今は呼吸が落ち着いているが、まだ意識は戻らない」
オルソンはそう言い、家族との再会だからと周りの使用人たちの人払いをトーマスに任せる。執事のトーマスはオルソン家の秘密でつながっており、その意味をよくとらえていた。使用人たちはトーマスに促され、イライザのことを心配しつつも本来の業務にもどっていく。
「領主様、この間までイライザ母さんはとても元気だったのになぜ急にこんなことに?」
マリサは思わずオルソンに詰め寄る。イライザが倒れたのは彼に責任があるというわけではない。わけのわからぬことにそのはけ口を求めるかのように詰め寄るしかなかった。
「……広間へいこう。語るのはそれからだ……」
オルソンはマリサにそう言うと、部屋の外で使用人たちの動きを見ていたトーマスに指示を出す。そしてこの様子を見てアーネストが息子ジョシュアを呼びエリカを広間へ連れ出させた。恐らくいつも一緒に音楽の勉強をしている息子のジョシュアと過ごさせるのだろうが、秘密裏に語ることなら東屋で話すはずだ。そうであるならエリカがジョシュアとともにハープシコードのレッスンを受ける広間を指定するとはどういうことだろう。マリサは不信感を募らせる。
「お父さま、イライザのことは僕がみていますから状況をマリサに話してください」
「そうさせてもらうよ、アーネスト。イライザに何かあればすぐに呼んでくれ」
アーネストの申し出に答えるオルソン。何か公にできないことでもあるのだろうか。マリサはいら立ちを隠せない。マリサはイライザの胸に顔をうずめ、一筋涙をこぼした。まだ温かみがあるものの、呼びかけても起きてこないイライザに元気だったころの姿が思い出されて声にならない。
マリサの気持ちを理解しているオルソンは無言でマリサを促すと、ジョシュアとエリカが待つ広間へ誘う。
何かが違う……この違和感は何だろう、とマリサの不安と不信が入り混じった感情はそれを表すかのように体中をめぐっていった。
最後までお読みいただきありがとうございました。しばらくお付き合いの程よろしくお願いします。