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「先」

作者: 桑名 新

「君には今月をもって早期退職してもらう」

「…え?」

「うちの会社が危ないのは君も知っているだろう。」

ここまで聞き、俺はやっと状況を理解した。会社の経営が去年から傾き始めたことは知っていた。だが、もう俺は53歳だ。再就職など、出来るはずがない。ショックで何も言うことができず、社長室を後にした。

「これからどうしろって言うんだ」

こんなにショックを受けたのは、5年前のあの日以来だ。俺は5年前、妻と息子に逃げられたのだ。連絡先も、住所もわからない。最初は悪い冗談だと思ったが、やけに静かな部屋が何よりの証拠だった。

それからずっと、仕事だけが生きがいだったのだ。そして今日、仕事を失った。

「お先真っ暗…ってか。」


ひどい話だ。この後どうしろっていうんだ。本当に。仕事場に戻り、しばらく呆然としていたが、そのあとは何事もなかったかのように仕事を済ませ、帰路についた。意外と冷静な頭に、自分自身も驚いていた。いや、ショックで考えることをやめているのかもしれない。

電車に揺られ、ぼーっと外を眺めていた。大学を卒業し、今の会社に勤めて30年、ずっと見てきた風景。この景色を見ることも、もう…。


改札を出て、家に向かう。こんな時だからだろうか、いつもは素通りしていた、古びた宝くじ売り場に目が止まった。

「気晴らしに買っていくか」

売り場のおばさんに声をかけた。

「スクラッチくじ、10枚お願いします」

「ああ、ごめんねえ、スクラッチ、売り切れてるんよ」

とことんついてないな今日は。まずスクラッチって売り切れることなんてあるのか。

「なら、違うのでいいんで」

半ばやけになっていた。

「そうねえ、じゃあ、この自分で数字を選ぶのなんてどうだい?」

「じゃあ、それにします」

「何枚やるんだい?」

「…じゃあ1枚でいいです」

「はいよ」

くじと鉛筆を受け取り、俺は番号を考えた。7桁か。

「その宝くじ、1等だと今は、15億だからねえ、まあ、気楽にやんなねえ」

15億か、当たっても使う相手も、趣味もないがな。まあいい、適当に選ぶか。

そのまま何も考えることなく、何の思い入れもない7桁を選び、おばさんに渡した。

「当選結果は月末にやるから、忘れずに見なねえ」

「わかりました」

その頃には俺は、めでたく無職ってか。

宝くじ売り場を後にし、俺は誰も待っていない家に向かって歩き出した。


一か月は驚くほど早く過ぎていった。

俺は、何もなくなった自分のデスクを眺めながら、虚無感に苛まれていた。この一か月で、覚悟を固めていたが、いざこうなってみると…。再就職も考えてみたが、どうもやる気になれなかった。

「帰るか」

部下から渡された花束を片手に、最後の帰り道を歩いた。

少し肌寒い9月28日、金曜日。ふと、やけになって買った宝くじのことを思い出した。明後日が当選発表だ。

「まあ暇つぶしにみてみるか…。」

少し暗くなり始め、街灯が目立ち始める。

日も短くなったな、酒でも買って帰るか。そう思い、少し遠回りになるが、コンビニに寄ることにした。


本当は酒なんてどうでもいい。ただ、誰も待っていないあの家に帰りたくないだけだ。家に帰ってしまったら、この日が終わってしまう感じがする。明日になってしまえば、俺は…。首を横にふり、そんな気持ちに蓋をして、コンビニへ向かった。

酒とつまみを買い、コンビニを出た。まだ家に帰りたくない。また遠回りをして帰るか。

外はすっかり暗くなっていた。

少し歩くと、小さな公園が見えてきた。昔、妻と息子と、よく来ていた公園だ。公園の前を通り過ぎようとした時、ブランコに、人がいることに気づいた。制服を着た女の子がスマホをいじっていた。高校生くらいか?

最近の高校生は遅くまで遊んでいるんだな。と思い、そのまま通り過ぎていった。

息子がもし、今も一緒に暮らしていたら、高校生3年生だ。なんて考えながら、俺は家に帰った。


9月30日、日曜日、俺は宝くじの当選結果を見るためウェブサイトを開いた。

「…は?」

当たっている。1等、15億円。

「いやそんなバカな」

何度確かめても、当選番号の7桁、自分が書いた7桁が同じなのだ。驚き、嬉しさ、どう使えばいいかわからないという不安、いろんな感情が混ざりあう。

「と、とりあえず手続きをしなければ…」

何がなんだかわからないまま、震える手でウェブ上で手続きを済ませた。

冷静になって考える。今当たった15億、退職金としてもらった2000万。これから先、どう考えても使い切る自信がない。出来ることなら、妻と息子に…。だが連絡先がわからない。

「生活に必要な分だけ残して、あとはどこかに寄付するかな」

自分で言うのもなんだが、俺は欲のない人間だ。豪邸で暮らしたいわけでもない。高級車が欲しいわけでもない。


「やはりどこかに寄付するのが一番だな」

当選金を受け取ったら、寄付するところを探すとするかな。

いろいろ考えて疲れたのか、その日は早く眠った。


10月1日、月曜日。

「祝日でもない月曜日を家で過ごすのは久しぶりだな」

テレビを見て暇を潰していたが、腹が減ってきたため、コンビニに行くことにした。

「平日のこの時間に私服で歩くとか、いよいよ無職って感じがするな…」

おにぎり2つ、酒、お茶、つまみを買い、金曜日と同じ道を通って帰ろうとしていた。そして、あの小さな公園に着いた。

「無職らしく、公園で飯でも食うかな」

平日この時間だからか、公園には誰もいない。ベンチに座り、おにぎりを食べていた。我ながら本当に無職っぽいな。金の余裕は心の余裕なのか、クビを言い渡された時よりは心が軽くなっていた。2つ目のおにぎりを食べようと袋を漁っていた時。

「こんな時間にここにいるなんて、おじさん、仕事クビになったの?」

急に声をかけられ、慌てて振り向くと、金曜日に見たあの高校生が立っていた。片手には大きな荷物を持っていた。

「まあそんなところだが、君こそこんな時間に何をしてるんだい。学校は?」

「サボり」

と、言いながら彼女は隣に座った。制服をよく見ると、この辺でも有名な進学校のものだった。俺は彼女の持っている大きな荷物に目をやった。

「その大きい荷物は?家出でもしたのか?」

「違うわ、追い出されたの」

彼女は大きなため息をついた後、こう続けた。

「ママに最近新しい男ができたの、結婚するんだって」

「それで追い出されたのか?」

まだ高校生なのに、なんて親だ。

「私、いま高校3年なの大学に行きたいって言ったら、追い出されたの。お前にかける金はないって」

また大きくため息を吐く。そして、

「きっと邪魔になったんだわ、新しい子がお腹にいるから」

俺はどう言葉を返せばいいか迷っていた。こんなこと、ドラマでしか見たことがない。

「ねえおじさん、車持ってる?」

「なんでだい?持ってはいるけど」

彼女はスマホを取り出し、画面を俺に見せてきた。そこには隣県の、有名な断崖の絶景スポットが映っていた。

「ここに行きたいの、私」

「ここに?またどうし…」

「ここで死ぬって決めたの」

俺が言い終わらないうちに、彼女は言った。

「最後くらいキレイ場所がいいの、連れて行って」

俺の目を真っ直ぐ見て言った。その目は冗談を言っている目ではなかった。俺は慌てて、

「よく考えなさい、君はまだ若いんだから、まだ先があるじゃないか」

必死に彼女を止める言葉を探した。彼女は少し黙ってから、口を開いた。

「私、その言葉大嫌いなの」

「…え?」

「その、先があるって言葉」

「なんでだい?」

「だっておかしいじゃない、見えもしない、確かでもないのに、「先」が「ある」なんて。人間、いつ死ぬかも分からないのよ?若いってだけで「先」があるわけじゃないのよ。家も追い出されて、お金もない私に「先」なんてないわ」

そして再び俺の目を真っ直ぐ見つめて、ハッキリ言った。

「だから私は死ぬの、「先」なんてないの、ここで終わらせるのよ」

返す言葉がない。だからと言って、この彼女をここに連れて行くわけにもいかない。見殺しになんて出来ない。

「ねえおじさん、いいでしょう?連れてってよ。」

彼女にドラマのような見せかけの言葉は通じない。彼女は本気なのだ。俺は考えた、彼女を助ける方法を。

「ねえってば、私に「先」なんてものはないのよ、だから…お願いよ」

彼女は俯いた。俺はやっと思いついた。彼女を助ける方法を。言葉を。

「…「先」なら、俺が作ってやる」

「え?」

「大学にも行かせてやる。学費も俺が払うし、部屋だって借りてやる」

「え?おじさん何言ってんの?無職でしょ?こんな時に冗談言わないでよ」

「金ならある。おじさん、無職だけどね。」

俺は笑って言った。

「昨日、宝くじが当たったんだ。15億だよ。どうしたって使い切れやしない。」

「…そんな大金、奥さんとか子供のために使いなよ、私なんかに使うお金じゃないわ」

彼女はまだ俯いている。

「妻も息子もいないんだ、5年前に出て行ってしまってね。今は住所もちろん、連絡先もわからないよ。そして生きがいだった仕事も失った。お金ももともと寄付するつもりだったんだ。人助けに使うなら、君に使っても同じだろう」

「…でも…、おじさんに悪いわ、私なんかに」

「何もすることがなくって困っていたんだ。ここで会ったのも何かの縁だろう。君の「先」を俺がつくる。

君は俺の生きる意味を作るんだ。いいと思わないかい?」

彼女はやっと顔を上げ、

「本当に、いいの?」

「そうと決まれば、まずは部屋探しだな、不動産屋に行かなきゃいけないな」

そういって、俺達は公園を後にした。


夜中に、俺はやっと帰宅した。あの後大急ぎで部屋を借り、生活必需品を揃えたのだ。

彼女の名前は神田 千花と言うらしい。彼女は成績がとても優秀らしく、この県にある一番頭のいい国立大学に行きたいそうだ。

「俺の残りの人生と、宝くじの当選金で人1人の命が救えるなら、安いものだな」

久々にあんなに人と話した。もし息子がいたら、あの子と同い年なはずだ。あの子に、自分の息子を重ねているのかもしれない。息子にできない分、彼女を立派に育ててやろう。そんなことを考えながら、俺は眠りについた。


俺と千花が出会って2ヶ月が経った。もともと家事はやっていたらしく、問題なく一人暮らしができているようだった。千花とは親子のように接した。たまに外食に連れていき、学校のことや、志望校のことなどについて話している。今日も千花とファミレスに来ていた。

「今日学校の先生と面談があったんだけど、この成績なら志望校に行けるって!」

千花は嬉しそうに話した。

「よかったじゃないか。試験までは後2ヶ月くらいか?」

「そうね、このまま頑張るわ!」

美味しそうに来た料理を頬張る千花。出会った頃の陰鬱な雰囲気はもうなくなっていた。

「そういえばおじさんは再婚しようと思わなかったの?」

「はは、いきなりだな。おじさんはこう見えて、奥さん一筋なんだよ」

そう、出て行って5年経った今でも。

「そうなんだ、大事にしてたんだね、奥さんのこと」

「そうだね、息子は、千花と同い年だよ、だからか今年受験だな」

妻と俺も同じ年だ。息子は妻と長い不妊治療の末、授かった子供だった。もちろん息子のことも大事に育てていた。

「なんで出て行っちゃったのかな…奥さと息子さん…」

「なんでだろうなあ、仕事を頑張っていたとはいえ、家族を蔑ろにしていたわけじゃないしなあ、旅行にも連れて行ったりしてたんだけどな」

千花の言う通り、何故出て行ってしまったのかわからない。ある日突然、書き置きを残し、俺の元を去って行ってしまったのだ。

「まあ千花が一人前になったら、探しにでも行くかな」

と俺は笑った。

「じゃあ頑張って早く一人前になるわ!そしたらおじさんも早く家族と会えるでしょう?」

「急がなくていいぞ、若いうちは。大人になったら嫌でも急がなきゃいけないんだから」

俺と千花は笑い合った。

店を出て、千花をアパートまで送って行った。

「じゃあねおじさん」

「ああ、勉強頑張るんだぞ」

千花がアパートに入っていくのを見送ると、俺も家に向かって車を走らせた。


そこから月日が経ち、三月上旬。千花の合格発表の日が来た。俺自身の合格発表の時より俺は緊張していた。

千花はあの後も成績を上げ、合格は確実と言われるまでになっていた。しかし確実と言われても、不安が拭えないのが受験である。俺は朝からずっと緊張して、部屋の中を行ったり来たりを繰り返していた。しばらくすると、千花から電話がかかってきた。全身から汗が滲み出るのを感じながら、電話を取った。

「もしもし?」

『おじさん!?あのね、大学、合格したよ!!』

千花の声は震えていた。泣いているのだろう。それを聞いた俺も何年ぶりかに、目頭が熱くなっていた。

「よかったじゃないか!よく頑張ったなあ!これで春からキャンパスライフが待っているぞ!今日はお祝いにいいレストランに行こう」

なんて、少し茶化しながら、自分が泣いているのを誤魔化した。

少し千花と話した後、電話を切り、俺はあの日を思い出し、千花を大学に行かせてやれる事を心から喜んだ。


その夜、約束通りレストランでお祝いをした。

「よかったな、千花、志望通りの大学にいけて。本当に良くがんばったなあ」

千花にいうと、彼女は照れ臭そうに笑った。

「えへへ、おじさんのおかげだよ。本当にありがとう。」

「はは、まだまだこれからさ、大学も楽しめよ」

ふと、俺は千花にある事を聞いた。一度も聞いたことがなく、大学に合格したら聞きたいと思っていたことだ。

「なあ千花、まだ決まってなかったら悪いが、夢とか、なりたいものとかあるのか?」

すると千花は恥ずかしそうに俯いた。

「お!その反応はあるんだな?おじさんに教えてくれよ」

「やだ、絶対笑うもん」

「大丈夫だって、笑わないから!」

そこまで言われたら聞きたいと、俺は言った。娘も同然な千花。子供の夢なら知りたいというのが親の心だ。

千花はしつこい俺に観念したのか、やっと口を開いた。

「お嫁さん…自分がされなかった分、幸せな家庭を作りたいの」

俺は驚いたが、すぐに千花に言った。

「じゃあ大学でいい男見つけないとなあ。彼氏できたらおじさんにも教えろよ?」

と少し茶化した。

「もう…ちゃんと教えるよ」

と千花は微笑んで言った。



千花が大学生になって2年が経った。千花はサークルに入り、楽しそうに大学生活を送っているようだ。会う回数は減ったが、毎日のように友達と撮った写真や、サークル活動、勉強のことなどがメッセージで送られてくる。それを見ることが、毎日の俺の楽しみになっていた。千花は大学でも成績が優秀らしく、教授からも良く褒められるそうだ。そんな千花から今日、会ってほしい人がいると言われた。多分彼氏だろう。写真を見る限り、優しそうな子だ。まともな奴じゃなかったら蹴っ飛ばしてやるが、千花のことだから心配はいらないであろう。

「そろそろ約束の時間だな」

俺は千花に教えられた場所まで車を走らせた。


レストランに着くと、千花と男性が座って待っていた。

「あ、おじさんこっち!来てくれてありがとう!」

俺も席に座ると、

「初めまして。千花さんとお付き合いさせていただいている望月祐司と言います。千花さんから、良く貴方のことは伺っています。お父さんのような方だと。」

と、祐司と名乗った彼は言った。

「祐司さんには、おじさんと出会った日のこと、話したんだ」

「そうか、初めまして、千花の父のようなものです。」

と、緊張している彼がリラックスできるように、冗談っぽく自己紹介をした。それから俺たち3人は楽しく食事をした。祐司くんは千花と同い年で、サークルが一緒らしい。千花よりも成績優秀で、教授からの評判も良い、絵に描いたような好青年だった。俺は仲良く話す2人を見つめながら、祐司君が彼氏なら、安心だな。なんて本当のお父さんのような気持ちでいた。食事も終わった時、千花が

「ちょっとお手洗い行ってくるね」

と言って席を外した。そして祐司君と2人になり、沈黙が続いた。何か話さねば…と考えていると、祐司君が先に口を開いた。

「千花さんとは、結婚を前提にお付き合いしています」

と、真剣な眼差しで言った。

「大学を卒業したら、結婚するつもりです」

と、続けてはっきりと言った。2年前に聞いた、千花の夢が頭をよぎる。

『幸せな家庭を作りたいの』そう言った千花の顔を思い出した。この子なら、千花をきっと幸せにしてくれる。と俺は思ったが。何よりも、あの千花が選んだ男なのだから。

「祐司君なら、大歓迎だよ。千花もきっと良いお嫁さんになる。結婚式は呼んでくれよ?」

と笑顔で言うと、彼もほっとした表情で笑った。

「ごめんねお待たせして、って、2人で何笑ってるのよ」

戻ってきた千花は不思議そうに俺達を見ていた。そんな彼女に俺たちは声を揃えて、

「なんでもないよ」

と笑って言った。

「2人ともすっかり仲良くなったのね、妬けちゃうわ」

と、千花も笑い、3人で笑い合った。

その後店を後にし、2人を見送って、俺は家路に着いた。いつのまにか、誰も待っていない家に帰ることも怖くなくなっていた。それどころか、今は幸せで満たされている。千花が卒業するまで後2年、そしてその「先」の幸せな光景を思い浮かべながら、俺はベッドに入った。


千花の卒業まで後数週間というところまで来た時、千花から電話があった。

「私、大学を卒業したら祐司君と結婚する」

と言ってきた。勿論俺は知っていたため、大して驚きもせず、

「よかったな、祐司君と幸せな家庭を築くんだぞ、何かあったらいつでも話は聞くからな」

と伝えた。

「あんまり驚かないんだね、ありがとう、これでおじさんも、家族に会いに行けるね!」

「見つかるかどうかわからないけどな、まあ気長に探すよ、それよりも結婚式は絶対呼んでくれよ」

と俺は笑って言った。千花は

「絶対に会えるから大丈夫だよ。じゃあまた連絡するね」

と言って電話が切れた。千花が少し悲しそうな気がしたが、気のせいだろうか。

卒業研究に追われていると言っていたから、疲れもあるんだろう。何にせよ、千花もいよいよ一人前になるんだな。寂しい気もするが、千花が幸せになってくれるのであれば、俺は満足だ。

「千花の花嫁姿はきっと綺麗だろう、明日タキシードとかネットで見ておくかな」

にやける顔を押さえながら、ベッドの中に俺は入って行った。



千花が卒業してしばらくたった時、千花からメッセージが来た。

『おじさんに話したいことがあるの!アパートまで来てくれる?』

というものだった。『わかった、すぐ行くよ』と返し、車に乗った。結婚式の話だろう。

「バージンロード一緒に歩いてなんて言われたらどうするかな」

俺はそんな妄想を膨らませる。車を発進させ、千花のアパートを目指す。その途中、あの小さな公園の前を通った。

「もう5年も経ったのか」

俺はあの日のことを思い出していた。お「先」真っ暗な俺と、「先」のない千花。側からみたらなんの関わりのない、歪な2人。しかし、2人の歪な形が、ぴったりと合った。そんな出会いだった。

「運命って本当にあるんだな、いや、そんなロマンチックなもんでもないか」

『だから私は死ぬの、「先」なんてないの、ここで終わらせるの』

そう言った千花。

「ちゃんと「先」、あっただろ」

俺は笑う。俺も幸せだった。妻と息子に出て行かれてから、明日が楽しみだと思う気持ちを忘れてしまっていたのだ。千花がいたから、俺はここまでこれたのだと思う。

そんなことを考えていると、千花のアパートが見えてきた。駐車場に車を止め、もう何度登ったかも覚えていない階段を登っていく。俺はドアの前で一呼吸置き、部屋のインターホンを鳴らした。


「おじさん、来てくれてありがとう」

千花に出迎えられ、部屋の中に入る。

「それで、話ってなんだ?」

俺が聞くと、千花は話始める。

「おじさんには感謝してもしきれない、あの日、あの公園で私を助けてくれた。」

「何を今更言ってるんだよ」

俺は照れ笑いをする。

「出会えたのが、おじさんで本当によかった」

「はは…」

それは俺も同じだ。今ならクビになったことさえ良かったと思っている。勿論、あの何故か売り切れていたスクラッチの宝くじにも。今はあの日の不幸を、心から愛している。

俺恥ずかしくなって、千花に背を向ける。昔から、こういう話がどうもくすぐったくって苦手なのだ。

「本当にありがとう」

「俺もお前には感謝してるよ」

そうして、千花の方を振り返ったと同時に。


「ごめんね、おじさん」


胸に衝撃と共に強い痛みが走った。俺はバランスを崩し、倒れ込む。痛みが強く、呼吸がうまくできない。

慌てて千花の方を見る。千花の両手には、赤く染まった包丁が握られていた。そこまで見ても、俺は何が起こったのかわからないでいた。

「おじさん、本当にごめんね」

千花の声が遠く感じる。そこでやっと理解した。俺は千花に刺され、そして、死ぬのだ。

意識が遠のいていく。駄目だ、聞きたいことが、言いたいことが山ほどあるのに、声が出ない。

千花の姿が霞んでいく。

薄れ行く意識の最中、俺は走馬灯というやつを見る。妻と息子に出て行かれた時から、今までの事を。


嫌な人生だ。本当。最後は自分が助けた子に刺されるなんて。なあ千花、俺の何がいけなかったんだ。

ああ、もう駄目だ、死ぬんだ、俺。


「おじさん、ありがとう。これでおじさんは、……は「先」延ばしだね」


何だよ。うまく聞き取れない。今の俺こそ「先」なんて無いじゃないか。笑ってんじゃねえよ畜生。

こんなことなら、妻と息子のことをもっと真剣に探すべきだった。どうして俺は何にもしなかったんだ。


意識が落ちるギリギリで、俺はあることを思い出す。




俺が妻と息子を連れ、よく行った公園は

大きく、池のある公園だ。




そこで俺の意識は、途切れた。








それからどれくらい経っただろうか。長いのか短いのかわからない時間の末、俺は再び意識を取り戻した。

胸の痛みは消えたが、体が鉛のように重く、動かない。真っ暗な世界。

刹那、その世界に光が差し込んだ。



俺は重い瞼を開き、辺りを見回す。すると、自分の寝ている右脇に、看護師の格好をした女性と目が合う。

彼女は驚き、走って部屋を出て行ってしまった。何か叫んでいるが、上手く聞き取れない。

左に視線をやると、薄い緑色の、隣のカーテンが閉まっているのが見えた。

数秒後、慌ただしくドアが開き、聞き慣れた、懐かしい声が聞こえた。

「父さん!」

「あなた…!」

妻と息子だ。何だお前たち。心配したんだぞ。もう何年も音信不通で…と。声をかけたいが上手く喋れない。

後から来た、首に聴診器をぶら下げた男が、俺に話しかける。

「倉田総司さん。自分のこと、分かりますか?」

ああ、俺の名前だ。もう何年も呼ばれていなかった。懐かしい響きだ。俺は重い首を動かし、頷く。

それを見た男は、こう続ける。

「倉田さん、あなたは5年前、事故に遭って、今まで意識が戻らなかったんですよ。」

…5年前?

そんな馬鹿な俺は5年間、千花と…。

「もう目を覚まさないのかと思ったわ、わたしたちのこと、分かる?」

妻が話しかける。俺はまた、頷く。

「よかった…!」

妻と息子は泣き始める。

俺はまだ状況が飲み込めずにいた。




その後、俺は医者から話を聞き、ようやく理解した。

ここは俺の住む県内にある総合病院であること。五年前、仕事の帰り道に事故にあったこと。今まで昏睡状態であったこと。そして、もう目を覚ますことは無いと言われていたこと。

じゃああの5年間は何だったんだろうか。

俺は気持ちの整理がつかないまま、疲れていたのだろう、あっという間に眠りについた。



それから数週間後、俺は起き上がれるようになり、言葉も発せるようになった。あの5年間の記憶は、夢だったのだと悟り、だんだんと思い出す機会も減ってきた。そう、会社をクビになったことも、妻と息子が出て行ったことも、そんなことなど、起きていなかったのだ。

「倉田さーん、お体の調子はいかがですかー?」

看護師に声をかけられる。

「ああ、大丈夫ですよ」

「ほんと、奇跡ですよ!目が覚めて、後遺症もほとんどないなんて」

何度聞いたかわからない言葉を聞き、俺は笑う。

ふと、左隣を見ると、カーテンが空いていた。そこには綺麗に整頓されたベッドがある。

俺は気になり、看護師に尋ねる。

「俺が目を覚ました時、ここ、閉まってませんでした?」

すると看護師は、悲しそうな顔をし、

「そこの人ね、倉田さんが目を覚ます数時間くらい前に亡くなってしまったのよ」

「そうなんですか。すみません、そんなことを聞いて…」

すると看護師はこう続けた。

「そこの患者さんね、あなたと同じ、5年前にここに運ばれてきたのよ」

「俺と同じ事故に巻き込まれたってことですか?」

看護師は首を横に振る。

「隣県の崖下で見つかってね、ここに運ばれてきたのよ。自殺ですって、まだ若いから、先もあっただろうにね」

「先」という言葉に、俺ははっとする。

「その子は、幾つだったんですか?」

「自殺した当時は高校3年生だったのよ。この辺でも有名な進学校の。」

まさか。

「その子の名前は…?」

「神田千花さんっていうのよ。かわいそうにね、5年間、一度も、誰もお見舞いに来なかったのよ…全く、ひどい話だわ」

名前を聞いた後の看護師の言葉は、俺には届いていなかった。

千花が最後に、俺に言った言葉を思い出す。

『おじさん、ありがとう。これでおじさん、死ぬのは「先」延ばしだね』








3カ月後、リハビリ生活を終え、俺は退院した。妻と息子と一緒に歩いていた。俺は2人に言った。

「なあ、帰りに宝くじを買いに行こう、あの、7桁を選ぶやつ」

息子は笑う。

「父さんが宝くじを買いたがるなんて珍しいね」

妻も笑い、

「そうね、当たっても使い切れないかもしれないじゃない、何か買いたいものでもあるの?」

「当たったら使いたい分だけ残して、どこかに寄付すればいいさ。」

妻は微笑みながら、

「あなたらしいわ」

と言い、息子が笑う。その光景を見て、俺は幸せを噛み締める。

そして俺はこう言った。


「いいじゃないか、まだ、「先」は長いんだ」


暑くなり始めた街を、3人は笑って歩いた。






初めまして、桑名新と申します。この度はこの「先」と言う小説を読んで頂き、誠にありがとうございます。

この小説は、僕が書いた最初の作品になります。至らぬ点が多々あるとは思いますが、楽しんで読んでいただけたら幸いです。

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