3―1.敗北の後で
「!!」
突如、意識が蘇ってきた。瞬間的に、自分が意識を失う前の出来事を思い出す。
一人の男の手により次々に倒れる狗鬼達、笑みを滾らす男。
がばりと起き上がり、瞬時に体中に警戒をみなぎらせる。
そこは、静寂に包まれた、白い空間だった。薄い水色の病院着を着せられ、哭士は白い部屋の一室のベッドの上に寝ていたようだ。
咄嗟に胸に手を当てる。確かにあの時、自分は色把をかばい、弾き飛ばされた先で、鉄屑が胸を貫いたはずだ。
何度も胸を弄るが、痛みは無くなっていた。
身を包んでいた薄水色の病院着の襟に指を差し入れ、傷を確認するも、うっすらとした傷跡が残っているのみで、もう直りかけているようだった。
「……」
一つ大きな息を吐き出して、辺りを見渡す。部屋の中央に自分がいま居るベッドが一つ。右の傍らには小さなテーブル。その上にはミネラルウォーターの入ったペットボトルと、見慣れた自身の服が畳んで置いてある。
水に手を伸ばそうとして、ふと自分の左腕に、何かが引っかかるような妙な感覚を覚える。
左の腕からは管が伸び、左わきに立てかけてある点滴の袋へとつながっていた。
哭士は乱暴に左腕の管をむしり取り、立ち上がる。
「くっ……」
一瞬、ぐらりと地面が揺れるような錯覚を感じた。折られた足が、まだ完治していないようだ。
病院着を無造作に脱ぎ捨て、用意されていた自分の服に着替える。誰も部屋に入ってくる気配が無い。
まだ傷む左足を引きずりながら、哭士は病室の扉を開いた。
「よぉ、やっと目ぇ覚ましたみたいだな」
哭士の病室の前には、金髪の細身の人物が一人。ユーリだった。
「ここは、どこだ」
病室の外に広がる廊下も、なお白かった。消毒液の匂いがつんと鼻を刺す。病院のようだが、桐生の診療所とは規模が違う。廊下に立つユーリと哭士以外に人はおらず、しんと静まり返っている。
「ココは、桐生の奥さんが管理している国立病院。ほんで、この病棟は狗鬼専用のフロアで、今は俺達しか居ない。お前、一時は呼吸器までつけて五日も眠っていたんだぞ。もう、いいのか?」
「あぁ」
短く答える哭士に、ユーリは頷く。ユーリも病院着ではなく、通常の衣服を身に纏っていたが、襟元から見える包帯、そして僅かな動作にも体をかばう姿が痛々しい。
建物の内装からして、かなり大きな病院と思われた。ユーリが口にした病院の名前も、哭士には聞き覚えがあった。菊塵の交際相手が今も眠っている病院だと気づく。
「俺達は、何故ここに」
工場跡地からは、相当の距離がある。哭士の記憶では、自由に動ける状態だったのは、蓼原しか居ない。
蓼原一人で、あの場に居た人間を病院に搬送できたとは到底思えない。
「キクの野郎だよ」
ユーリは、苦笑を浮かべて、口を開いた。
「俺らがあの廃工場に突入するって事が決まった時点で、桐生と連絡取ってやがったんだ」
攫われた苑司を追う為に、早池峰家を出発した直後の事を言っているのだろう。哭士は、色把が廃工場へ来ないようと釘を刺しに行き、菊塵と僅かに離れた時間があった。
「その後は常に桐生と通話状態。あの日の出来事は全部桐生に伝わってたんだってよ。ま、途中でキクの携帯は、あの戦いでぶっ壊れちまったらしいけどな」
恐らく、桐生は菊塵からの要請で廃工場に集まった全員を搬送できる用意をしていたのだろう。そして、通話が切れた時点で菊塵から予め伝えられていた場所と、携帯電話の位置情報を元に、現場に駆けつけた、という寸法だ。
数年来の付き合いである哭士は、さほど菊塵の取っていた準備に驚く様子も無く、そうか、と一言ユーリに言い放ったのみだった。
「それから、色把に礼言っとけ。お前が目覚ますまで、ずっと付きっきりだったんだ」
病室に畳んでいた服も、水の入ったペットボトルも、恐らく色把が置いたのだろう。ユーリの言葉で、最後に色把を抱きしめた感覚が、腕に蘇ってきた。ぐったりと自分に寄りかかっていた色把。操られていたとはいえ、この手であの細い首を締め上げ、命を奪いかけた。哭士の視線は、ユーリの足元付近をさまよう。
一瞬の沈黙。
「……俺ら、負けたんだな」
「ああ」
相槌と同時に、あの日の出来事がじわじわと哭士の記憶に浸入してくる。巨大な影鬼との戦闘、絡音とレキの登場、そして、敗北。
哭士の心中には苦いものが広がる。
「苑司……、アイツが居なきゃ、どうなってたことか……今は、本当に狗鬼になっちまったのか、検査を受けてる」
ユーリは哭士から視線を逸らし、一瞬憂いの表情を浮かべる。
「桐生にも言われたよ。籠女と狗鬼の血が混ざって人に入ると、やっぱ、その人間は狗鬼になるんだってよ……。俺、知らなかった。アイツを人じゃなくしてしまったかもしれない……」
ユーリは下唇をかみ締める。知らなかったとはいえ、一般人である苑司を狗鬼にしてしまったかもしれない事、争いに巻き込んでしまったことに、少なからず責任を感じているらしい。
「……どのみち、苑司がああならなければ俺達は助からなかった」
絡音の糸に絡め取られ、哭士たちにはなす術が無かった。そこへ、狗鬼として目覚めた苑司の力が暴走し、絡音の糸から哭士らは解放されたのだ。あの出来事が無ければ、色把の命をこの手で奪い、その後はまさに蜘蛛の糸に掛かった獲物同然に、仕留められていたに違いなかった。
「そう……か」
「そうだ」
ユーリの目に力は無い。正直、圧倒的な力で、完膚なきまでに打ちのめされた事で、哭士も今は如何すればよいのか見当がつかない。ユーリの表情も、抱いている感情も、哭士には手に取るように分かった。
哭士の言葉に、ユーリは数回力なく頷いた。
「そうだ、午後になったら、お前の兄貴の病室に集まれって。話があるらしい」
その場を離れようとする哭士の背に、ユーリの言葉が降りかかる。
「分かった」
哭士は了承の意思を伝え、廊下を曲がった。
窓から見える景色から、かなり高い位置に居ることがわかる。ふと、廊下の先に二人の人物が立っていることに気づいた。