2―47.圧倒的な力
哭士は、ゆっくりと息を吐き出そうとするが、思うように身体が動かない。すさまじい衝撃から来る身体の痺れが、レキの力の強さを物語っている。
(こんな筈は……)
力を過信していた訳ではない。だが、これほどの大きな力は、今まで受けたことが無かった。本家で戦った恒河沙の拳ですら、本気を出していない様子のレキにまったく及ばない。
その時、哭士の耳にうめき声が届く。事態を把握した哭士は身体を僅かに移動させた。
「かはっ……!」
哭士の身体の下から這い出した菊塵は、小さく咳き込む。
何度か苦しげに身体を震わせ、咳き込むと同時にコンクリートの地面へ小さな赤い斑点が染みを作った。
両肘を地面についた状態だった菊塵の身体が大きく傾ぎ、その場へと倒れこんだ。一度、再び起き上がろうと試みる様子があったものの、菊塵の体力は限界を迎え、戦闘不能となってしまった。
「この……野郎!」
その様子に、いても立ってもいられなくなったユーリが、先ほどの哭士の動きよりも素早くレキの真上へと躍りかかる。
飛び上がった身体は弧を描き、真紅に染まった強い双眸は、レキの首一点を狙っている。その動きには無駄が無く、見つめている哭士にも、レキを仕留めるのに必要な間合いが十分に取れていることが分かった。
レキは、ユーリに対し、何の反応も示さない。ユーリの鋭い拳が、まさにレキの頚部を突こうと、まっすぐに伸びた。
だが。
驚愕の声が洩れると同時に、ユーリの動きもぴたりと止まった。そして、その様子を捉えていた哭士も、自身の目を疑った。
ユーリの拳は、手の平のみで受け止められ、レキの身体は微動だにしていない。ユーリは、レキの真上から飛び掛かり、避けるのがほぼ不可能な間合いまで詰めていたはずである。だが、一瞬のうちにレキの姿が移動し、こうして僅かな損傷すら与えてはいない。
無表情に、レキはユーリに対し口を開く。
「貴方は、まだ自身の力を十分に使いこなせていないようですね」
ユーリの拳を受け止めていた手の平を、一気に握り締めるレキ。同時に、何かが砕ける鈍い音と、鋭いユーリの悲鳴が辺りに響き渡る。右手を抱え込むようにして、その場に崩れ落ちる。右手の骨が砕けたらしい。痛みに顔をゆがめている。
レキが屈んだユーリに止めを刺そうと腕を振り上げる。哭士は強く地面を蹴った。
哭士が伸ばした腕が、レキの頬を掠める。レキは、上半身を捻り、哭士の攻撃を避けていた。
「流石に、早い」
身体を捻った不安定な状態のまま、一度地面に手をつくとその反動で素早く哭士の間合いに飛び込んでくる。
先のレキの鋭い拳に対応するべく、両腕を自身の身体の前で構える。
「早池峰!」
ユーリの叫び声と同時に、哭士の足に硬い何かが触れる。ユーリが哭士の目の前に、空気の壁を生成したのだ。ユーリの意図を汲み取った哭士は、見えない壁を強く蹴り上げた。
空気の壁には弾力があり、哭士の身体は予想以上に高く飛び上がる。レキの頭上を軽々と越え、飛び上がった先にまたもや硬い壁が生成されていた。
以前ユーリが哭士と戦った時と同じように、哭士も空中の壁を強く蹴り、着地したばかりのレキの背に向かって鋭く飛び掛った。
「!」
レキの背中に哭士の膝が直撃する。衝撃で短い息を吐き出したレキは、うつぶせの状態で地面に叩きつけられた。
哭士は後方に飛びずさり、次の動きを見逃さんと、じっとレキの姿を睨み付けている。
右手を地面につくレキ。ゆっくりと体重を腕にかけ、そのまま立ち上がる。
着衣に付いた砂埃を手で払い落とし、静かに哭士へと向き直った。その表情は、先ほどから変わらない笑みが浮かんでいる。
突如、何の前触れも無く哭士の目の前からレキの姿が消えた。
「!」
視線を素早く巡らせ、レキの姿を探す。工場内の何処にもレキの姿が見当たらない。
辺りを見渡しながら、哭士は全身に緊張を漲らせる。
一瞬、背後で何かが素早く動く気配。哭士は身を翻した。
吼え声が上がったのはまさに一瞬の出来事だった。
哭士が振り返ったその時には、うつ伏せに倒れこんだユーリ、そして脇にレキがしゃがみこんでいた。
背後から襲い掛かり、後頭部を蹴り上げたらしい。ユーリはそのまま昏倒していた。
もはやレキは何も語らない。その狂気に満ちた目だけが、哭士と友禅の二人を捉えていた。
菊塵、ユーリが倒れ、残された狗鬼は哭士と友禅の二人。気を失って倒れた色把は先のレキとの交戦中に、蓼原が抱え上げ、工場の隅に移動していた。
蓼原本人は、人の力を遥かに凌ぐ鬼達の戦いに、半ばあっけに取られているような状態だった。無論、戦うことなど不可能だ。
「友禅」
レキに視線を投げたまま、哭士は兄に呼びかける。
今も辛そうに呼吸を繰り貸している友禅は、哭士に顔を向けた。
「動けるか」
哭士の問いに、友禅は首を縦に振る。
「取那と男を連れて、山を下れ」
圧倒的なレキの強さに、哭士も半ば圧倒されている。一般人である蓼原を巻き込むわけにはいかない。今動ける人間だけでも、この争いから遠ざけておきたかった。
友禅は目を見開く。
「何を言うのです」
「奴が仕掛けてくる。時間が無い」
友禅の言葉を遮り、急げ、と哭士は顎で階上にいる取那を指す。
「……」
哭士の気迫に、友禅は一つ頷いた。
「行け」
短い言葉と同時に、二人の狗鬼は散った。友禅は二階部分に飛び上がる。
「勝てぬと分かって、今度は逃げようと? 猪口才な」
レキが友禅に向かって飛ぼうと、身を屈める。だが、その背中に哭士が回りこむ。
だが、レキはその気配をも察知し、振り返りざまに哭士の横面に肘を叩き込む。大きく頭を振られた哭士は、ほんの一瞬平衡感覚を失う。その隙をレキが逃すはずも無い。
体重が掛かっている哭士の右足を払い、強かに地面へ身体を叩きつける。起き上がろうとした瞬間、哭士の左足から鈍い音が響き、脳に向かって壮絶な痛みが駆け巡った。
思わず声を張り上げる哭士。
「哭士!」
友禅が振り返り、哭士の名を叫ぶ。唸り声を上げながら、苦痛の表情で左足を抱え、レキを睨み上げた。
先ほどから変わらない笑みを浮かべているレキが、哭士の大腿骨を躊躇無くへし折ったのだ。今まで何度か狗鬼相手に戦ってきた哭士だが、動けなくなるほどの痛手を負う事は殆ど無かった。絶え間なく遅い来る怪我の痛みに、哭士の額から脂汗が流れ落ちる。
「脆い」
レキの呟く声が、哭士の耳に届いた。
「貴方たちが、私を斃すことは不可能です。もう、全てを終わりにしましょう」
レキの拳がゆっくりと掲げられた。哭士は身をかわそうと身体に力をこめるが、折られた足に感覚は無く、持ち上げた体に付いて引きずられているような形となった。
目ではレキの動きが追えているのにも拘らず、哭士の体は動かない。レキの攻撃に備え、強く奥歯をかみ締めた、その瞬間だった。
バシリ、と何かを受け止める音。
友禅が、哭士の前に立ちはだかり、レキの拳を受け止めていた。
「先も存分に痛めつけて差し上げたというのに。まだ足りないのですか?」
レキが哭士達の前に姿を現すそれ以前に、友禅とレキが争っていた事は明らかだ。レキの言葉には答えない。荒い呼吸だけが、その空間に響き渡っていた。
「……」
友禅の身体は近くで見ると、激しく損傷していた。今のレキの攻撃が防げたことが不思議なくらいである。
「哭士……。私には、誰かを見捨てて逃げるようなことは出来ません」
レキと向き合いながら、友禅は言い放つ。その言葉に、顔をゆがめる一人の男。
「……良いでしょう、ならばまとめて始末をするまで」
レキはその場に高く飛び上がった。