2―42.籠女の血
目の前で無数の氷の槍が降りそそぎ、苑司の目は見開かれたままだった。
菊塵が、影鬼の攻撃を避けて時間を稼ぎ、影鬼を誘い込んでいる最中、ユーリは面白げに天井を指した。
つられて苑司が見上げると、天井には、無数の氷柱が垂れ下がっていた。哭士は、影鬼に攻撃を仕掛けながらも、止めを刺すための氷の槍を天井に用意していたのだった。
そして、菊塵の合図と同時に、氷柱は天井を離れ、影鬼に向かって一気に向かって行ったのだ。
降り注ぐ氷の槍を、菊塵は自身の能力で跳ね返し、それもまた、影鬼に突き刺さる。
息の合った二人で無ければ、このような芸当は出来はしない。言葉を交わさず、それを行っている事に、苑司は言葉を失っていた。
「な? 俺が戦わなくてもいい理由、分かったろ?」
つまんないよなぁ、と小さく息を吐き出してユーリは無数の氷柱が突き刺さっている影鬼を見た。
逃げ場も無く、一身に攻撃を受けた影鬼はひとたまりも無い。
最後の叫びを上げ、氷の塊に埋もれたまま、影鬼の体はぴくりとも動かなくなった。
影鬼の体からは、黒い煙が立ち上がり、少しずつ消失している。
「もういいだろ」
「わっ」
いきなり体を持ち上げられた苑司は、思わず声を上げる。
ユーリは透明な床から飛び、音も無く着地した。
「体は大丈夫ですか?」
地面に降ろされた苑司に、菊塵が問う。
「う……うん」
まだ、今目の前で起きたことが信じられない苑司は、曖昧に頷いた。所々、体は痛みを訴えていたはずだが、その痛みはどこかに吹き飛んでしまった。
「取那とかいう女は何処だ」
哭士が苑司に問う。その問いに、苑司もまた、ハッと自分を取り戻す。
「そうだ! 取那さんは!? 工場の外に居るはずなんだ」
苑司が哭士を見上げ、訴える。
「おかしいですね。僕たちが駆けつけたとき、外には誰も居なかったはずですが」
菊塵が首をかしげる。
「見て来る」
哭士は小さく呟くように言い、工場の入り口へと足を向けた。
「では、僕も行きましょう。ユーリ、苑司君を頼みます」
「はいよ」
ユーリは、ぶっきらぼうに手を上げ、返事をする。小さく跳ねるようにして先ほど哭士が仕留めた影鬼に近づくと、興味深げに覗き込んだ。
「まだ体が消えずに残ってら。相当大きかったもんなあ」
やや猫背になり影鬼を見つめているユーリ。苑司は、ユーリの後ろに回る。
「あ、あまり近づかない方がいいよ……」
襲われた恐怖心から、苑司はユーリの居る場所まで近づくことは出来ない。
「大丈夫だって。もう死んでる」
ユーリはくるりと苑司に向き直った。親指で、背後の影鬼を指す。
「黒い煙が立ち上がってちょっとずつ小さくなってるだろ? もうすぐ消えてなくなる」
「でも……」
ちらりと影鬼に視線をよこす苑司。
「!!」
黒い塊が、僅かに揺らぐ。次の言葉を発しようと、苑司が息を吸い込んだ瞬間だった。
不気味な二つの光の玉が明滅した。
一瞬の出来事だった。
影鬼に突き刺さっていた無数の氷柱が蠢き、ユーリに向かって鋭い腕を伸ばしてきた。
目を離していたユーリはそれに反応が出来ない。
「危ない!」
苑司が叫ぶ。ユーリの体に衝撃が走る。彼の長い足が縺れ、彼はその場に倒れこんだ。
※
短い苑司の叫び声に哭士達が振り返ったその瞬間だった。
「影鬼が!」
菊塵が瞬間的に状況を把握する。
「……野郎、力を最後に残していやがった」
哭士の目に力が宿り、一際大きな氷の塊が影鬼を直撃した。
氷塊が影鬼に叩きつけられた瞬間に、黒い影は霧散し、跡形も無く消え去った。
大きな影鬼を仕留め、動かなくなった事で油断をしていた。哭士は自身の過失に舌打ちをする。
哭士、菊塵が駆け寄る。
倒れこんでいたユーリが起き上がる。だが、体に外傷は無い。次の瞬間、声を張り上げて苑司の名を呼ぶ。
「苑司! 苑司!」
影鬼の最後の攻撃に貫かれたのは、ユーリではなく苑司だった。
右脇腹を影鬼の爪に抉られ、苑司の青いシャツは見る間に赤黒く染まる。体は衝撃で小刻みに震えていた。
「馬鹿野郎! 普段ビビリの癖に何でこんな時に出しゃばりやがるんだ!」
影鬼が腕を伸ばした瞬間、ユーリを守ろうと、苑司は咄嗟に彼を突き飛ばしたのだ。
苑司が居なければ、背中から体を貫かれていたのはユーリだっただろう。
ユーリの声は、大きく建物内に響き渡る。
「……」
苑司は何かを伝えようと口を開くが、吐息となり言葉にならない。
ただ、ごめんなさい、と弱弱しく口が動くだけだった。
ユーリ、哭士を交互に見つめていた目は、重力に負け、ゆっくりと瞼を閉じてしまった。
「……取那の捜索は今は後回しにし、彼の救命を最優先に」
一刻も早く山を下り、救命措置を行わなくては、苑司の命が危うい。
だが、苑司の呼吸は既に浅く、体を持ち上げようと掴んだ腕は力無い。
すぐに医者に見せたとしても、助かるかどうか難しい状況だった。
誰もが、最悪の事態を脳裏に浮かべた、その時だった。
「!!」
背後で砂利を踏む小さな気配を感じ、哭士が振り返る。
「……色把」
肩で息をし、入り口に色把が立っていた。傍らには蓼原も居る。菊塵も信じられない様子で、色把と蓼原を見やる。
色把は、工場内の状況を察し、駆け寄ってくる。
「何故来た。来るなと言っただろう」
厳しく諌める哭士に、色把は強い意志を持った目で首を振る。今はそれ所ではない、と言いたげだ。
意識を失っている苑司に視線を落とす。床に散らばっているガラス片を拾い上げた。
『私の血を、使います』
強く唇をかみ締め、手の平にガラス片を走らせると、見る間に血があふれ出す。
血をこぼさぬ様、苑司の傍らに膝をつき傷口に自らの手を当てがった。
傷口を重ねた手を下に、もう片方の手を沿え、色把は少し苑司に体重を預けた。
「……」
通常では考えられない勢いで、色把の手の平から血が吹き出し、それが苑司の傷口に吸い込まれていく。
少し離れた場所で見守っている哭士の目にも、それがはっきりと分かった。無言のまま哭士の隣に立った蓼原も、驚いた表情を浮かべてはいるものの、静かに見守っている。
苑司の苦痛にゆがんだ顔が、僅かに緩まった。だが、顔色は死人のように青ざめたままだ。
「……籠女の血は、人間にも使えんのか」
驚愕の様子で、ユーリは色把と苑司の様子を見守る。
「籠女の血は、何者をも癒します。狗鬼の体が一番籠女の血に対応している為に、少量の血で全快します。……ですが」
苑司は一般人だ。先ほどから色把は苑司に血を与え続けている。通常の狗鬼であれば、十分すぎるほど回復をしている時間だ。
血を分け与えている色把の顔も、徐々に青ざめ、体重をかけている体が、僅かに傾ぐ。
「色把さん、それ以上は危険です」
菊塵が強く色把の肩を引き、苑司から腕を引き剥がした。
『まだ……まだ平気です!』
しかし、必死に菊塵を見上げた色把の顔色は悪い。貧血状態に陥っている。
なおも苑司の体に手を当てようと伸ばす手首を、哭士の手が、がしりと掴む。
「お前の体がもたない」
哭士の言葉に、首をゆるゆると振る色把。苑司の呼吸は未だに浅く、哭士の耳に届く彼の心音も弱いままだ。だが、色把がこれ以上苑司に血を与えれば、色把の体にも大きな負担がかかる。
「どうにかなんないのか!」
自分のせいで苑司を瀕死の状態に陥らせてしまったユーリは、うろたえ、菊塵に詰め寄る。
「籠女の血は、彼の体内に入りました。あとは、彼の生命力に賭けるしか」
「まだ、傷口だって塞がっちゃいないってのにか」
ユーリはがばりと顔を上げ、色把と同じようにガラス片を掴みあげた。
「何をするつもりだ」
「狗鬼の血はダメなのか? 少しは籠女みたいな力があるんじゃ……」
ユーリはガラス片を握り締める。見る間に手の平は赤く染まった。
「ユーリ、止せ」
狗鬼の血を一般人に与えては、何が起きるか分からない。
「だけどこいつ、このまんまじゃ助からねえよ!」
哭士の制止も聞かず、ユーリは苑司の傷口に自身の手をかぶせた。
突如、ユーリの顔が苦痛にゆがむ。
見ると、ユーリの血もまた、色把程の勢いは無いが、同じように苑司の傷口に馴染み、痛々しい傷口が塞がっていく。
「……!」
まさか、狗鬼の血ですら他者を癒すことが出来る等と考えたことも無かった菊塵と哭士は、目の前の状況に驚愕の色を隠せない。
苦しげな表情を浮かべるユーリ。血を与える事が本能的に染み付いている籠女とは違い、体から異常な速さで血が抜けていく事に、体がついていけないのだろう。
食いしばった歯の間から、うめき声と共に息が漏れる。
やがて、苑司のわき腹の傷が完全に塞がった。同時に、ドサリとユーリも傍らに倒れる。だが、その表情は安心しきったものに変わっていた。
「……何とか、なるもんだな」
息も絶え絶え、ユーリは寝転んだ状態で全員を見上げる。
「……狗鬼の血も、人を癒すのですね……」
その場にいた全員が、整った呼吸を取り戻した苑司を見つめていた。