2―40.血の芳香
一瞬の静寂。
大きな爆音と共に、苑司の目の前の壁が吹き飛んだ。
「うわぁぁぁ!」
突然の出来事に、悲鳴を上げる苑司。同時に、軽自動車位の大きさはあろうかという大きな塊が飛び込んでくる。
トタンで囲っていた壁は、いとも簡単に崩れ去り、周囲にバラバラと瓦礫が散らばる。
「あ……あぁ……!」
公園で見たものとは比べ物にならない大きさ、そして迫力だ。
光の玉である目は爛爛と輝き、二人を見つめる。息をするたびに体は、不愉快な音と共に上下を繰り返している。感情など読み取ることの出来ない光る目が捉えたのは、取那ではなく苑司だった。
飛び掛ろうと影は小さく身をかがめた。
次の瞬間に影鬼がこちらに飛び掛ってくることも頭では分かっていた。だが、苑司の体は恐怖に支配され、全く動かなくなってしまっている。
「何してるの! 立ちなさい!」
腰が抜けて立ち上がれないで居る苑司を、取那が引き上げる。直後、苑司に突進をしてきた影鬼は、背後の瓦礫に突っ込んだ。
激しい音を立てて、瓦礫は周囲に飛び散る。
瓦礫から頭を引き抜く影鬼。
実体は無いはずの黒い靄。だが、体を大きく一度震わせると、影鬼の体の上に降り積もった瓦礫が大きな音を立てて地面に落下する。
あれほど強い衝撃でぶつかったはずなのに、影鬼は何事も無かったかのように、再度苑司へ照準を向ける。
不愉快なノイズ音と共に、獣の唸り声のような声が、影鬼から漏れ出している。
苑司の恐怖心を煽るには十分だった。
「ど、どうするの……!?」
取那には、この状況を打破する何か策があるのだと思い、問いかける。
取那に引き上げられて何とか立ち上がった苑司であったが、後ろ手に縛られたままだ。
両手が自由だったとしても、影鬼に攻撃などすることは出来るわけは無い。苑司の腕をつかみあげている取那の手に、力がこもる。
「決まってるでしょう! 逃げるのよ!」
一般人と、籠女。この強大な化け物に対抗する手などひとつも無いのだと知る。
取那は踵を返し、工場の出入り口へと駆け出す。取那の一言に絶望の二文字を打ち付けられた苑司も、腹をくくって、取那に続いて駆け出す。
しかし。
「!!」
瓦礫に足を取られ、苑司は無様に肩から転んでしまう。手を後ろで縛られている苑司は、立ち上がることも出来ずに、体をよじる。
迫ってくる影の姿に、恐怖で声も出ない。呼吸は荒く、刻む心臓の音は五月蝿いほどに耳に届く。
(もう、ダメだ……!)
地面を蹴り上げ、素早い動きで追ってくる影鬼。視界いっぱいにその影が広がり、苑司は強く両の目を閉じた。
ざざ ざざざ ざ ざ
だが、苑司の耳に届く不快な音が、一瞬静かになる。ゆるりと苑司は瞼を開いた。
苑司に今にも襲いかかろうと、覆いかぶさっていた影鬼の目は、何故か苑司を捉えていない。影は上体を起こし、何度か空中の匂いを嗅ぐような動作を繰り返している。
そして影は、がばり、と工場の出口に顔を向けた。
苑司も影の向いた方向に視線を向ける。
「取那……さん」
取那が、工場の出口を背に、立ち止まっていた。
何故か右腕を真横に伸ばし、その手は、きつく握り締められている。
「本物の籠女の血はこっちよ。……いらっしゃい」
握り締められた手のひらが、ゆっくりと開かれる。パラパラと落ちるのは、ガラスの塊と、そして、赤い液体。
影鬼は甘美な食事の香りに一度大きな咆哮を上げると、苑司にはもう振り向きもせずに、取那に向かって躍りかかる。
「アンタは今のうちに逃げなさい! 分かったわね!」
苑司に向かって叫ぶと、取那は一直線に出口に向かう。影は取那を標的に定め、後を追う。
「取那さん!」
苑司は取那の背中に向かって叫ぶ。だが、取那の姿は、見る見るうちに遠ざかり、工場の外の闇の中に消えた。
影鬼は、少しでも取那に追いつこうと、大きく一歩を踏み出した。
このままでは、取那が影鬼の餌食となってしまう。
取那を救いたい。だが、打破することの出来ないこの状況。苑司の大きく開いた口からは、叫び声が漏れるだけだった。
ズン、という重い音。そして、小さな振動が苑司の体に伝わってきた。同時に影鬼から発せられる不愉快な音が一層高まる。悲鳴のようにも聞こえるその音に、苑司は呆けたように目をよこす。苑司の頭には、パラパラと小さな粒が降り注ぐ。
「……氷、だ」
影鬼の体には、一抱えもある太い氷の柱が、突き立てられていた。
自分の頭から落ちた粒は、地面に落ちると水に変わり、コンクリートに浸透していった。氷、という物質を見て、苑司は一人の人物を思い浮かべる。
「哭士君……?」
周囲に視線をめぐらせるも、哭士の姿は見当たらない。
影は、一度大きく雄たけびを上げ、氷の柱から体を引き抜く。ずるり、と抜け出た影鬼が纏っている靄は、氷の柱に付着している。
心なしか、影鬼の体が一回り小さくなったように思えた。
激昂した影鬼は、体を大きく揺すぶると、照準を苑司に向ける。
攻撃対象を苑司に切り替えたようだ。
「え……! う、嘘……!」
苑司はまだ地面に這い蹲ったままだ。体は自由に動かず、苑司は起き上がろうと必死にもがいた。
みるみる距離を縮める影に、苑司は声を張り上げた。