2―30.かつての仲間
「!!」
ふと、自身に近寄ってくる一つの気配を感じ取り、菊塵は現実に引き戻された。
久弥のものではない。身体を起こそうにも、腕に力が入らない。
じっくりと気配を探るが敵意を感じられない。菊塵は近づいてくる気配の動向を見守った。
背中に恐る恐る触れる細い手。
「菊兄様……」
聞き覚えのある声に、菊塵はその声の主の名を呼んだ。
「莉子……」
かつて、同じGDに所属していた、妹のような存在だった少女がそこにいた。
「何故、ここに」
「腕、出して」
菊塵の問いに答えようとしない莉子。地面についた菊塵の腕をとり、スーツの袖をまくった。
腕の支えを失った菊塵は、肩から地面に倒れ伏す。小さくうめき声が上がる。
「莉子」
伸びてくる手を振り払おうとするが、莉子は首を横に振り、それを拒む。
莉子が何をしようとしているのか察した菊塵は、口を閉じ莉子の様子を見つめた。
むきだしになった菊塵の腕に莉子は迷いも無く噛み付く。血管の浮いた腕から一筋の血が流れ出すと、すかさず莉子は、上着の懐から小さな薬ビンを取り出した。籠女の血の、治癒成分を抽出したものであると、菊塵は一瞬で理解した。透明な液体は、莉子がつけた傷に吸い寄せられるように集まり、浸透していった。
薬品が体に回ってくると同時に、体中についていた小さな切り傷はみるみる塞がっていく。
絶えず広がっていた体中の痛みも、静かに引いていくのが分かる。
「久弥に妙な動きがあると聞いて……」
久弥の動向を探りに来て、傷ついた菊塵を見つけたのだろう。莉子はそこで言葉を切り、唇をかみ締める。何か言いたげな表情を浮かべている。かつて同じ組織に組していた時、しばしばこのような表情で、莉子は菊塵を頼ってきた。
「菊兄様……私……」
彼女が何か、自身の力を必要としていることは分かる。だが、今おかれている立場では、その願いを叶えることは不可能であろう。菊塵は、静かに立ち上がり、何かを言いかけている莉子を見下ろした。
「……傷の手当て、感謝します。ですが今は僕と貴方は別の組織に組する人間です。貴方のその安易な行動が、何かの引き金になりかねない。違いますか」
莉子はかつて、行動を共にしていた仲間、である。だが、今や目の前の少女は本家の当主を守る狗鬼。片や菊塵は、本家が抱く保守派の意向に対立する、革新派の一員である。ともすれば、敵同士。こうして手当てを施している場面を誰かに見られでもすれば、忽ちに問題が発生する。菊塵は、あえて莉子を突き放した。
「……そう、だね。ごめんなさい」
菊塵の言葉に、莉子は小さく呟く。一つ弱く頷くと、軽く地面を蹴り上げ、静かにその場を立ち去った。
「……」
完全に、菊塵の周囲には誰も居なくなった。息を大きく吸い込み左手を身体の前で握り締める。どこも痛むところは無い、身体は既に全快していた。
莉子が何のために、自身の怪我を治癒させに来たのかは分からない。
(今や、彼女は本家の狗だ)
一度頭を振り、心中の淀みを打ち消した。
まだ、自分の仕事は残っている。早池峰家に帰らなくてはならない。
菊塵は、身体をほろい、ある程度の砂埃を落とすと、早池峰家に向かって歩を進めた。