2―20.烏沼 克彦
「烏沼 克彦……」
修造の口から、その言葉が発せられ、思わず哭士も口にだした。
自分が母と父の命を、奪うことになってしまった原因を作った男。目が爛々とぎらつき、卑屈に笑う男の姿を思い出し、哭士の心中はざわめいた。
「奴には、気をつけよ」
ブリリアント社内、修造は会長室で哭士に呟くように言い放った。目を引く一番大きなデスクの前に、来客用に黒皮のソファーが備え付けてある。哭士と修造は、小さなテーブルを挟み、向かい合っていた。
「お主は、本家で【神】という言葉を聞いたそうだな。嵜ヶ濱村という村名も」
「あぁ」
菊塵を通し、哭士に起きた出来事は修造にも伝わっている。
修造は暫く黙り込んだ後、意を決したように語り出した。
「……お前が生まれる、少し前のことだ。お前の母、さくらは……【神】に呼ばれ、嵜ヶ濱村へ向かった。夫の宗一郎と……克彦を共にして」
枯れ木のような修造の手は、しっかりと身体の前で組まれたままだ。
「!!」
哭士は顔を上げ、祖父の顔を見つめた。
哭士が生まれる二年前、さくらが二十四歳の頃。本家から呼び出しがあった。
――【神】が、早池峰さくらを呼んでいる。というのだ。
【神】が狗鬼一人を指し、呼び出すなど、今までに無かったことだった。本家も、呼ばれたさくら本人も、困惑していた。
さくらは、本家の従者に連れられ、宗一郎、克彦と共に【神】の許へ赴いた。
「……嵜ヶ濱村で何があったのかは分からぬ。戻ってきたさくらも、宗一郎も、克彦ですら、村で何があったのかを語ることは無かった」
だが、と修造は続ける。
「克彦は、変わった。宗一郎は言っておった……奴は【神】に魅せられたのだ、と」
嵜ヶ濱村から戻ってきた克彦は、目つきががらりと変わった。本家に出入りするようになり、こそこそと何かを嗅ぎまわるような真似ばかりしているというのだ。
「また、随分と悪者にされているようですねぇ」
不快感を覚える声。修造は勢い良くソファーから立ち上がった。声がした方向――会長室の入り口――には、克彦が立っていた。
「どうやって入ってきた」
刺々しい修造の言葉、だが、克彦は鼻で笑い飛ばす。
「なァに、早池峰修造の親族です、と言ったらスンナリ通してくれましたよ。本家から籠女を盗み出したという狗が居ると聞いたものでね、見に来たところです。あの娘はどこにやったんです? 大事に大事に隠しているのですか?」
わざとらしく会長室内を見回す克彦。哭士は黙って痩せぎすの男を睨み付けている。
「出て行け、会社には立ち入るなと言っていたはずだ」
「嫌だなぁ、お義父さん。数少ない身内でしょう?」
媚びるような、だが、人を小ばかにしたような不愉快な笑みを浮かべ、克彦は修造へ言い放つ。
「お前に父と呼ばれる筋合いなど無いわ。さっさと去れ」
修造のこめかみには、血管が浮き出している。そんな修造の言葉をさらりと受け流し、不愉快な態度を崩さないまま克彦は続ける。
「さくらを失って悲しいのは貴方だけではありませんよ。イイ女だったなァ……、気が強くて、一筋縄ではいかないところが良かった。夜はどんな顔をするのか、兄貴が羨ましくてならなかったよ……」
火傷の痕が残る頬を引きつらせながら、克彦は笑う。
「貴様、さくらと宗一郎を侮辱するのは許さぬぞ」
「おお、恐い怖い」
肩を震わせ、嘲るような態度の男。ふと、視線が哭士を捉える。
「しかし、契約が出来ぬ哭士に、行方知れずの友禅。狗鬼で名高い早池峰家も、もうお終いだね。……【神】に見放されたさくらから、早池峰家は滅ぶんだ」
やけに、大きく耳に残った、克彦の言葉。
――【神】に、見放された?
「何だと」
思わず哭士は修造と克彦の間に立つ。
「教えてやろうか、駄犬。さくらが【神】に呼ばれて嵜ヶ濱村に行ったときのことだ。【神】はさくらに言ったんだ。『氷の仔を産んだとき、お前は死ぬ』ってな。予言どおり、コイツを産んで、兄貴と一緒に死んじまった。 コイツを産まなきゃ生きてたものを……」
克彦が蔑むように、哭士を一瞥する。
「だが、仕方ないか。友禅は兄貴の……」
「克彦!!」
今までに聞いたことの無い、物凄い剣幕で祖父は一喝した。冷静を装っているが、祖父の内側は今までに無いほど激しくいきり立っている。
「……出て行け……。ここから、出て行け」
祖父からは、克彦に対する怒り、憎悪。その場の空気が修造の発する雰囲気でビリビリと震えた。
「また、来ますよ。『お義父さん』」
不愉快な笑い声をあげると、克彦は身を翻し、会長室のドアから消えた。
「……監視に来たのだ。色把を、探っておる」
克彦が消えたドアをにらみ、ため息と共に呟いた。
「……奴の他にも一人、家の周りをうろついている人物が居る」
「何と……! そいつは誰だ?」
「苑司と外出した時に尾行られていた。歳は三十五歳ほど、恐らく刑事。……だが、目的は俺や苑司では無さそうだ」
「では?」
「菊塵」
哭士の言葉に、修造は一瞬で察した。
「まだ、追うものがおったとは……」
修造は、拳を強く握り締める。複雑な表情を浮かべる修造の視線。思考は過去を彷徨っているようだった。
「今日はもう出歩かぬ。警護の役、ご苦労だったな」
哭士は修造の言葉に頷き、ソファーから立ち上がる。部屋のドアノブに手をかける。
修造は口には出さぬとも、克彦の言葉に消耗をしているのが見て取れた。
「一つ、いいか」
背後で、修造がこちらに視線を向ける気配がした。
「友禅は、生きてる」
「!!」
「本家で、俺の石を取り返したのは、奴だ。本家で会って、話をした」
背後の気配で、修造が立ち上がったのを感じる。
「友禅が……!」
修造の喉から嗚咽が漏れる。五年も消息を絶っていたのだ、生存を絶望視していたに違いなかった。おぉ、おぉ、と唸るように咽ぶ修造の声、哭士はそのまま振り返らずに、部屋を後にした。