2―13.波紋
「……曽根越じゃないか」
スーツに身を包んだこの青年、数年前に蓼原が担当した事件の関係者だった。
曽根越 菊塵。
被害者、柳瀬フユの『元、交際相手』、そして『被害者の一人』である。
不可解な事件。人の業とは思えぬ凄惨たる現場。蓼原の脳裏に、資料室で見た情報が飛び交う。
「あぁ、蓼原さんじゃないですか、お久しぶりです」
声をかけられた曽根越は、蓼原をみとめ、にこやかに笑む。青年が見上げていた先を追うと、一つの病室があった。カーテンは閉められていた。
――彼女の病室、か。
「見舞いか? フユ、の」
手に持った煙草を指で弾き、灰を落とす。そんな蓼原に、曽根越はゆっくりと首を振った。
「彼女のご家族が僕を拒否しているので、病室には入れてもらえません。看護師の話ですと、目を覚ます望みは殆どないそうで。……それくらいしか分かりません」
「……そうか、まだ……」
煙草の煙を吐き出す蓼原。
「蓼原さんだったら、彼女の病室に入れるじゃないですか。彼女とは従兄弟でしょう?」
「ああ、そう……だな」
蓼原の父の、兄の子。歳が離れているために、あまり交流は無かった。柳瀬フユとは盆と正月に顔を合わせる程度だった。
あの事件の数日前、『娘に交際相手がいるらしい』と伯父が妙に落ち着かない様子で話をしていたのを覚えていた。だが、その後に、事件が起きた。その事件の後、皮肉にも柳瀬フユの家族と、この青年は初めて対面し、それ以降、彼は彼女との面会を許されていない。
――家族はまだ、こいつの事を……?
彼と、彼女の家族の間で一体何があったのか、蓼原には知らされる事は一度として無かった。
「目の調子はどうなんだ? よくなったらしいが、その後は?」
蓼原が追っている事件の現場に、この青年も居合わせている。それも、犯行のその瞬間に、である。だが、彼は『目撃者』にはなっていない。まさに犯行が行われたその瞬間、彼の目は『見えない』状態になっていたのだ。
「通常の視力、とまでは行きませんが、大分回復しました」
眼球に甚大な損傷、失明は免れない、と診断が下った。ところが、数ヶ月の後、彼の目は奇跡的な回復を見せた、らしい。眼鏡の奥の瞳は、しっかりと蓼原を捕らえている。
「今は、何をしてるんだ?」
眼鏡の奥の瞳を見つめ、蓼原は菊塵に問う。
「嫌だなぁ、取り調べですか」
蓼原の質問に冗談めいた柔らかい笑みが浮かべる菊塵。
「馬鹿言え、世間話だ」
菊塵の笑みは変わらない。蓼原は大きく紫煙を吐き出す。
「製薬会社に、勤務を」
「ほぉ、何処の会社だ?」
蓼原は吸い終わった煙草を携帯灰皿にねじ込んだ。
「ブリリアントです」
普段からTVなどでも良く見かける会社だった。
「……大手じゃないか、よく入れたな」
菊塵の口から放たれた意外な会社名に、思わず蓼原は本音を漏らしてしまった。
「親族が役員でして。コネクションですよ」
コネクション、という言葉の時にだけ、菊塵は肩をすくませた。
季節柄、凍えるような風が二人の間を吹きぬけた。菊塵の羽織っているコートが風に膨らむ。
「ところで、蓼原さんは? 病院に何か御用で?」
「あぁ、捜査でな」
もう一本煙草を取り出そうとし、思いとどまる蓼原。菊塵は、蓼原の手元を見つめながら更に問う。
「……何か病院で事件でも?」
と、蓼原は先程まで微笑んでいた菊塵の目に、一瞬だけ違和感を覚えた。
彼の目は、時折だが自分――刑事と――似たような雰囲気をかもし出すように思える。人を見る目が、一般人とはどこか違うのだ。
一般人の仮面を被り、その仮面から、刺すような鋭い視線を覗かせる。蓼原が菊塵に持つ印象はこれだった。少しの動作も見逃さないような鋭い目が、端端で見受けられる。それは、特に自分、蓼原に対し、強く向けられているように思えるのだ。
菊塵の目に気を取られていた。蓼原は口を開く。
「いいや、今回は検死の結果をだな。ニュースにもなっていただろう? 三日前に、マンションで男が殺された事件。ほら、部屋には死体と、荷物しか無かったっていう、アレだよ」
ニュースで報道されている程度の情報であれば、一般人に話をしても何の問題も無い。
「あぁ、それ、蓼原さんの署の管轄なんですか」
菊塵の問いに、そうだ、と蓼原は返す。
「そういえば、現場の部屋に置かれていたスーツケース、なにか入っていたんですか? なんだか意味ありげですよね」
目の前の青年はまた一般人の仮面を被った。『自分は何も知らない普通の人間です』そう見せ付けるように、無防備を装っている。
――思い過ごしだろうか。
蓼原は、菊塵に悟られぬよう、不敵な笑みを浮かべる。
「いいや、空っぽだった。今は署で保管を……って、おいおい、一般人にはこれ以上言えない」
「ですよねぇ。うっかり何か言わないかって、ちょっと期待していたんですけれど」
「この野郎」
菊塵を肘で軽く小突いた。
「ところで、だな」
この青年が、四年前のあの事件の鍵を握っている事は間違い無かった。無駄だとは分かっているが、蓼原はどうしても聞かずには居られなかった。
「四年前の、事件だが……あの後、何か思い出したことは?」
菊塵の目に浮かんでいた笑みが僅かに引っ込むのを、蓼原は感じた。
「……お話したとおりです。僕はあの時、何者かから突然目を切りつけられ、何も見えない状態でしたから。痛みで周囲に気を配る事も出来ませんでしたし。ただ、現場の写真を見る限り、とても人間の所業とは思えませんよね」
何度も何度も言ってきたであろうセリフを、眉一つ動かさず、こうして蓼原にも言い放つ。彼からは、今後これ以上の情報を得る事は出来ないだろう。
「すまないな、何度も聞いて」
「いえ、とんでもないです。当事者としてはもっと情報を提供できればいいんですけれど、すいません。これが精一杯なんです。 ……では、僕はこれで」
軽く蓼原に会釈をする菊塵。
「最後に一つ、いいか」
蓼原は菊塵に聞いてみたいことがあった。菊塵は蓼原の言葉に顔を上げた。
「お前自身は、どう思ってるんだ、あの、現場」
ふ、と菊塵は蓼原から一瞬目を逸らす。
「凄惨な現場、ですよね。……鬼が来て暴れまわった、なんて言った方が、信憑性があるんじゃないですか。……それでは」
にっこりと笑い、菊塵は背中を向けた。
蓼原は、菊塵が去った方向を見つめている。二本目の煙草に火をつけた。
一つ、菊塵の言葉で気になった事がある。話題が切り裂き事件に移った時である。
――なぜ、あいつは『スーツケース』と分かった?
蓼原は、現場に残されていた物を、『荷物』としか説明していない。報道陣にも、部屋にあったのは『カバン』と公表している。
刑事の妙な勘が動く、曽根越は、何かを知っている?
蓼原は、菊塵の背を追い、帰るべき署とは逆方向に歩みを進めた。