1―33.当主のたくらみ
「おかえりなさい、というべきかな、比良野色把」
色把の前には一人の少年が鎮座している。黒古志カナエだ。
「今日は特別に話があってね」
『何故、私を……』
口を開きかけて、色把は自分の口元に手を当てた。哭士と菊塵は、色把の唇を読んで色把の言葉を理解する。だが、カナエにはその方法では通じないかもしれない、と気が付いたのだ。
「構わないよ、僕も君の言葉は理解している。そのまま話せばいい」
カナエは色把の言葉を促した。
『何故、私を本家へ?』
「君は、保守派、革新派、どちらの派閥からも必要とされている。このまま放っておけば、一時沈静化していた抗争がまた激しくなる可能性がある。その為に保護した」
色把の質問に、カナエは正確に答える。色把の言葉はしっかりと伝わっているようだ。
『私はつい最近まで、籠女という言葉の意味すら知りませんでした。そのような人間を、何故……』
色把の言葉に、カナエの口の端が上がる。
「そうだろうね、言ってしまえば、保守派も、革新派も比良野色把という人間そのものは必要とはしていないよ。世間知らずのお嬢様、だもんね君は」
傍らの肘掛にカナエは寄りかかり、足を投げ出すカナエ。
「必要なのは、君の体に流れる『血』さ。代々黒古志家の神を奉ってきた神子の家系『比良野家の血』だよ。君は、保守派と革新派のことは知っているよね」
カナエの質問に、色把は頷く。
「保守派は、狗鬼と籠女を古から続くしきたりに則って継続を望む者達が属する。革新派は、自らの力を現代の技術と融合させて、さらに高みを目指そうとしている者達が属している。比良野家ってのは、力の強い籠女が生まれやすくてね。どちらの派閥にしても、君の体に流れる血ってのは、魅力的なんだよ」
『そうだったんですね……』
「随分と暢気だね、これからも君は、保守派、革新派から付け狙われるんだぞ。……一つの選択肢を除いて、ね」
『一つの……選択肢?』
カナエの言葉に、色把は彼を見つめ、首をかしげた。
「本家、黒古志家の神子になれ。そうすれば本家の庇護を受け、君は安泰を手に入れることが出来る。手荒な仕打ちを受ける事もない。どうだ、悪い条件じゃないだろ?」
問われた色把に、ためらいが生じる。その様子を、カナエは見抜く。
「もう、君の祖母は死んで、家には誰もいないだろう? あんな広い家でたった一人で過ごすのか? 狗鬼も居ないのに? ……まさか、早池峰家に戻ろうなんて考えているのか?」
つるべ打ちにされる質問に、色把は視線を落としていたが、早池峰家の言葉に、思わず顔が上がる。
「あの家の狗鬼達は革新派だろう? 任務で君を攫い、保護をしたまでの女をずっとあの家に置いておくものか。戻って喜ぶ素振りを見せても、それは君の血が手に入ったから、だ」
カナエの言葉が、色把の胸に突き刺さる。色把の心中がどよめく。
『そうなのでしょうか……』
早池峰修造は、あの屋敷に滞在しても構わない、と言ってくれ、色把もあの屋敷の雰囲気に安らぎを感じ始めていたところであった。
だが、カナエの言う通りなのだろうか、あの菊塵も、哭士も、自身の派閥のために自分に接していただけ……なのだろうか。色把は早池峰家の人間を数日間近くで見、カナエの言うような人間達には到底思えなかったのだ。
現に、哭士は比良野家に戻りたがる自分の願いを聞き届け、自分を守りながら同行してくれた。その事が、色把の中で大きなものになっていた。
色把の言葉に、一瞬、苛立ったような表情を見せたカナエだったが、その表情はすぐに掻き消えた。
「早池峰家が随分お気に召しているようだね」
色把の考えを見透かしているようだ。カナエは、色把に向かって不敵な笑みを見せた。
「大方、早池峰 哭士かな、……あの、契約が結べない不良品」
『そんな……!』
あまりのカナエの言葉に、思わず色把の口がついて出る。その色把の行動に、カナエが何かを掴んだようだ。
「彼は十七歳だったっけ。後僅かで時間切れ。……契約を結ばなければね」
菊塵から聞いてはいたが、だが、カナエの口から改めて聞くとやはり重みが違う。
「勿論、君も、駄目だったんだろう?」
色把は俯き、唇を噛んだ。
しばらくの間目を眇め、色把の様子を見ていたカナエ。徐に口を開く。
「……彼を助けてやろうか?」
『……!?』
信じられない言葉。色把は勢い良く顔を上げた。
「僕を誰だと思っている? 狗鬼を統べる本家の当主だぞ」
色把は、カナエの次の言葉を待つ。
「さっきも少し話したが、黒古志家には代々奉っている【神】がいる。籠女と狗鬼を生み出した強大な力をもった【神】だ。その【神】に掛かれば、一匹の狗鬼の制約など、簡単に解除できる。そして、その【神】と交渉するのが神子の役目。正確に意思を伝えるには、それなりの力量のある神子でなくてはならない。比良野の血であればそれは充分。……わかる、かな?」
哭士を救う代わりに、黒古志家の神子を担え、という事だろう。
「君がどう思おうと勝手だけどね、契約が結べなかった籠女を傍らに置いておくって事の方が、彼にとって苦痛なんじゃない? だったら、君は神子になり、彼の制約を外す。そちらの方が、皆が救われる、そうじゃないか?」
『……』
色把は、カナエの言葉に暫く黙り込んでいた。
『……分かりました。私に出来るのであれば……私は、本家の神子になります』
「はい、良く出来ました」
頬杖をついた表情が、冷たく笑った。