表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
189/190

終幕 羊達の行く先

 白い廊下を進み、幾度と通った部屋の扉を開き、菊塵は立ち尽くした。



 フユの眠っていた病室は物音も匂いも、菊塵の知っている物 全てが無くなっていた。

 一定の音を鳴らしていた心電図計も、窓際の花の匂いも、そして、ベッドに横たわる愛しい者の姿も無く、真っ平らになった空のベッドだけが静かに鎮座していた。

「……」

 菊塵は一歩、二歩と足を踏み出し、ベッドの前へと進んだ。

  明かりの消えた灰色の部屋に、冷たいシーツの白さが菊塵の視界に写り込んでいた。










「何か、お探し?」

 飛び込んできた声に、言葉に、菊塵は耳を疑った。

 顔を上げ、入り口に立つ人物を見つめる。



 細く白い足、茶色がかった長く艶めいた髪、自信に満ちた両の目。

 菊塵へ声をかけたその人物は照れ臭そうに鼻の頭を掻きながら、口を開いた。






「……おはよう」







 言い終わるか終わらぬかのうちに、身体は勝手に動いていた。次の瞬間には胸の中に抱きしめ、髪に顔を埋めていた。




――ああ知っている、この温かさと、柔らかい匂い。




 何度も夢にみた感覚がいまこの胸の中におさまっている。

 現実であると確かめるように強く強く抱きしめた。

 それに答えるように自身の背中に回された細い腕もしっかりと力を込め返してくる。



 夢では無いのだ。





「なーに泣いてるの」

 普段と何ら変わらない口調で、その人物は語りかける。

「……起きるの、遅いですよ」

 顔を上げずに言葉を紡ぐ。くすりと笑う小さな吐息。

 菊塵の頭に柔らかい手が載せられる。

「よしよし、頑張ったね。頑張ったね。ずっと待たせて、ごめんね」

 細い腰が折れてしまうかもしれない。それでも菊塵は、フユの体を強く抱きしめた。







          ※





 あの戦いから、季節が一巡りした。



 大きな荷物を背負いながら、ユーリは門の前に立った。

 殆ど毎日訪れていたこの家に、再び足を踏み入れるのは本当に久しぶりだ。


 また、変わりなく受け入れてくれるだろうか。

 また、いつものように面倒くさそうにも、温かく迎えてくれるのだろうか。

 一抹の不安を胸に抱きながら、一度だけ深く息をすった。

 



「おじゃましまーす」



 


 人の気配のする部屋に、ユーリは恐る恐る顔を出した。

 中には、修造、菊塵、フユの姿があった。

 修造は嬉しげに、ユーリへと声をかけ、座るようにと促した。

 その言葉に、ユーリは内心安堵する。





「ユーリ君。おひさしぶり。アキがもう知らないって言ってたよ」

 菊塵の影から顔を覗かせるフユに、ユーリはにやりと笑う。

「あいつだって仕事仕事で俺に全然構いやしなかったじゃないの。俺らはこのくらいで丁度いいんだよきっと」

 そう言いながら背負っていた大きな荷物を廊下に置く。

「今まで何処に行ってたんですか」

「あぁ、ちょっと母国まで」

 さらりと言い放つユーリ。菊塵は次の言葉を待った。

「カーちゃんに会ってきた」

 首筋を人差し指で掻きながら、目をそらすユーリ。狗鬼を知らずに生んだ母親は、ユーリを恐れていたと聞いている。

「実際、怖かったんだよね。また皿とか投げつけられるかと思ってたけど。でも、会ってみたら全然。喜んでた。しばらく親孝行してきたよ」

 そう語るユーリの目は優しく緩んでいる。自分語りが恥ずかしくなったのか、卓の中心に置かれた菓子皿から煎餅の袋を引っ張りバリバリと食べだした。



「それに一年も?」

「んにゃ、あとは日本だよ。もう一人会っておきたくて、あちこち探してた」

 母親とくれば、もう一人も察しがつく。

「……お父さん?」

 フユが問いかける。

「そうそう。あのダメ親父」

 煎餅を食べ終えたユーリは甘納豆が入った三角袋に手を出した。

「散々、俺らを振り回しておいていなくなっちまったんだ。一回ぶん殴りたかった」

「それで、会えた?」



「うん、会えた。女と一緒だった」

 特に表情も変えずに甘納豆を頬張っている。

「もう、マジふざけんなだよね。まだ知らない兄弟がいたらどうしようかと思ったぜ。あ、オバちゃん、お茶欲しいー」

 勝手知ったる何とやら、である。一年ぶりとはいえ慣れた口調で台所にいるマキに声をかける。

 マキは軽快に返事をしながらいつもと変わらぬ口調で『あらあらかなりお久しぶりですね』などと安穏な返事を返す。

「とりあえずスッキリしたよ。……千尋の事も、言えたしな」

 ユーリは小さく息を吐き出した。






 足音が近づいてくる。襖の外から声がかけられた。

「菊さん、いますか?」

 聞き覚えのある声に、ユーリもその方向へ顔を向ける。

 菊塵が返事をすると、顔を覗かせたのはクオウだった。



 ユーリの姿をみとめ、顔をゆがめる。

「げぇ、ユーリじゃん」

 言葉に対して顔は緩んでいる。

「げぇ、とは何だ。げぇとは。貴様またくすぐりの刑に遭いたいか!」

 言葉も早くクオウに飛びつくユーリ。

「大きくなったなお前!!」

「やめて! 本当やめて!!」

クオウは悲鳴を上げながらケタケタと笑う。

「ユーリ、静かにしてください」

 卓に置かれたお茶がこぼれない様に、さりげなく移動させる菊塵。



 笑いすぎて息を切らすクオウを開放し、ユーリは満足げに卓に戻った。

「クオウ、何か桐生さんから伝言でも?」

 まだ息が切れているクオウは、身体を起こして菊塵に顔を向けた。

「……ああ、あの……先生が、もう少ししたら向かってくれって……」

「わかりました」

 クオウは苦しげに座りなおし、天井を仰いだ。




「……なんでクオウの用事が桐生先生につながるわけ?」

 フユと菊塵が顔を見合わせる。

「……! 言わなくていいからな!!」

 みるみるうちに顔が赤くなるクオウ。そのまま逃げるように部屋を後にした。

「……何だありゃ」

 あっけにとられるユーリに、フユが「いいの」と笑う。

「んで、どこに行くって?」

「君も行くんですよ。少し時間があるので、先生のところにも顔を出してみるといいと思います」

 うんうん、と横のフユも頷いている。ユーリは意図がつかめず、小さく首をかしげた。




「ところで、二人揃ってじいちゃんに何の話してたの? 邪魔しちゃったかな」

 程よく冷めたお茶に手を伸ばし、ユーリが口を開く。


 ユーリの言葉にフユは菊塵を見つめた。

「ああ、結納の日取りの相談をですね」

 ユーリの目が大きく開かれる。

「おぉ! おめでとう!!」

「入籍は来年の春頃」

 フユが小さく語尾を上げた。ユーリは小さくおぉ、と声を出す。

「本当に俺の義兄様オニイサマになるかもねぇ」

 ちらりと菊塵の顔を見る。菊塵は大きく息を吐き出した。

「……本当、それだけが将来の不安ですよ」

 フユがけらけらと笑った。






      ※






 桐生診療所は早池峰家から歩いてすぐの距離だ。

 ユーリも何度か怪我で世話になった。今となっては懐かしい。


 玄関までたどり着くと、見慣れた小柄な人物の姿が目に入った。

「苑司!」

 嬉しげに声をかけると、苑司もユーリの姿を見とめ、驚きの声を上げる。

「ユーリ!」

 苑司がユーリへと駆け寄る。ユーリは苑司を見下ろした。

「クオウの方が大きくなったんじゃないの?」

「……それは言わないでよ……」

 しょんぼりと眉を下げる苑司。そんなことより、と続ける。

「今までどこに行ってたの!? 携帯も通じないから心配してたよ」

 苑司にも、今までユーリがどこへ行き、何をしていたのかを語る。苑司は黙ってそれを聞いていた。



「そうだったんだ……。でも、会えてよかった。桐生さんにね、挨拶してきたんだ。これから修造さんの所にも行くんだけど」

「挨拶?」

 苑司が頷く。

「僕、引っ越すんだ。もう、あの戦いから狗鬼の力もなくなっちゃったし、いつまでも修造さんのお世話になっていられないから」

 どこまで? への問いかけに、苑司は電車をかなり乗り継がなくてはならない場所を答えた。

 狗鬼ではなくなり、自分達と出会う前の生活に戻っていくのだと、ユーリは感じた。

「……そうか。寂しくなるな」

 思わず本心が漏れる。

「また会えるよ。……仲間でしょ」

 恥ずかしそうに笑う苑司に、ユーリも頷いた。

「……そうだな」

「じゃあ、またね」

「ああ」

 拳と拳をぶつけ合った。二人には、それだけで十分だった。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ