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6―5.契約

 見覚えのある建物の中だった。

「……本家か」

 古く長い廊下。かつて訪れた本家の夜と同じように、月の明かりで周囲の判別は可能だった。


 あたりはしんと静まり返り、人の気配はしない。歩みを進めるうちに、哭士の居る場所は本家のかなり奥の方であると気づいた。

 一体、自分が居る時代はいつのものなのか判別するすべを持たない哭士は仕方なしに本家の屋敷内を進む。




 強い花の香りがする。

 それが何の花なのか、哭士には分からない。


 行く当てもなく、本家の中を彷徨い歩くも、自分に関係のあるものは、見つかりそうに無かった。




 ふと、哭士の聴覚が異様な物音を捉えた。

 自然とその方向への足が早まる。何か、嫌な予感がする。

 破られた障子の部屋を見つけ、中に誰がいるかも考えずに開け放った。



「!!」





 一人の男が中央の布団に覆いかぶさる姿が目に飛び込んでくる。周囲は子供の玩具が散らかり、男の身体の下から、綺麗な着物が覗いている。

 小さな白い手が、首にかけられた太い腕を外そうと抗っている。

 部屋へ踏み込んだ哭士に目もくれず、男は身体の下に居る子供の首を絞め続けている。





「お前さえ死ねば お前さえ死ねば お前さえ死ねば……」





 呪詛のように繰り返される言葉。哭士の心中がざわめき出す。

 哭士は床を蹴った。だが、身体が重い。

 狗鬼の力が無くなっている今、渾身の力を込めて男の身体にぶつかった。


 大柄な男は哭士と共に畳へと倒れ込んだ。部屋に立っていた衝立が倒れる。

 血走った目で、男は哭士を睨んだ。



「何だ……! 貴様は……!」



 哭士は答えない。

 今、この時間がいつのものなのか、哭士は理解した。

 色把が声と記憶を失う、その瞬間だった。



 ちらりと、紅い着物の少女に視線を投げる。

 男の手からようやく開放され、小刻みに呼吸を繰り返していた。


「……まだ、生きていやがる……」

 男の目は正気を失っていた。





 男は色把を殺しにかかっている。

 色把を救えるのは、ここに居る自分だけだ。

 哭士は構えた。

 その哭士の様子に、男は無言で刃物を取り出した。

「……部屋が汚れるが仕方ない。お前が比良野の籠女を殺して自害した事にしてやるよ……!」

 月明かりに刃物が光る。


 男の突き出す刃物を持った腕を払い、男の顔面へと拳を叩き込む。

 だが男はそれを寸での所で避けた。そのまま組み合う形になる。

 哭士の動きに反応できている、男は狗鬼だった。


 狗石が砕け、力を失っている哭士が狗鬼に対抗できるかは分からない。

 それでも、哭士は男を掴む手に力を込めた。


 身体は戦い方を忘れては居ない。

 脇の下に肘を滑り込ませ足を払った。哭士に攻撃を加えようとしていた男の力ごと、畳へと倒す。

 倒れても男はひるまない。突き出した刃物で左頬に熱い線が走る。鮮血が溢れ出た。




 傍らに倒れていた行灯を叩きつける。

 僅かに怯んだ様子の男だったが、それもつかの間、哭士の身体が浮き上がった。

 男は馬乗りになった哭士の身体ごと持ち上げ、強かに顔を殴りつけた。

 鈍く熱を持ち始めるが、構うことなく哭士は一度畳を転がると、部屋の隅に置かれた琴を、男のわき腹に向かい、渾身の力を込めて叩きつける。

 僅かに男の反応が早く、避けられてしまった。


――しまった


 大きな物を振り回したことで、哭士に隙が生じた。

 狗鬼の力がある哭士なら、消して生まれぬ隙だった。




「…………ガッ!」

 がらりと空いたわき腹に、刃物が深々と突き立てられた。

 哭士の身体が揺らいだ。



 両膝をついた哭士に、男が歩み寄る。

 首を垂れた哭士の頭を、思い切り蹴りつけた。

 倒れた拍子に刃物が身体に更に突き刺さる。



「…………!」

 痛みよりも、熱さが傷口を襲った。

 喉から声が漏れそうになるのを、哭士は堪えた。







 そのときだった。

 男の背後から、黒い何かが現れる。

「……!」

 もう何度も味わったその空気に、哭士にはそれが何か、すぐに分かった。




――克彦の、残骸……!




 哭士が生まれた時間軸から、今度はこの時間へとやってきたらしい。

 もう、克彦とは分からない黒い塊は、それでも本能で血を求める。

 弱り、動きが止まりそうになりながらも、影は一番近くの獲物に手をかけた。

 男の足だった。



「何だ……! これは……!」

 足にまとわりつく影。じわじわと男の足を侵食していく。

「ああ……! あああああ!!」

 恐怖と恐慌で、男は叫ぶ。



 血を得るごとに濃くなる影。

 また力を得れば、色把が危険だった。



「……」

 だらだらと、とめどなく流れ出る血が、哭士の身体の右半分を濡らしていた。

 もう、ほとんど力は残っていない。




 だが、哭士は立ち上がった。あの影に力を与えてはいけない。

 外へと視線を寄越す。月が煌々と輝いている庭だ。


 迷っている時間は無かった。

 力を振り絞り男の腕を掴んだ。障子を突き破って庭へと転げ出る。




 砂煙を上げ、哭士と男は庭の砂利へと飛び出した。

 哭士ですら月明かりが眩しいと感じる。



 光を受けた影は、甲高い悲鳴をあげた。ますます身体を小さくしながら薄暗がりへと消えていく。

 もう、拳ほどの大きさしかなくなってしまっていた。



「……」

 哭士は影を追うことが出来なかった。

 ちらりと、足元に倒れている男を見る。

 男は、気を失っていたが生きてはいるようだった。だが、男にとどめを刺す力など、無い。 



 腹部から溢れ出る温度は徐々に身体を先端から冷やしつつあった。

 もう自分の身体は徐々に統制を失い、動かなくなるだろう。

 不思議と、後悔や恐れは無かった。

 非現実的な出来事ばかりが自身に起き、現実が飲み込めていないだけかもしれない。




 視界の端で紅い小さなものが動く。紅い着物に身をくるんだ幼子だ。


 哭士の本能が、何かを訴えかけようとしていた。

 思い通りに動かない身体を、ようやく起こし、縁側へと倒れこんだ。

 何とか身体を縁側へ乗せた哭士は幼子が倒れているところまで這うように移動した。

 哭士の這いずった後には赤い線が痛々しく引かれてゆく。



 ようやくその子供の元へとたどり着き、顔を覗き込む。

 幼い色把だった。面影が確かにある。

「……」

 これから色把は、祖母のみを頼りにこの殺伐とした本家の中を生きていく。

 記憶を失い、声を失い、そしてこの先、頼っていた祖母と育ってきた家を失い、一人になるのだ。

 そして、傷心のまま、哭士と出会う。



 色把の頭に手を添えた。さらさらとした前髪が横に流れ、額が顕になる。



「……」

 哭士の額が、ちりちりと何かを求めるようにざわめき出す。

 このような感覚は、同じ歳の色把を目の前にしても一度も無いことだった。

 目の前の、この人物を、哭士は守らねばならないと、強く感じた。


 自身に起きているこの感覚は、考えるより先に身体を動かした。







 哭士は、幼い色把の額に自らの額を重ねた。






「…………!!」

 今までに、感じたことの無い感覚が哭士を襲った。

 額から足の先へと、清らかなものが通り抜けていく。

 目の前の籠女を自身のものとし、庇護する役割を与えられた狗鬼の身体には、証が刻まれる。


 首の後ろが一瞬だけ熱を持った。契約の印が浮かんだ事を、哭士は見ずとも感じていた。

 目の前の少女は、気を失ったままだ。

 それでも、分かる。この少女との間に『つながり』が出来たことが。






――あぁ、こういう事だったのか…。






 哭士の首が落ちる。

 それきり、哭士の身体は動かなくなった。




 哭士の周囲から色が消え、暗闇が広がり、そして、白い穴が身体を飲み込んだ。

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